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第十九巻
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《第十九巻ノ1】
《秋山好古と明治陸軍》
秋山好古は騎兵の父として称えられている。
明治10年、陸軍士官学校の第3期生として、騎兵科に入学した秋山好古は師範学校卒業後騎兵将校として日本陸軍の騎兵を育て上げた。卒業が1年早く給料が早くもらえることを理由に騎兵科を選んだ好古だったが陸軍に騎兵の役割を広く普及させることを、生涯の仕事と任じた。何しろ創生期の日本陸軍には騎兵など無用であると言って憚らないものがあった。好古は若い騎兵将校らと「騎兵将校会」を発足させて騎兵研究を行い、また、日清日露戦争の戦役では、自らが育てた騎兵部隊を率いて騎兵の有効性を実証みせたのだった。日露戦争後は騎兵監として理想の騎兵を実現して、65歳で予備役となった。その後郷里の松山に帰り、北予中学校の校長となった。終生、福沢諭吉を尊敬していた好古は、陸軍騎兵少尉任官から予備役まで四十四年の歳月の殆どを騎兵の育成に費やし、軍服を脱いだ後も教育者としての人生を選んだのであった。
明治海軍には秋山真之がいた。明治陸軍には秋山好古がいた。この秋山兄弟が日露戦争に於いて、勝利へと導いた牽引役であったと言ってもいいだろう。
秋山 好古は
西暦1859年2月9日〈安政6年1月7日〉~西暦1930年〈昭和5年〉11月4日まで生存した。
日本の陸軍軍人であり教育者。
最終階級及び位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。通称は信三郎。予備役編入後は郷里の愛媛県松山市で私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)の校長を務めた。
私は秋山好古が大好きだ。皆さんに秋山好古の人物像について、どうしてもお話ししたい。
陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞され、日本騎兵の父とも呼ばれている。すでにこのことは冒頭に記している。
連合艦隊先任参謀として日本海海戦の勝利に貢献した秋山真之は実弟である。
さて、当時秋山好古はフランスに留学していた。
秋山好古の風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがあるほどだ。ハンサムであったのだ。
青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし、彼自身は「男子に美醜は無用」との価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなく、むしろ殊更に美醜を気にする考え方を嫌っていたと言われている。
士官学校教授だった小説家の内田百閒は「鈴木三重吉にそっくりの意地の悪そうな顔」とも記している。
酒を非常に好み、当時東京大学予備門を目指していた真之と暮らしていた時は、「秋山兄弟は茶碗一つで飯を食っている」と噂されるほど貧乏であったにもかかわらず、1日に5合は飲んでいたといわれている。また、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていたが、それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒を詰めていたという。騎乗で身を乗り出し従兵の水筒の酒を飲み干すなどの曲芸まがいのことができ、部下たちを感嘆させたという。酔って自分を見失ったり判断を誤ったりすることはなかったが、過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患い、足を切断している。
糖尿病は怖い。罹患して体の至る所に血液が行かななくなり、人体の組織が壊疽するのだ。私はサラリーマン時代、糖尿病に罹患した上司がいた。気の毒にその上司は両足を切断し、次に両腕を切断し、結局、達磨さんになった。人間達磨と言えるだろう。読者の皆さんに警告する。糖尿病は怖い病気であることを!健康管理には十分注意して欲しい。
さて、秋山好古の話しの続きである。
極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったという。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていたため、シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂うほどだった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にするように何度となく勧めたが、「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時、対処できない)」「風呂に入るためにこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていたという。まさに軍人の鏡である。
《秋山真之と明治陸軍》
この日露戦争に於いて明治海軍の将として名前を挙げるなら東郷平八郎と秋山真之であろう。
まず、秋山真之について、私の思うところをここに執筆する。
私は秋山真之を同じ人間として、尊敬している。秋山真之は一言で言い表すとこのように言えるだろう。
「真之は徹底して戦術を研究した人物である」と。
大学予備門を中退した秋山真之は、海軍兵学校に入学した。
海軍を選んだのは、「イギリスと似た島国の日本を考えれば、海軍の方が良いように思われた」からだという。海軍兵学校では「勉強をせずに首席になった」と言われた。
要点を掴み取ることに長けていた。真之の勉強の仕方は、過去の試験問題と教官の特性を徹底して研究したのだった。
明治35年、真之は、海軍大学校の戦術教官になった。「古今の陸海戦史、兵術書をよく研究し、これだと思うことを自分の兵理とせよ」
これが真之の持論であり、独自の「秋山流軍学」を解説した。
ロシア艦隊を仮想の敵国として、実践そのものの図上の演習を行い、旅順港の封鎖やバルチック艦隊の撃滅の方法などを学生たちと何度も研究し、最後にはそれを的確に解明して見せたのだ。
ここで真之の講義を受けた将校たちが、日露戦争で、連合艦隊の各舞台に参謀として配属され、真之の手足となって活躍したのである。
私はこのことを今の日本人に敢えて伝えたい。「人材を育てるとは、秋山真之のような指導者になれ!」と。
今の日本には残念ながら気骨のある指導者は一人もいない。厳しいことを言うようだが。
これからの日本に秋山真之のような指導者が現れることを期待したい。この指導者こそが日本版のキリストとであり、救世主なのだ。
秋山真之が学んだ海軍兵学校は、広島の江田島にあった。もともとは東京の築地にあった。なぜ移転したかと言うと、文明開花の波を受けて華やかになった築地は、生徒に好ましいからざる影響があると言う理由だった。
江田島は瀬戸内海の孤島にあり、築地からは兵学寮時代から合わせ340人の卒業生を送り出している。江田島からは昭和20年3月卒業の74期生まで1万847人が巣立っている。
現在の江田島の画像です。
次は明治海軍のリーダーであった東郷平八郎である。
ここでは簡単な説明に止める。
東郷 平八郎
西暦1848年1月27日〈弘化4年12月22日〉~西暦1934年〈昭和9年〉5月30日迄生存した。
享年86歳。
彼は日本の海軍軍人、最終階級は元帥海軍大将。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。
東郷神社は陸軍で乃木大将の神社が建立されたことを受けるように、海軍でも日露戦争で、バルチック艦隊を撃滅した連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将が亡くなった後、東郷神社が建立された。日本海海戦の戦場になった玄界灘を臨む福岡県の福津市など、東郷神社は幾つかあるが、東京にある原宿の東郷神社が名高いと言える。
この原宿にある東郷神社は敷地面積は一万坪あり、原宿の竹下通りのすぐ脇にあるとは思えない落ちついた佇まいである。
東郷平八郎は強運の将と言われている。東郷平八郎大将にあやかりたいと、今もなお、多くの受験生が参拝している。
また、東郷神社は結婚式場としても有名である。
東郷神社の画像です。
《秋山好古と明治陸軍》
秋山好古は騎兵の父として称えられている。
明治10年、陸軍士官学校の第3期生として、騎兵科に入学した秋山好古は師範学校卒業後騎兵将校として日本陸軍の騎兵を育て上げた。卒業が1年早く給料が早くもらえることを理由に騎兵科を選んだ好古だったが陸軍に騎兵の役割を広く普及させることを、生涯の仕事と任じた。何しろ創生期の日本陸軍には騎兵など無用であると言って憚らないものがあった。好古は若い騎兵将校らと「騎兵将校会」を発足させて騎兵研究を行い、また、日清日露戦争の戦役では、自らが育てた騎兵部隊を率いて騎兵の有効性を実証みせたのだった。日露戦争後は騎兵監として理想の騎兵を実現して、65歳で予備役となった。その後郷里の松山に帰り、北予中学校の校長となった。終生、福沢諭吉を尊敬していた好古は、陸軍騎兵少尉任官から予備役まで四十四年の歳月の殆どを騎兵の育成に費やし、軍服を脱いだ後も教育者としての人生を選んだのであった。
明治海軍には秋山真之がいた。明治陸軍には秋山好古がいた。この秋山兄弟が日露戦争に於いて、勝利へと導いた牽引役であったと言ってもいいだろう。
秋山 好古は
西暦1859年2月9日〈安政6年1月7日〉~西暦1930年〈昭和5年〉11月4日まで生存した。
日本の陸軍軍人であり教育者。
最終階級及び位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。通称は信三郎。予備役編入後は郷里の愛媛県松山市で私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)の校長を務めた。
私は秋山好古が大好きだ。皆さんに秋山好古の人物像について、どうしてもお話ししたい。
陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞され、日本騎兵の父とも呼ばれている。すでにこのことは冒頭に記している。
連合艦隊先任参謀として日本海海戦の勝利に貢献した秋山真之は実弟である。
さて、当時秋山好古はフランスに留学していた。
秋山好古の風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがあるほどだ。ハンサムであったのだ。
青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし、彼自身は「男子に美醜は無用」との価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなく、むしろ殊更に美醜を気にする考え方を嫌っていたと言われている。
士官学校教授だった小説家の内田百閒は「鈴木三重吉にそっくりの意地の悪そうな顔」とも記している。
酒を非常に好み、当時東京大学予備門を目指していた真之と暮らしていた時は、「秋山兄弟は茶碗一つで飯を食っている」と噂されるほど貧乏であったにもかかわらず、1日に5合は飲んでいたといわれている。また、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていたが、それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒を詰めていたという。騎乗で身を乗り出し従兵の水筒の酒を飲み干すなどの曲芸まがいのことができ、部下たちを感嘆させたという。酔って自分を見失ったり判断を誤ったりすることはなかったが、過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患い、足を切断している。
糖尿病は怖い。罹患して体の至る所に血液が行かななくなり、人体の組織が壊疽するのだ。私はサラリーマン時代、糖尿病に罹患した上司がいた。気の毒にその上司は両足を切断し、次に両腕を切断し、結局、達磨さんになった。人間達磨と言えるだろう。読者の皆さんに警告する。糖尿病は怖い病気であることを!健康管理には十分注意して欲しい。
さて、秋山好古の話しの続きである。
極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったという。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていたため、シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂うほどだった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にするように何度となく勧めたが、「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時、対処できない)」「風呂に入るためにこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていたという。まさに軍人の鏡である。
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この日露戦争に於いて明治海軍の将として名前を挙げるなら東郷平八郎と秋山真之であろう。
まず、秋山真之について、私の思うところをここに執筆する。
私は秋山真之を同じ人間として、尊敬している。秋山真之は一言で言い表すとこのように言えるだろう。
「真之は徹底して戦術を研究した人物である」と。
大学予備門を中退した秋山真之は、海軍兵学校に入学した。
海軍を選んだのは、「イギリスと似た島国の日本を考えれば、海軍の方が良いように思われた」からだという。海軍兵学校では「勉強をせずに首席になった」と言われた。
要点を掴み取ることに長けていた。真之の勉強の仕方は、過去の試験問題と教官の特性を徹底して研究したのだった。
明治35年、真之は、海軍大学校の戦術教官になった。「古今の陸海戦史、兵術書をよく研究し、これだと思うことを自分の兵理とせよ」
これが真之の持論であり、独自の「秋山流軍学」を解説した。
ロシア艦隊を仮想の敵国として、実践そのものの図上の演習を行い、旅順港の封鎖やバルチック艦隊の撃滅の方法などを学生たちと何度も研究し、最後にはそれを的確に解明して見せたのだ。
ここで真之の講義を受けた将校たちが、日露戦争で、連合艦隊の各舞台に参謀として配属され、真之の手足となって活躍したのである。
私はこのことを今の日本人に敢えて伝えたい。「人材を育てるとは、秋山真之のような指導者になれ!」と。
今の日本には残念ながら気骨のある指導者は一人もいない。厳しいことを言うようだが。
これからの日本に秋山真之のような指導者が現れることを期待したい。この指導者こそが日本版のキリストとであり、救世主なのだ。
秋山真之が学んだ海軍兵学校は、広島の江田島にあった。もともとは東京の築地にあった。なぜ移転したかと言うと、文明開花の波を受けて華やかになった築地は、生徒に好ましいからざる影響があると言う理由だった。
江田島は瀬戸内海の孤島にあり、築地からは兵学寮時代から合わせ340人の卒業生を送り出している。江田島からは昭和20年3月卒業の74期生まで1万847人が巣立っている。
現在の江田島の画像です。
次は明治海軍のリーダーであった東郷平八郎である。
ここでは簡単な説明に止める。
東郷 平八郎
西暦1848年1月27日〈弘化4年12月22日〉~西暦1934年〈昭和9年〉5月30日迄生存した。
享年86歳。
彼は日本の海軍軍人、最終階級は元帥海軍大将。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。
東郷神社は陸軍で乃木大将の神社が建立されたことを受けるように、海軍でも日露戦争で、バルチック艦隊を撃滅した連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将が亡くなった後、東郷神社が建立された。日本海海戦の戦場になった玄界灘を臨む福岡県の福津市など、東郷神社は幾つかあるが、東京にある原宿の東郷神社が名高いと言える。
この原宿にある東郷神社は敷地面積は一万坪あり、原宿の竹下通りのすぐ脇にあるとは思えない落ちついた佇まいである。
東郷平八郎は強運の将と言われている。東郷平八郎大将にあやかりたいと、今もなお、多くの受験生が参拝している。
また、東郷神社は結婚式場としても有名である。
東郷神社の画像です。
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