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第二十巻
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【第二十巻ノ1】
《二人の軍神》
日露戦争に於ける二人の軍神がいた。
私はこれから述べる二人の軍神を決して忘れない。
何故なら日露戦争を勝利に導いた日本陸軍と日本海軍の軍神だからである。
日本陸軍の軍神:橘周太
橘周太は慶応元年9月15日(1865年11月3日) から明治37年(1904年)8月31日)迄、生存した。
橘は、日本の陸軍軍人であり漢学者であった。
日露戦争における『遼陽の戦い』で戦死し、以後軍神として尊崇されている。
官位は陸軍歩兵中佐正六位勲四等功四級である。
渾名は軍神橘中佐である。
生誕地は肥前国高来郡であった。
死没は清 盛京将軍 遼陽である。
軍歴は
1887年から1904年迄の17年間。
最終階級は陸軍中佐である。
彼は歩兵第34連隊第1大隊を指揮した。
戦闘は当然、日露戦争である。
勲章は正六位勲四等功四級。
さて、軍神橘中佐の経歴である。
陸軍内で教育者としての地位を確立した橘であったが、明治37年(1904年)に日露戦争が開戦すると、新設の第2軍管理部長に任命されて、ついに念願の戦場に出征することになった。
橘は3月7日に上京して軍の動員業務に従事したが、18日には東宮御所に参内して東宮と面会した。東宮とは皇太子陛下である。
橘が出征の報告をすると東宮は「身を大切にし勉励せよ」と言葉をかけて金35円を下賜したのだ。
橘はこのときの感激を妻女ヱキに「殊に本日、皇太子陛下に拝謁の際にも、殿下より下の如き御詞を賜り覚えづ感泣したる次第なり」「此の事は一郎(長男)にも能く申聞け、御恩の高きことを心に刻み1日も、皇恩の大なること忘れざる様にすべし」「これまで自分が平常狂人の如く朝早く起きて運動せし如きも全く今日の為なり」と書き送っているが、橘はこれまでの軍人人生で、戦場の第一線で奮戦して名誉の戦死を遂げることを念願とし、戦場で息切れしないため、朝早く起きてマラソンをし、敵との白兵戦を勝ち抜くため、大勢を相手に銃剣術の訓練をし、また得意の剣術も磨いてきたが、その日が近づいてきたことの喜びと決意を新たにしている。橘中佐は正に日本軍人の鏡であると私は今でも思っている。
4月21日に橘ら第2軍司令部は第一八幡丸に乗船し宇品港を出港した。
しばらく海上で待機した後、5月7日に遼東半島に上陸した。
ようやく戦場に到着した橘は最前線での勤務を願っていたが、最初の軍務は軍管理部長としての後方支援業務となったのであった。
第2軍には小説家の田山花袋が博文館所属の従軍記者として取材していたが、田山は軍務で関わった橘に心酔し、のちに出版した従軍記『第二軍従征日記』には頻繁に橘が登場するようになる。
その記述によると、ある日、田山が従軍記者の荷物の管理について直接橘に陳情に行くと、橘は気さくに「やぁ、博文館の写真班か、君たちの荷物は何件あるか」と応じ、田山の説明を「む、よし、よし」と相槌を打ちながら聞くと、てきぱきと対応してしまった。このように、田山ら従軍記者は橘の配慮によって円滑に取材活動を進めることができ、非常に世話になったと同時の回顧録に感謝の記述がある。また管理部長であった橘の任務の一つが、内地より送り込まれてくる増援や補給物資の揚陸や輸送の手配であったが、天候不良が続く中で昼も夜もなく指揮を続けた橘の尽力もあって円滑に行われているのだ。
同年8月には歩兵第34連隊第1大隊長に転出して初めて実戦部隊の指揮を執ることとなった。陸軍内では橘の人柄は既に知れ渡っており、 橘が大隊長として着任すると、大隊の兵卒は歓声を挙げて橘を迎え入れたという。
橘はここでも、今までの指導経験の通り「家族主義」を貫き、例えば、連隊本部から酒類や甘味品などが支給された場合は、それがどんなに少量であろうが、階級に関係なく平等に分配したという。
戦場での兵卒の数少ない愉しみは飲食であるが橘はそれを熟知しており、不公平感が生じないように細心の注意を払ったいた。また兵卒が何らかの過失を犯した場合、単に厳罰に処するのではなく、必ずその情状を明らかにして懇切丁寧に訓諭して、兵卒を自暴自棄に陥らせることなくその良心に訴えるような指導を行っていた。
正に橘中佐は上官の鏡であった、と私は思っている。
そのため過失を犯した兵卒は深く反省し二度と同じ過ちを繰り返すことはなかったという。また兵卒が功績をあげれば、ことの大小を問わず熱心に賞賛したので、たちまち橘は大隊全兵卒から慕われて家族的な大隊を築き上げていったのである。
さて、遼陽の戦いが始まると、橘が所属する第3師団歩兵第34連隊は、遼陽のロシア軍前面陣地首山堡に向けて前進を続けた。8月26日に甘泉堡東北高地まで達して露営したが、夜を徹して豪雨がやまず、部下想いの橘はずぶ濡れになる部下兵士も見てその日の日記に「兵卒の苦労を察せられ落涙せり」と書いている。さらに前進を続ける橘は3月28日に八掛講でロシア帝国陸軍と接触し、ロシア軍大尉1名を捕虜として軍需品等を鹵獲したが、橘はこれを横領することはなくそのまま連隊本部に送っている。橘は常々「戦利品は一物といえども私すべきではない」と徹底しており、一切鹵獲品などを横領することはなかった。
この頃に橘は友人に向けて「帝国には軍神広瀬中佐(広瀬武夫)あり、敵国には軍神マカロフ将軍(ステパン・マカロフ)を出せり、小生も其尾に附せん事を自覚罷在候へ共、果して其末端を汚し得るや否や」と書き送り、また別の友人にも「鞍山店と遼陽の地を男子埋骨の地と決心す」と書き送るなど、これからの遼陽の戦いで自分が戦死して軍神になることを意識しているような言葉を遺していたが、実際にその橘の想いは実現することになってしまった。
非常に残念に思う。
8月31日の夜になってようやく天気が回復し、日本軍はロシア軍への全軍突撃を企画するが、橘が属する第2軍は統制がとれておらず、満洲軍総参謀長児玉源太郎に叱責される有様だった。しかし、橘の第一大隊は統制の取れない軍主力を尻目に首山堡の頂上に向けて遮二無二突進していた。
やがてロシア軍の陣地手前300mまで達すると、橘はロシア軍の陣地を念入りに偵察させたが、山頂までは複層に構築された縦深陣地となっているうえ、7合目ぐらいにある堡塁の手前から70m~80mの傾斜地は身を隠す遮蔽物すらないことが判明した。橘は状況を把握すると、指揮下の各中隊長に指示を出し、自らも軍刀(名刀:関の兼光)を抜刀して、先頭に立って進撃を開始した。ロシア軍陣地には多数の機関銃が配備されており、接近してくる橘大隊を掃射し、第一中隊長の大築大尉が機銃弾を浴びて戦死するなど死傷者が続出したのである。
やがて、遮蔽物のない開けた土地に橘大隊は到達したが、ロシア軍堡塁までの70m~80mを機銃掃射を浴びながら近づく以外方法がなかった。橘はわずかな窪地で機銃掃射をやりすごしながら次第にロシア軍堡塁に近づき、大隊の兵卒もそれに続いたが、先日までの長雨で斜面は泥濘となっており、足がとられて進撃もままならず、ロシア軍の機銃掃射でバタバタと橘大隊の兵卒はなぎ倒されていった。甚大な損害を被りながらも、どうにか橘大隊はロシア軍の第一線の堡塁の直下まで到達したが、橘はここで「敵塁を奪うか全滅するかだ」と全軍突撃を決意し、各中隊長に伝令を出した。やがて軍用ラッパを合図に橘大隊は全軍突撃を敢行したのだ。これは無謀な突撃であったと言える。
橘も関の兼光を振りかざしながら真っ先に堡塁に飛び込むと、たちまち数名のロシア兵を斬り伏せた。
その様子を見ていた大隊の兵卒は感激鼓動されて「大隊長を殺すな」と叫びながら橘に続いて、ロシア兵と激しい白兵戦を繰り広げたのだ。
橘は四方八方から銃剣を突き立ててくるロシア兵と関の兼光で渡り合っていたが、激戦のなかで右腕を銃弾で撃ち抜かれて、関の兼光を左手に持ち替えていた。その後しばらくは左腕1本で戦い続けたが、左手にも銃弾を受けて3本の指を失い、ついには関の兼光を落としてしまった。このように激しい白兵戦がしばらく続いたが、やがて生き残ったロシア兵は堡塁を棄てて山頂の堡塁に向けて退却していった。橘大隊は甚大な損害を被りながらもロシア軍の第一の堡塁を占領し、生き残った兵卒は万歳三唱したが、橘は冷静に今が戦機と判断すると、万歳の喚声が終わらぬうちに「第二堡塁に突っ込め」と命じ、自らが先頭に立って首山堡の頂上にある堡塁に突撃していったのだ。
山頂の堡塁からも激しい機銃掃射が浴びせられたが、橘は「敵の死骸を積んで掩体にせよ」と命じ、橘大隊はロシア兵の遺体を弾除けにしてじりじりと前進して行った。やがて、第4中隊長以下30人が先に頂上の堡塁に達してその一角の確保に成功した。しかし、一旦退散したロシア兵が左右から第4中隊に逆襲をしてきたので、橘は「皆、もう一息奮励せい、続いて突っ込め」と先頭に立って頂上の堡塁に向かって進み、橘らの勢いに押されたロシア兵が撤退を始めると「敵兵退却、追撃せよ」と命じながら山頂の堡塁に飛び込んだ。従う兵卒も喚声をあげながら橘に続き、負傷兵も地を這いながら橘に続いた。ついには橘大隊は首山堡の頂上を占拠し、橘に付き添っていた大隊本部書記の内田軍曹が大隊長旗を頂上に打ち立てたが、その時点で橘は数発の銃弾を受け重傷を負っていたのだ。
首山堡が攻略されると遼陽のロシア軍は日本軍に包囲されてしまうので、ロシア軍はすぐに逆襲に転じてきた。橘は防戦のために兵卒を呼集したが、攻撃当初は数百人いたはずの大隊も、橘の許に集まった兵卒は70人程度と1割も残っていなかった。やがてロシア兵が攻撃してきたが、その兵力は1個旅団相当の大軍であった。橘は重傷にもかかわらず、ロシア軍から奪取した堡塁上に仁王立ちすると「全員死すとも決して敵に渡すな。断じて敵を寄せ付けるな」と大軍の反撃に臆することもなく部下兵卒を鼓舞し続けたのだ。
激しい白兵戦が繰り広げられて、橘らは兵力で勝るロシア軍の反撃を幾度となく撃退したが、やがてロシア軍の支援砲撃が開始されて、そのなかの1発が堡塁の中でさく裂、仁王立ちして部隊指揮をしていた橘の腰部に砲弾の破片が命中して、ついに橘も倒れてしまった。
慌てて副官らが橘を抱き上げるが重傷で出血も激しかったので、副官は内田に橘の看護を命じると自らは前線に戻って行った。内田が橘の止血処理をしている最中にロシア兵の一隊が迫ってきたので、内田は一旦橘のもとを離れ周囲の生存兵を集めると、ロシア軍を迎撃してこれを撃退した。橘のもとに帰ってきた内田はロシア軍を撃退したことを報告し、橘の負傷は重症であることを伝えた。橘は「ご苦労であった」と内田を労を労うと、自分は軽傷だと強がって見せたが、ほとんど動くことはできなかった。このままでは橘が危ないと考えた内田は、頂上の堡塁を一旦は占領し、敵の逆襲も何度も撃退して橘大隊の目的使命は十分に果たしていると判断して、橘に前線の野戦病院までの撤退を進言した。
内田の進言を黙って聞いていた橘はやがて眼を見開き、軍刀を杖替わりに立ち上がろうとしたができなかったので、内田に咄嗟に抱きかかえられると、近くで戦ってた第3中隊長に「この高地を絶対に敵に渡すな」と命じたという。
その後、内田は橘を無理やりに背負うと、頂上から下り始めた。その橘と内田に対してもロシア兵は容赦なく銃弾を浴びせ、銃弾を避けられそうなくぼ地に達したときには橘は合計7発、内田も3発の銃弾を受けていた。内田は自分も重傷であるのにもかかわらず、橘に必死に止血処理を施しながら、堡塁内から持ってきた愛刀関の兼光を見せて励ましの言葉をかけ続けたが、関の兼光は激戦を潜り抜けてきた証として、刀身はロシア兵の血糊がつき鋸の歯のように刃こぼれし鍔も砕け散っていた。しかし、内田の懸命な止血にも関わらず橘の出血は止まることはなく、橘の口数も次第に減っていったのだ。
周囲では激戦が続いており、これ以上橘を動かすこともできず、進退窮まっていた内田に橘は「お前も負傷したか。どこをやられたか、気の毒であった。大切にせよ」「皆に世話になった」と温かい言葉をかけたあと、以下の最期の言葉を遺して眠るようにして息を引き取ったのである。
残念ながら天はわれに幸いしなかったようだな。とうとう最期がきたようだ。皇太子の御誕生日である最もおめでたい日に敵弾によって名誉の戦死を遂げるのは、私の最も本望とするところだ。ただ、残念ながら多くの部下を亡くしたのは、この上ない申し訳のたたないことだ。
橘には伊藤という従兵がいたが、橘は戦闘開始前に伊藤に対し「吶喊の声が盛んに起こり銃声が絶えたならいくさに勝ったので馬を連れてこい」「もしも、銃声が絶えないのなら苦戦して自分が戦死しているだろうから、屍を背負って帰れ」と命じていた。伊藤は橘の命令を守り後方で戦闘の様子をうかがっていたが銃声がやむ様子はなかったので、橘を救出しないといけないと考えて軽装のまま戦場に飛び出して行った。やがて奇跡的に橘を背負って首山堡から下ってくる内田と邂逅したが、すでに橘の息は絶えていたので、内田から橘を委ねられるとそのまま後方の陣地まで橘を背負って帰って行った。
他の証言によれば、橘は最期の言葉を遺した後もしばらくは息があり、眼に涙を浮かべていたが、そのまま動かなくなって午後6時ごろに息を引き取り、周りにいた軽傷者が急造の担架を作って橘の遺体を運び出したという。
首山堡の戦いは激戦となり、連隊長の関谷銘次郎大佐も戦死するなど歩兵第34連隊は大損害を被って撃退されたが、第2軍の猛攻による損害拡大を懸念していたロシア軍が、第1軍による世界戦史上でも稀有な全軍敵前渡河という大胆な作戦を目の当たりにして大いに動揺して撤退したため、遼陽の戦いは日本軍の勝利で終わったのである。
《日本海軍の軍神:広瀬武夫中佐》
広瀬武夫にはロシア人の恋人がいた。彼女の名前はアリアヅナ(アリアヅナ・アナトリエヴナ・コワリスカヤ)である。
広瀬武夫と初めて知り会ったのは彼女が16歳の時であった。
彼女の面影を広瀬は義姉春江に宛てた絵葉書に書いている。彼女を異国の恋人として紹介している。
二人の恋は広瀬武夫の戦死という結末で実らなかったのだ
アリアヅナにとっては悲しい恋の物語であった。
1868年、父広瀬重武、母トク(村田俊行の娘)として豊後竹田(後の大分県竹田市)に生まれる。幼少時に母親と死別し、祖母に育てられる。竹田の自宅が西南戦争により焼失し、一家で飛騨高山(後の岐阜県高山市)へ転居した。広瀬の父は岡藩権大属を退官した後、単身赴任で神奈川県などの裁判所を転々とし、飛騨高山の裁判所長になっている。
広瀬は飛騨高山の煥章小学校、後の高山市立東小学校を卒業し、小学校教師を務め、1885年に退職して攻玉社を経て江田島の海軍兵学校に入校した。
嘉納治五郎に講道館で柔道を学んだ。
1889年に卒業している。
入学時席次は19番、卒業時は80人中64番であったらしい。
兵学校卒業後、翌1890年(明治23年)2月まで軍艦「比叡」に乗船、二度にわたり遠洋航海をしている。
その間に少尉に任官になった。
半年だけ、測量艦「海門」の甲板士官となり、沿岸の測量、警備に従事している。
この時期、静岡県清水(後の静岡市清水区)に寄港し、清水次郎長の知遇を得る。
1894年(明治27年)の日清戦争に従軍し、1895年(明治28年)には大尉に昇進。1897年(明治30年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、ロシア貴族社交界と交友する。旅順港などの軍事施設も見学している。
その後ロシア駐在武官となり、1900年(明治33年)に少佐に昇進した。
1902年(明治35年)に帰国。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事した。
3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受け被弾。船を撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。
広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部に旅順要塞から発射されたロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。35歳だった。即日中佐に昇進している。
5日後、広瀬の遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるところをロシア軍によって発見され、戦争中であったが、ロシア軍は栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬したのだ。
広瀬武夫の墓所は青山霊園に、兄の勝比古と並んで墓所がある。
日本で初めて「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には1935年(昭和10年)に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元の黒川健士ほか数百名の手により広瀬を祀る広瀬神社が創建された。また文部省唱歌の題材にもなっている。
また、直撃を受けた際、近くにいた部下兵のそばを飛び散った肉片がかすめていった。その痕跡がくっきりと残った部下兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されているのだ。
また、広瀬が戦死した際に所持していた血染めの海図が、朝日の乗員から講道館に寄贈され、その後も講道館2階の柔道殿堂に展示されている。当時、嘉納治五郎は、広瀬の才能を高く評価していた。広瀬の戦死の報が伝えられた時、嘉納は人目もはばからず「男泣きに泣いた」という。
広瀬武夫像は大分県竹田市の広瀬神社に所在(2010年に竹田市歴史資料館に建立、2017年に広瀬神社に移設)。
ロシア駐在中に社交界ではロシア海軍省海事技術委員会であり、機雷敷設の専門家であったアナトリー・コワリスキー大佐の娘・アリアズナ・アナトーリエヴナ・コワリスカヤと知り合い、文通などを通じた交友があったことも知られている。
武夫の戦死を聞いた彼女は喪に服したと言う。
また、広瀬は漢詩人としても有名であった。
「正気歌」は、七生報国と至誠の情を熱く詠んだ七言古詩で、漢詩の選集にもよく採られている。広瀬がロシア滞在中、プーシキンの恋愛詩を漢詩に訳してアリアズナに贈った挿話も有名である。旅順港口閉塞作戦のとき「七生報国、一死心堅。再期成功、含笑上船」(七たび生まれて国に報ぜん。一死、心に堅し。再び成功を期し、笑みを含みて船に上る)という四言古詩を書き残したが、結局これが遺作となった。
広瀬は海軍兵学校時代、大運動会のマラソンで左足を骨膜炎に冒されながら完走した。一時は左足切断を宣告されたが、最終的には安静にすることで完治した。ただし、その後も時折左足の痛みには悩まされていたらしい。
日清戦争後、捕獲艦鎮遠の清掃活動で「一番汚い箇所からやるものだ」と便所掃除へ向かったという逸話がある。
躊躇する部下を尻目に、広瀬は爪で汚れを擦り落として部下に模範を示した。(爪を以て支那兵の枯糞を掻く)
柔道での得意技に豪快な俵返があった。彼が海軍軍人であったことから「大砲」と呼ばれていた。広瀬武夫の柔道はかなりの達人であったと言う。
講道館紅白戦で柔道の5人抜き(6人目で引き分け)により、二段に昇段している。
旅順閉塞戦で戦死すると、嘉納治五郎から忠勇を称えられ四段から六段へ昇段したのだ。講道館柔道殿堂入りも果たしている。
「駐在武官としてペテルブルク市に滞在時、ロシア軍の参謀本部の将校たち相手に柔道を教えたりもした。
後にモスクワ大使館に勤務した佐藤尚武によると、初めて下宿した家が偶然広瀬が元いた家族で、その家族は広瀬に対し、非常に尊敬と親愛の念を持っていたので、佐藤は広瀬が軍人として優れていただけでなく、人間的にも偉かったのだと考えたという。
ロシア駐在中にペテルブルク大学で日本語を教えていた黒野義文から頼まれたこともあり、後に海軍少将となる義文の二男・森電三の相談相手となり、格別の世話をしている。広瀬武夫は生涯独身であり、女性関係はあったものの極めて真面目で、遊廓に出入りすることも社交界で交際することも皆無だった。唯一の女性との関係はアリアヅナとの文通であったという。また女性とデートしても、部下への体面があるとして手を出さなかったという手紙が残っており、その手紙を石原慎太郎が所有している。
見習い士官だった頃、駿州の清水港に上陸する機会があった。この時、広瀬を含む50名程度の海軍軍人が名代の侠客清水次郎長を訪ねた。次郎長は座中一同を見渡し「いや、こう見たところで男らしい男は一匹もいねぇな」と言い放ったため、座中の中から広瀬が現れ「おうおう、そう言うなら、一つ手並みを見せてやるから、びっくりするな」と言って、いきなり鉄拳を固めて自分のみぞおちを50、60発続けざまに殴った。これには次郎長も「なるほど、お前は男らしい」と感心し、お互いに胸襟を開いて談話をしたという逸話が残されている。
兵学校で同期の財部彪に山本権兵衛の娘との縁談が持ち上がった際、「財部は将官間違いなしの優秀な男だが、閣下の娘を貰ったのではその縁で出世したかのように思われて財部のためにならないから、この縁談はやめてもらいたい」と山本に談じ込んだという。しかし、山本の妻・登喜子が「うちの娘は、権兵衛の娘であるがゆえに、いい人と結婚できないのでしょうか?」と泣きついたため広瀬も引き下がらざるを得ず、結局広瀬の死後にこの懸念は現実となった。
長い間、アリアヅナの父親はロシア海軍のコヴァレフスキー少将とされてきたが、2010年になって日露の研究者により、実際の父親は別の人物であったことが明らかとなっている。広瀬武夫は東京相撲(当時)の常陸山谷右エ門とは非常に親しく、義兄弟の関係を結んでいた。常陸山が横綱になった時、広瀬は日露戦争で戦地におり、常陸山の横綱姿を見られなかったため、土俵入りの写真を送って欲しいと手紙で常陸山に頼んでいた。
しかし、常陸山が送った写真が届く前に広瀬は戦死してしまい、「横綱常陸山」の姿を見ることはついに叶わなかったのだ。
このことは常陸山を非常に悲しませたが、これが元で後に広瀬は図らずも出羽ノ海一門全員の命の恩人となった。
『広瀬中佐』の歌を私は祖父から教えてもらったことがある。
その歌を皆様にご紹介しよう。
広瀬に関する歌は多数あるが最もよく知られているのは文部省唱歌『広瀬中佐』で、1912年(明治45年)『尋常小学唱歌 第四学年用』に初出。作詞作曲は不詳である。
「轟く砲音、飛来る弾丸、
荒波洗ふ デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び。
「杉野は何処杉野は居ずや」。
船内隈なく 尋ぬる三度、
呼べど答へず、さがせど見えず、
船は次第に 波間に沈み、
敵弾いよいよあたりに繁し。
今はとボートに 移れる中佐、
飛来る弾丸に 忽ち失せて、
旅順港外 恨みぞ深き、
軍神広瀬と その名残れど」
《二人の軍神》
日露戦争に於ける二人の軍神がいた。
私はこれから述べる二人の軍神を決して忘れない。
何故なら日露戦争を勝利に導いた日本陸軍と日本海軍の軍神だからである。
日本陸軍の軍神:橘周太
橘周太は慶応元年9月15日(1865年11月3日) から明治37年(1904年)8月31日)迄、生存した。
橘は、日本の陸軍軍人であり漢学者であった。
日露戦争における『遼陽の戦い』で戦死し、以後軍神として尊崇されている。
官位は陸軍歩兵中佐正六位勲四等功四級である。
渾名は軍神橘中佐である。
生誕地は肥前国高来郡であった。
死没は清 盛京将軍 遼陽である。
軍歴は
1887年から1904年迄の17年間。
最終階級は陸軍中佐である。
彼は歩兵第34連隊第1大隊を指揮した。
戦闘は当然、日露戦争である。
勲章は正六位勲四等功四級。
さて、軍神橘中佐の経歴である。
陸軍内で教育者としての地位を確立した橘であったが、明治37年(1904年)に日露戦争が開戦すると、新設の第2軍管理部長に任命されて、ついに念願の戦場に出征することになった。
橘は3月7日に上京して軍の動員業務に従事したが、18日には東宮御所に参内して東宮と面会した。東宮とは皇太子陛下である。
橘が出征の報告をすると東宮は「身を大切にし勉励せよ」と言葉をかけて金35円を下賜したのだ。
橘はこのときの感激を妻女ヱキに「殊に本日、皇太子陛下に拝謁の際にも、殿下より下の如き御詞を賜り覚えづ感泣したる次第なり」「此の事は一郎(長男)にも能く申聞け、御恩の高きことを心に刻み1日も、皇恩の大なること忘れざる様にすべし」「これまで自分が平常狂人の如く朝早く起きて運動せし如きも全く今日の為なり」と書き送っているが、橘はこれまでの軍人人生で、戦場の第一線で奮戦して名誉の戦死を遂げることを念願とし、戦場で息切れしないため、朝早く起きてマラソンをし、敵との白兵戦を勝ち抜くため、大勢を相手に銃剣術の訓練をし、また得意の剣術も磨いてきたが、その日が近づいてきたことの喜びと決意を新たにしている。橘中佐は正に日本軍人の鏡であると私は今でも思っている。
4月21日に橘ら第2軍司令部は第一八幡丸に乗船し宇品港を出港した。
しばらく海上で待機した後、5月7日に遼東半島に上陸した。
ようやく戦場に到着した橘は最前線での勤務を願っていたが、最初の軍務は軍管理部長としての後方支援業務となったのであった。
第2軍には小説家の田山花袋が博文館所属の従軍記者として取材していたが、田山は軍務で関わった橘に心酔し、のちに出版した従軍記『第二軍従征日記』には頻繁に橘が登場するようになる。
その記述によると、ある日、田山が従軍記者の荷物の管理について直接橘に陳情に行くと、橘は気さくに「やぁ、博文館の写真班か、君たちの荷物は何件あるか」と応じ、田山の説明を「む、よし、よし」と相槌を打ちながら聞くと、てきぱきと対応してしまった。このように、田山ら従軍記者は橘の配慮によって円滑に取材活動を進めることができ、非常に世話になったと同時の回顧録に感謝の記述がある。また管理部長であった橘の任務の一つが、内地より送り込まれてくる増援や補給物資の揚陸や輸送の手配であったが、天候不良が続く中で昼も夜もなく指揮を続けた橘の尽力もあって円滑に行われているのだ。
同年8月には歩兵第34連隊第1大隊長に転出して初めて実戦部隊の指揮を執ることとなった。陸軍内では橘の人柄は既に知れ渡っており、 橘が大隊長として着任すると、大隊の兵卒は歓声を挙げて橘を迎え入れたという。
橘はここでも、今までの指導経験の通り「家族主義」を貫き、例えば、連隊本部から酒類や甘味品などが支給された場合は、それがどんなに少量であろうが、階級に関係なく平等に分配したという。
戦場での兵卒の数少ない愉しみは飲食であるが橘はそれを熟知しており、不公平感が生じないように細心の注意を払ったいた。また兵卒が何らかの過失を犯した場合、単に厳罰に処するのではなく、必ずその情状を明らかにして懇切丁寧に訓諭して、兵卒を自暴自棄に陥らせることなくその良心に訴えるような指導を行っていた。
正に橘中佐は上官の鏡であった、と私は思っている。
そのため過失を犯した兵卒は深く反省し二度と同じ過ちを繰り返すことはなかったという。また兵卒が功績をあげれば、ことの大小を問わず熱心に賞賛したので、たちまち橘は大隊全兵卒から慕われて家族的な大隊を築き上げていったのである。
さて、遼陽の戦いが始まると、橘が所属する第3師団歩兵第34連隊は、遼陽のロシア軍前面陣地首山堡に向けて前進を続けた。8月26日に甘泉堡東北高地まで達して露営したが、夜を徹して豪雨がやまず、部下想いの橘はずぶ濡れになる部下兵士も見てその日の日記に「兵卒の苦労を察せられ落涙せり」と書いている。さらに前進を続ける橘は3月28日に八掛講でロシア帝国陸軍と接触し、ロシア軍大尉1名を捕虜として軍需品等を鹵獲したが、橘はこれを横領することはなくそのまま連隊本部に送っている。橘は常々「戦利品は一物といえども私すべきではない」と徹底しており、一切鹵獲品などを横領することはなかった。
この頃に橘は友人に向けて「帝国には軍神広瀬中佐(広瀬武夫)あり、敵国には軍神マカロフ将軍(ステパン・マカロフ)を出せり、小生も其尾に附せん事を自覚罷在候へ共、果して其末端を汚し得るや否や」と書き送り、また別の友人にも「鞍山店と遼陽の地を男子埋骨の地と決心す」と書き送るなど、これからの遼陽の戦いで自分が戦死して軍神になることを意識しているような言葉を遺していたが、実際にその橘の想いは実現することになってしまった。
非常に残念に思う。
8月31日の夜になってようやく天気が回復し、日本軍はロシア軍への全軍突撃を企画するが、橘が属する第2軍は統制がとれておらず、満洲軍総参謀長児玉源太郎に叱責される有様だった。しかし、橘の第一大隊は統制の取れない軍主力を尻目に首山堡の頂上に向けて遮二無二突進していた。
やがてロシア軍の陣地手前300mまで達すると、橘はロシア軍の陣地を念入りに偵察させたが、山頂までは複層に構築された縦深陣地となっているうえ、7合目ぐらいにある堡塁の手前から70m~80mの傾斜地は身を隠す遮蔽物すらないことが判明した。橘は状況を把握すると、指揮下の各中隊長に指示を出し、自らも軍刀(名刀:関の兼光)を抜刀して、先頭に立って進撃を開始した。ロシア軍陣地には多数の機関銃が配備されており、接近してくる橘大隊を掃射し、第一中隊長の大築大尉が機銃弾を浴びて戦死するなど死傷者が続出したのである。
やがて、遮蔽物のない開けた土地に橘大隊は到達したが、ロシア軍堡塁までの70m~80mを機銃掃射を浴びながら近づく以外方法がなかった。橘はわずかな窪地で機銃掃射をやりすごしながら次第にロシア軍堡塁に近づき、大隊の兵卒もそれに続いたが、先日までの長雨で斜面は泥濘となっており、足がとられて進撃もままならず、ロシア軍の機銃掃射でバタバタと橘大隊の兵卒はなぎ倒されていった。甚大な損害を被りながらも、どうにか橘大隊はロシア軍の第一線の堡塁の直下まで到達したが、橘はここで「敵塁を奪うか全滅するかだ」と全軍突撃を決意し、各中隊長に伝令を出した。やがて軍用ラッパを合図に橘大隊は全軍突撃を敢行したのだ。これは無謀な突撃であったと言える。
橘も関の兼光を振りかざしながら真っ先に堡塁に飛び込むと、たちまち数名のロシア兵を斬り伏せた。
その様子を見ていた大隊の兵卒は感激鼓動されて「大隊長を殺すな」と叫びながら橘に続いて、ロシア兵と激しい白兵戦を繰り広げたのだ。
橘は四方八方から銃剣を突き立ててくるロシア兵と関の兼光で渡り合っていたが、激戦のなかで右腕を銃弾で撃ち抜かれて、関の兼光を左手に持ち替えていた。その後しばらくは左腕1本で戦い続けたが、左手にも銃弾を受けて3本の指を失い、ついには関の兼光を落としてしまった。このように激しい白兵戦がしばらく続いたが、やがて生き残ったロシア兵は堡塁を棄てて山頂の堡塁に向けて退却していった。橘大隊は甚大な損害を被りながらもロシア軍の第一の堡塁を占領し、生き残った兵卒は万歳三唱したが、橘は冷静に今が戦機と判断すると、万歳の喚声が終わらぬうちに「第二堡塁に突っ込め」と命じ、自らが先頭に立って首山堡の頂上にある堡塁に突撃していったのだ。
山頂の堡塁からも激しい機銃掃射が浴びせられたが、橘は「敵の死骸を積んで掩体にせよ」と命じ、橘大隊はロシア兵の遺体を弾除けにしてじりじりと前進して行った。やがて、第4中隊長以下30人が先に頂上の堡塁に達してその一角の確保に成功した。しかし、一旦退散したロシア兵が左右から第4中隊に逆襲をしてきたので、橘は「皆、もう一息奮励せい、続いて突っ込め」と先頭に立って頂上の堡塁に向かって進み、橘らの勢いに押されたロシア兵が撤退を始めると「敵兵退却、追撃せよ」と命じながら山頂の堡塁に飛び込んだ。従う兵卒も喚声をあげながら橘に続き、負傷兵も地を這いながら橘に続いた。ついには橘大隊は首山堡の頂上を占拠し、橘に付き添っていた大隊本部書記の内田軍曹が大隊長旗を頂上に打ち立てたが、その時点で橘は数発の銃弾を受け重傷を負っていたのだ。
首山堡が攻略されると遼陽のロシア軍は日本軍に包囲されてしまうので、ロシア軍はすぐに逆襲に転じてきた。橘は防戦のために兵卒を呼集したが、攻撃当初は数百人いたはずの大隊も、橘の許に集まった兵卒は70人程度と1割も残っていなかった。やがてロシア兵が攻撃してきたが、その兵力は1個旅団相当の大軍であった。橘は重傷にもかかわらず、ロシア軍から奪取した堡塁上に仁王立ちすると「全員死すとも決して敵に渡すな。断じて敵を寄せ付けるな」と大軍の反撃に臆することもなく部下兵卒を鼓舞し続けたのだ。
激しい白兵戦が繰り広げられて、橘らは兵力で勝るロシア軍の反撃を幾度となく撃退したが、やがてロシア軍の支援砲撃が開始されて、そのなかの1発が堡塁の中でさく裂、仁王立ちして部隊指揮をしていた橘の腰部に砲弾の破片が命中して、ついに橘も倒れてしまった。
慌てて副官らが橘を抱き上げるが重傷で出血も激しかったので、副官は内田に橘の看護を命じると自らは前線に戻って行った。内田が橘の止血処理をしている最中にロシア兵の一隊が迫ってきたので、内田は一旦橘のもとを離れ周囲の生存兵を集めると、ロシア軍を迎撃してこれを撃退した。橘のもとに帰ってきた内田はロシア軍を撃退したことを報告し、橘の負傷は重症であることを伝えた。橘は「ご苦労であった」と内田を労を労うと、自分は軽傷だと強がって見せたが、ほとんど動くことはできなかった。このままでは橘が危ないと考えた内田は、頂上の堡塁を一旦は占領し、敵の逆襲も何度も撃退して橘大隊の目的使命は十分に果たしていると判断して、橘に前線の野戦病院までの撤退を進言した。
内田の進言を黙って聞いていた橘はやがて眼を見開き、軍刀を杖替わりに立ち上がろうとしたができなかったので、内田に咄嗟に抱きかかえられると、近くで戦ってた第3中隊長に「この高地を絶対に敵に渡すな」と命じたという。
その後、内田は橘を無理やりに背負うと、頂上から下り始めた。その橘と内田に対してもロシア兵は容赦なく銃弾を浴びせ、銃弾を避けられそうなくぼ地に達したときには橘は合計7発、内田も3発の銃弾を受けていた。内田は自分も重傷であるのにもかかわらず、橘に必死に止血処理を施しながら、堡塁内から持ってきた愛刀関の兼光を見せて励ましの言葉をかけ続けたが、関の兼光は激戦を潜り抜けてきた証として、刀身はロシア兵の血糊がつき鋸の歯のように刃こぼれし鍔も砕け散っていた。しかし、内田の懸命な止血にも関わらず橘の出血は止まることはなく、橘の口数も次第に減っていったのだ。
周囲では激戦が続いており、これ以上橘を動かすこともできず、進退窮まっていた内田に橘は「お前も負傷したか。どこをやられたか、気の毒であった。大切にせよ」「皆に世話になった」と温かい言葉をかけたあと、以下の最期の言葉を遺して眠るようにして息を引き取ったのである。
残念ながら天はわれに幸いしなかったようだな。とうとう最期がきたようだ。皇太子の御誕生日である最もおめでたい日に敵弾によって名誉の戦死を遂げるのは、私の最も本望とするところだ。ただ、残念ながら多くの部下を亡くしたのは、この上ない申し訳のたたないことだ。
橘には伊藤という従兵がいたが、橘は戦闘開始前に伊藤に対し「吶喊の声が盛んに起こり銃声が絶えたならいくさに勝ったので馬を連れてこい」「もしも、銃声が絶えないのなら苦戦して自分が戦死しているだろうから、屍を背負って帰れ」と命じていた。伊藤は橘の命令を守り後方で戦闘の様子をうかがっていたが銃声がやむ様子はなかったので、橘を救出しないといけないと考えて軽装のまま戦場に飛び出して行った。やがて奇跡的に橘を背負って首山堡から下ってくる内田と邂逅したが、すでに橘の息は絶えていたので、内田から橘を委ねられるとそのまま後方の陣地まで橘を背負って帰って行った。
他の証言によれば、橘は最期の言葉を遺した後もしばらくは息があり、眼に涙を浮かべていたが、そのまま動かなくなって午後6時ごろに息を引き取り、周りにいた軽傷者が急造の担架を作って橘の遺体を運び出したという。
首山堡の戦いは激戦となり、連隊長の関谷銘次郎大佐も戦死するなど歩兵第34連隊は大損害を被って撃退されたが、第2軍の猛攻による損害拡大を懸念していたロシア軍が、第1軍による世界戦史上でも稀有な全軍敵前渡河という大胆な作戦を目の当たりにして大いに動揺して撤退したため、遼陽の戦いは日本軍の勝利で終わったのである。
《日本海軍の軍神:広瀬武夫中佐》
広瀬武夫にはロシア人の恋人がいた。彼女の名前はアリアヅナ(アリアヅナ・アナトリエヴナ・コワリスカヤ)である。
広瀬武夫と初めて知り会ったのは彼女が16歳の時であった。
彼女の面影を広瀬は義姉春江に宛てた絵葉書に書いている。彼女を異国の恋人として紹介している。
二人の恋は広瀬武夫の戦死という結末で実らなかったのだ
アリアヅナにとっては悲しい恋の物語であった。
1868年、父広瀬重武、母トク(村田俊行の娘)として豊後竹田(後の大分県竹田市)に生まれる。幼少時に母親と死別し、祖母に育てられる。竹田の自宅が西南戦争により焼失し、一家で飛騨高山(後の岐阜県高山市)へ転居した。広瀬の父は岡藩権大属を退官した後、単身赴任で神奈川県などの裁判所を転々とし、飛騨高山の裁判所長になっている。
広瀬は飛騨高山の煥章小学校、後の高山市立東小学校を卒業し、小学校教師を務め、1885年に退職して攻玉社を経て江田島の海軍兵学校に入校した。
嘉納治五郎に講道館で柔道を学んだ。
1889年に卒業している。
入学時席次は19番、卒業時は80人中64番であったらしい。
兵学校卒業後、翌1890年(明治23年)2月まで軍艦「比叡」に乗船、二度にわたり遠洋航海をしている。
その間に少尉に任官になった。
半年だけ、測量艦「海門」の甲板士官となり、沿岸の測量、警備に従事している。
この時期、静岡県清水(後の静岡市清水区)に寄港し、清水次郎長の知遇を得る。
1894年(明治27年)の日清戦争に従軍し、1895年(明治28年)には大尉に昇進。1897年(明治30年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、ロシア貴族社交界と交友する。旅順港などの軍事施設も見学している。
その後ロシア駐在武官となり、1900年(明治33年)に少佐に昇進した。
1902年(明治35年)に帰国。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事した。
3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受け被弾。船を撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。
広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部に旅順要塞から発射されたロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。35歳だった。即日中佐に昇進している。
5日後、広瀬の遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるところをロシア軍によって発見され、戦争中であったが、ロシア軍は栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬したのだ。
広瀬武夫の墓所は青山霊園に、兄の勝比古と並んで墓所がある。
日本で初めて「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には1935年(昭和10年)に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元の黒川健士ほか数百名の手により広瀬を祀る広瀬神社が創建された。また文部省唱歌の題材にもなっている。
また、直撃を受けた際、近くにいた部下兵のそばを飛び散った肉片がかすめていった。その痕跡がくっきりと残った部下兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されているのだ。
また、広瀬が戦死した際に所持していた血染めの海図が、朝日の乗員から講道館に寄贈され、その後も講道館2階の柔道殿堂に展示されている。当時、嘉納治五郎は、広瀬の才能を高く評価していた。広瀬の戦死の報が伝えられた時、嘉納は人目もはばからず「男泣きに泣いた」という。
広瀬武夫像は大分県竹田市の広瀬神社に所在(2010年に竹田市歴史資料館に建立、2017年に広瀬神社に移設)。
ロシア駐在中に社交界ではロシア海軍省海事技術委員会であり、機雷敷設の専門家であったアナトリー・コワリスキー大佐の娘・アリアズナ・アナトーリエヴナ・コワリスカヤと知り合い、文通などを通じた交友があったことも知られている。
武夫の戦死を聞いた彼女は喪に服したと言う。
また、広瀬は漢詩人としても有名であった。
「正気歌」は、七生報国と至誠の情を熱く詠んだ七言古詩で、漢詩の選集にもよく採られている。広瀬がロシア滞在中、プーシキンの恋愛詩を漢詩に訳してアリアズナに贈った挿話も有名である。旅順港口閉塞作戦のとき「七生報国、一死心堅。再期成功、含笑上船」(七たび生まれて国に報ぜん。一死、心に堅し。再び成功を期し、笑みを含みて船に上る)という四言古詩を書き残したが、結局これが遺作となった。
広瀬は海軍兵学校時代、大運動会のマラソンで左足を骨膜炎に冒されながら完走した。一時は左足切断を宣告されたが、最終的には安静にすることで完治した。ただし、その後も時折左足の痛みには悩まされていたらしい。
日清戦争後、捕獲艦鎮遠の清掃活動で「一番汚い箇所からやるものだ」と便所掃除へ向かったという逸話がある。
躊躇する部下を尻目に、広瀬は爪で汚れを擦り落として部下に模範を示した。(爪を以て支那兵の枯糞を掻く)
柔道での得意技に豪快な俵返があった。彼が海軍軍人であったことから「大砲」と呼ばれていた。広瀬武夫の柔道はかなりの達人であったと言う。
講道館紅白戦で柔道の5人抜き(6人目で引き分け)により、二段に昇段している。
旅順閉塞戦で戦死すると、嘉納治五郎から忠勇を称えられ四段から六段へ昇段したのだ。講道館柔道殿堂入りも果たしている。
「駐在武官としてペテルブルク市に滞在時、ロシア軍の参謀本部の将校たち相手に柔道を教えたりもした。
後にモスクワ大使館に勤務した佐藤尚武によると、初めて下宿した家が偶然広瀬が元いた家族で、その家族は広瀬に対し、非常に尊敬と親愛の念を持っていたので、佐藤は広瀬が軍人として優れていただけでなく、人間的にも偉かったのだと考えたという。
ロシア駐在中にペテルブルク大学で日本語を教えていた黒野義文から頼まれたこともあり、後に海軍少将となる義文の二男・森電三の相談相手となり、格別の世話をしている。広瀬武夫は生涯独身であり、女性関係はあったものの極めて真面目で、遊廓に出入りすることも社交界で交際することも皆無だった。唯一の女性との関係はアリアヅナとの文通であったという。また女性とデートしても、部下への体面があるとして手を出さなかったという手紙が残っており、その手紙を石原慎太郎が所有している。
見習い士官だった頃、駿州の清水港に上陸する機会があった。この時、広瀬を含む50名程度の海軍軍人が名代の侠客清水次郎長を訪ねた。次郎長は座中一同を見渡し「いや、こう見たところで男らしい男は一匹もいねぇな」と言い放ったため、座中の中から広瀬が現れ「おうおう、そう言うなら、一つ手並みを見せてやるから、びっくりするな」と言って、いきなり鉄拳を固めて自分のみぞおちを50、60発続けざまに殴った。これには次郎長も「なるほど、お前は男らしい」と感心し、お互いに胸襟を開いて談話をしたという逸話が残されている。
兵学校で同期の財部彪に山本権兵衛の娘との縁談が持ち上がった際、「財部は将官間違いなしの優秀な男だが、閣下の娘を貰ったのではその縁で出世したかのように思われて財部のためにならないから、この縁談はやめてもらいたい」と山本に談じ込んだという。しかし、山本の妻・登喜子が「うちの娘は、権兵衛の娘であるがゆえに、いい人と結婚できないのでしょうか?」と泣きついたため広瀬も引き下がらざるを得ず、結局広瀬の死後にこの懸念は現実となった。
長い間、アリアヅナの父親はロシア海軍のコヴァレフスキー少将とされてきたが、2010年になって日露の研究者により、実際の父親は別の人物であったことが明らかとなっている。広瀬武夫は東京相撲(当時)の常陸山谷右エ門とは非常に親しく、義兄弟の関係を結んでいた。常陸山が横綱になった時、広瀬は日露戦争で戦地におり、常陸山の横綱姿を見られなかったため、土俵入りの写真を送って欲しいと手紙で常陸山に頼んでいた。
しかし、常陸山が送った写真が届く前に広瀬は戦死してしまい、「横綱常陸山」の姿を見ることはついに叶わなかったのだ。
このことは常陸山を非常に悲しませたが、これが元で後に広瀬は図らずも出羽ノ海一門全員の命の恩人となった。
『広瀬中佐』の歌を私は祖父から教えてもらったことがある。
その歌を皆様にご紹介しよう。
広瀬に関する歌は多数あるが最もよく知られているのは文部省唱歌『広瀬中佐』で、1912年(明治45年)『尋常小学唱歌 第四学年用』に初出。作詞作曲は不詳である。
「轟く砲音、飛来る弾丸、
荒波洗ふ デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び。
「杉野は何処杉野は居ずや」。
船内隈なく 尋ぬる三度、
呼べど答へず、さがせど見えず、
船は次第に 波間に沈み、
敵弾いよいよあたりに繁し。
今はとボートに 移れる中佐、
飛来る弾丸に 忽ち失せて、
旅順港外 恨みぞ深き、
軍神広瀬と その名残れど」
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