【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

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第五巻

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 武田信玄の武勇も越後の龍であった上杉謙信の存在があってこそである。

 この章では、上杉謙信について、語りたい。
 上杉 謙信うえすぎ けんしん或いは上杉 輝虎うえすぎ てるとらは、戦国時代に越後国など北陸地方を支配した戦国武将である。
  謙信は、享禄3年1月21日(1530年2月18日)にこの世に生まれた。
 そして天正6年3月13日(1578年4月19日)にこの世を去った。
享年49歳。いみじくもあの織田信長と同じ年齢でこの世を去っている。

 初名は長尾 景虎ながお かげとらである。
 関東管領・上杉憲政の養子となり、山内上杉家の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)、上杉 政虎うえすぎ まさとらと改名した。
 そして政虎は同家が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継いだ。
 後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には輝虎と名乗ったのだ。
 謙信は、さらに後に称した法号である。正式な姓名は、藤原 輝虎ふじわら の てるとらである。

 後世に於いては「敵に塩を送る」の逸話など、私利私欲に拘泥しない義の武将として知られている。
 一方で、最近の研究に於いては、利害を冷徹に判断しながら領土拡大に努力した戦国大名とする研究者が多くなっている。
現代でもこの謙信人気は健在であると言える。
 享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男(または次男、三男とも)として、春日山城に生まれる。母は同じく越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘・虎御前。主君・上杉定実から見て「妻の甥」であり、「娘婿(長尾晴景)の弟」にあたる。幼名の虎千代は、庚寅年生まれのために名づけられた。

 天文5年(1536年)8月、長尾為景は隠居し虎千代の兄・長尾晴景が家督を継いだのである。
 なお、晴景の生母は為景の正室であった上条氏(上杉弾正少弼)の娘(天甫喜清大姉)と考えられており、長尾一族とは言え既に為景の家臣化していた古志長尾家出身であった虎千代の生母は女房衆出身の妾であった可能性が高い。つまり、晴景とは腹違いの庶子である虎千代は元々長尾氏の後継者としては考えられておらずに初めから寺に入る予定であったと考えられている。
 虎千代は城下の林泉寺に入門し住職の天室光育の教えを受けたとされている。
武勇の遊戯を嗜み、左右の人を驚嘆させた。また好んで、一間四方の城郭模型で遊んでいた、という。後年、上杉景勝がこの模型を武田勝頼の嫡男信勝に贈っている。

 天文11年(1542年)12月、為景が病没したが、敵対勢力が春日山城に迫った為虎千代は甲冑を着け、剣を持って亡父の柩を護送したという逸話がある。

 天文12年(1543年)8月15日、虎千代は元服して、景虎と名乗った。この頃、景虎は古志郡にある栃尾城に入っているが、古志郡は古志長尾家の勢力圏にあることや古志長尾家の文書の一部が『上杉家文書』に含まれていることから、「為景の死後に家中に於ける立場が弱くなった虎御前が息子の景虎を連れて古志に戻った」「古志長尾家が外孫である景虎を当主として迎え入れた」などの見解も出されているのだ。
いずれにしてもこの史実はベールに包まれている。

 天文13年(1544年)春、晴景を侮って越後の豪族が謀反を起こし、栃尾城に攻め寄せたが、初陣の景虎はそれを撃退したのだ。世に言う栃尾城の戦いである。

ー(家督相続・越後統一)ー

 天文14年(1545年)10月、守護上杉家家臣で黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こした。黒田秀忠は守護代・晴景の居城である春日山城にまで攻め込み、景虎の兄・長尾景康らを殺害した後、黒滝城に立て籠もった。景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として軍の指揮を執り、秀忠を降伏させた。
これが黒滝城の戦いである。

 天文15年(1546年)2月、秀忠が再び兵を挙げるに及び再び、景虎を擁立して晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなっていった。
 ただし、その後の新史料の発見などで、黒田秀忠の謀叛が天文17年(1548年)10月の出来事であることが確実になったこと、黒田討伐の際に景虎が上杉定実の命令を受けていることから、黒田秀忠は後述の長尾政景らと共に晴景を支持する立場から兵を挙げたとする見方が有力になっている。
 このように史実は、わからないだらけなのだ。私のように歴史を執筆するものにとっては、悩みの種なのだ。

 天文17年(1548年)になると、晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようとの動きが盛んになる。その中心的役割を担ったのは、揚北衆の鳥坂城主・中条藤資と、北信濃の豪族で景虎の叔父でもある中野城主・高梨政頼であった。さらに栃尾城にあって景虎を補佐する本庄実乃、景虎の母・虎御前の実家である栖吉城主・長尾景信(古志長尾家)、与板城主・直江実綱、三条城主・山吉行盛らが協調し、景虎派を一致形成した。これに対し、坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)や蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実らは晴景についた。前述のように、黒田秀忠も晴景方であったと考えられているのだ。

 同年12月30日、守護・上杉定実の調停の下、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退した。
 景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、守護代となる。ただし、定実は単なる仲裁・調停役ではなく、晴景排除のために景虎擁立に動いた中心人物とする見方が有力になっている。

 天文19年(1550年)2月、定実が後継者を遺さずに死去した為、景虎は室町幕府第13代将軍・足利義輝から越後守護を代行することを命じられ、越後国主としての地位を認められたのである。

 同年12月、一族の坂戸城主・長尾政景が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。翌1月、景虎は政景方の発智長芳ほっち ながよしの居城・板木城を攻撃し、これに勝利した。さらに8月、坂戸城を包囲することで、これを鎮圧した。坂戸城の戦いである。
 降伏した政景は景虎の姉・仙桃院の夫であったこと等から助命され、以降は景虎の重臣として重くようになる。
ら政景の反乱を鎮圧したことで越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳で越後統一を成し遂げることが出来たのだ。

 天文21年(1552年)1月、相模国の北条氏康によって領国を追われた関東管領・上杉憲政を迎え入れ、御館に住まわせた。これにより北条氏康と敵対関係となった。

 天文21年(1552年)8月、景虎は平子孫三郎、本庄繁長等を関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、更に平井城・平井金山城の奪還に成功する。北条軍を率いる北条幻庵長綱は上野国から撤退、武蔵松山城へ逃れた。
 尚この年の4月23日、従五位下・弾正少弼に叙任されている。

 同年、武田晴信後の武田信玄の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時、村上義清らが長尾景虎に救いを求めて来たのである。

 天文21年(1552年)9月、景虎は初めての上洛を果たし、後奈良天皇および将軍・足利義輝に拝謁している。京で参内して天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。この上洛時に堺を遊覧し、高野山へ詣で、京へ戻って臨済宗大徳寺91世の徹岫宗九てっしゅうそうくの下に参禅して受戒し、「宗心」の戒名を授けられた。

 天文22年(1553年)4月、信濃国埴科郡葛尾城主の村上義清は武田晴信の率いる武田軍との抗争に敗れて葛尾城を脱出し、越後の長尾景虎に援軍を要請した。村上義清は景虎から援軍を与えられ一時は葛尾城を奪還したものの、武田軍に抗しきれず同年8月村上義清は越後国へ亡命した。 

ー(第一次川中島の戦い)ー

 ここに及んで長尾景虎は晴信討伐を決意し、自ら軍の指揮を執り信濃国に出陣した。

 天文22年(1553年)8月30日、景虎の率いる長尾軍は「布施の戦い」で晴信の率いる武田軍の先鋒を撃破したのだ。

 天文22年(1553年)9月1日、景虎は八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻して荒砥城や虚空蔵山城を攻め落とし、青柳城へ放火した。これに対し晴信は本陣を塩田城に移し、決戦を避けた。その後、武田軍と長尾軍との間では、武力衝突は起きず、膠着状態が続いた。長尾軍は9月に越後へ引き上げた

 天文23年(1554年)、家臣の北条高広が武田と通じて謀反を起こす。
天文24年(1555年)。景虎は自らが出陣して高広の居城・北条城を包囲し、これを鎮圧した。北条城の戦いである。
らこの時、北条高広は帰参を許された。この間、武田晴信は善光寺別当・栗田鶴寿を味方につけ旭山城を支配下に置いた。

ー(第二次川中島の戦い)ー

 天文24年(1555年)4月、景虎は武田軍を迎撃する為、再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙したのた。
 また、裾花川を挟んで旭山城と相対する葛山城を築いて付城とし、旭山城の武田軍を牽制させた。景虎は、犀川の渡河を試みるなど攻勢をかけたものの、小競り合いに終始して決着はつかなかった。その後、武田軍と長尾軍の双方のにらみ合いは5ヶ月に及び、最終的に駿河国の今川義元の仲介の下で和睦となったのである。

 弘治2年(1556年)3月、景虎は家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で心身が疲れ果てたため、突然出家・隠居することを宣言した。

 弘治2年(1556年)6月、景虎は天室光育に遺書を託し(『歴代古案』)、春日山城をあとに高野山に向かった。

しかしその間、武田晴信に内通した家臣・大熊朝秀が反旗を翻して謀反を起こした。

 天室光育、長尾政景らは、このことを急いで景虎に知らせた。周囲からの説得で出家を断念した景虎は越後国へ帰国する。
 そして、一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破ったのである。世に言う駒帰の戦いである。

 弘治3年(1557年)2月、武田晴信は盟約を反故にして長尾軍の葛山城を攻略する。更に信越国境付近まで進軍し、景虎方の信濃豪族・高梨政頼の居城・飯山城を攻撃した。景虎は政頼から救援要請を受けるも、信越国境が積雪で閉ざされていたため出兵が遅れることになった。

ー(第三次川中島の戦い)ー
 弘治3年(1557年)4月、雪解けの始まった頃、景虎は再び川中島に出陣した。
 その後、長尾軍は高井郡山田城、福島城を攻め落とし、長沼城と善光寺を奪還した。横山城に着陣して、さらに破却されていた旭山城を再興して本営としたのである。

 弘治3年(1557年)5月、景虎は武田領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍した。しかし、武田軍は、深志城から先へは進まず長尾軍との決戦を避けた。

 弘治3年(1557年)7月、武田軍の別働隊が長尾軍の安曇郡小谷城を攻略する。一方の長尾軍は背後を脅かされたため、飯山城まで兵を引き、高井郡野沢城・尼巌城を攻撃する。

 弘治3年(1557年)8月、武田軍と長尾軍は髻山城近くの水内郡上野原で交戦するも、決定的な戦いではなかった。

 弘治4年(1558年)、将軍・義輝から上洛要請があり、長尾景虎は翌年に上洛することを伝える。また『宇都宮興廃記』によれば同年、長尾軍は上野国経由で下野国に侵攻し、小山氏の祇園城と壬生氏の壬生城を攻略、さらに宇都宮氏の宇都宮城を攻略するために多功城、上三川城を攻めるが、多功城主の多功長朝によって先陣の佐野豊綱が討ち取られると軍が混乱したために景虎は軍を引き上げた。多功長朝率いる宇都宮勢は上野白井城まで景虎を追撃してきたが、武蔵岩槻城主の太田氏の仲介によって和睦をしている。その翌年の永禄2年(1559年)3月、高梨政頼の本城・中野城が武田方の高坂昌信の攻撃により落城したのだ。
 景虎が信濃国へ出兵できない時期を見計って、晴信は徐々に善光寺平を支配下に入れていった。

ー(小田原城の戦い)ー

 永禄2年(1559年)5月、長尾景虎は再度上洛して、正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。室町幕府の記録『後鑑』(江戸時代末期に江戸幕府が編纂)には、『関東管領記』『関東兵乱記(相州兵乱記)』『春日山日記(上杉軍記)』を出典として掲載されている。

 また、景虎はこの時、内裏修理の資金を献上したともいうが、朝廷の記録である『御湯殿上日記』には、「永禄3年6月18日に、越後の長尾(景虎)が内裡修理の任を請う」という記述があるだけで、年次や記述内容に違いがある。『言継卿記』には、「永禄2年5月24日、越後国名河(長尾)上洛云々、武家御相判御免、1,500人。」という記述であり、上杉家譜などの兵5,000という記述と異なる。
なお、天野忠幸氏はこの年に景虎だけではなく、織田信長や斎藤義龍も急遽上洛していることに注目している。この前年である永禄元年、足利義輝と三好長慶の戦いは長慶が正親町天皇の支持を取り付けて有利な形で和睦しており、曲りなりにも存続してきた室町将軍を頂点とする秩序が大きな打撃を受けた。このため、足利義輝との関係を維持することで権威を保ってきた諸大名たちが動揺したのを心配して、その状況を確かめるために景虎が越後から上洛に踏み切ったのではないか、と推測している。

 長尾景虎と足利義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕府の重臣である大舘晴光を派遣して長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し、三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の違いが大きく実現しなかったという経緯がある。
 永禄3年(1560年)3月、越中国の椎名康胤が神保長職に攻められ、長尾景虎に支援を要請した。これを受け景虎は初めて越中へ出陣、神保長職の居城・富山城を落城させた。その後、神保長職は増山城に逃げたが、長尾軍はその城も攻め落してた。城を失った神保長職は逃亡して、椎名康胤を助けた。

 永禄3年(1560年)5月19日、織田信長の奇襲により桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にした。これは、甲相駿三国同盟の一つ今川氏が崩れたことになり、長尾景虎は、相模の北条氏康を討伐することを決断し、長尾軍は関東へ向けて侵攻した。三国峠を越えて、上野国に入った長尾景虎は、長野業正らの支援を受けながら小川城、名胡桃城、明間城、沼田城、岩下城、白井城、那波城、厩橋城など北条方の諸城を次次と攻略した。厩橋城を関東における長尾軍の拠点とし、この城で、長尾景虎は越年した。この間、景虎は関東の諸将たちに対して北条討伐の号令を下し、檄を飛ばして参陣を求めたのである。

 永禄4年(1561年)閏3月16日、長尾景虎は、上杉憲政の要請もあって鎌倉の鶴岡八幡宮に於いて山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉 政虎まさとらと改めたのである。
 元々、上杉家は足利宗家の外戚として名門の地位にあり、関東管領職はその縁で代々任じられてきた役職であった。長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の本姓が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。就任の許可は将軍・足利義輝から直々に貰い、関東管領職の就任式の際には、御先士大将を宇佐美駿河守定満・柿崎和泉守景家・甘粕近江守景持・河田豊前守長親が務め小幡三河守が太刀持ちを務めた。
ただし、『藩翰譜』によると、政虎自身が上杉頼成の男系子孫であるという記述がある。『応仁武鑑』や『萩原家譜案』にも、上杉頼成の男子(長尾藤景)が長尾氏へ入嗣した旨が記されている。しかし、他の系図では上杉家から養子を迎えたのは下総国に分家した長尾であって、越後長尾氏には直接関係無いとする系図がほとんど(景為あるいは景能の流れ)である。実際の血統が繋がっていなくとも、長尾家も佐竹家と同じく上杉家からの養子を迎えた家系ということになるのだ。

 なお、山内上杉家では、室町時代後期に関東管領が天皇の綸旨にて任じられた事がある経緯から、関東管領職が朝廷の官職と同一とみなされていた。上杉顕定以降の関東管領は朝廷から任官を受けたり官途名を名乗ったりする事は無く仮名けみょうを名乗り続け、関東管領前に任官を受けたり官途名を名乗っていた者は以降の官位を受けずに就任前の名乗りを続けていた(公式には官職名や官途名が優先されるため)。謙信が関東管領就任以降に官位を受けずに「弾正少弼」のままでいたのはその慣例に従ったとみられている(先例として顕定の前任者で管領就任後も兵部少輔を称し続けた上杉房顕がいる)。

ー(第四次川中島の戦い)ー

 この頃、武田軍は北信地方へ侵攻していたが、『甲陽軍鑑』によれば関東から帰国後の永禄4年(1561年)8月、上杉政虎は1万9000人の兵を率いて川中島へ出陣したのである。
 上杉軍は荷駄隊と兵5,000人を善光寺に残し、1万4000人の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、妻女山に布陣した。その後、上杉軍は八幡原で武田軍と対戦。双方に多数の死傷者を出した後、越後に撤退した。
第4次川中島の戦いを機に、北信をめぐる武田・上杉間の抗争は収束し、永禄後年には武田・上杉間をはじめ東国や畿内の外交情勢は大きく変動していく。

 永禄4年(1561年)11月、武田軍は西上野侵攻を開始し、北条氏康も関東において武田氏と協調して反撃を開始し、上杉政虎が奪取していた武蔵松山城を奪還すべく攻撃した。これを受けて上杉政虎は同月、再び関東へ出陣、武蔵国北部において氏康と戦い、敗北した。生野山の戦いである。さ
その後、古河御所付近から一時撤退する(『近衛氏書状』)。その結果、成田長泰や佐野昌綱を始め、武蔵国の同族上杉憲盛が北条方に降ってしまう。政虎は寝返った昌綱を再び服従させるため下野唐沢山城を攻撃するが、関東一の山城と謳われる難攻不落のこの城を攻略するのに手を焼いた。これ以降、政虎は唐沢山城の支配権を得るため昌綱と幾度となく攻防戦を繰り広げることになる。唐沢山城の戦いである。

 永禄4年(1561年)12月、上杉政虎は将軍・足利義輝から一字を賜り、諱を輝虎てるとらと改めたのだ。輝虎は越後へ帰国せず、上野厩橋城で越年する。

 関東の戦線は当初、上杉軍が大軍で北条氏の小田原城を攻囲するなどして、輝虎ら上杉方が優勢であったが、その後、関東の各地で武田軍・北条軍に相次いで攻撃されて、上杉軍は劣勢を強いらることになる。

 これらの動きに対し、関東の諸将たちは、輝虎が関東へ出兵してくれば上杉方に恭順・降伏し、輝虎が越後国へ引き上げれば北条方へ寝返ることを繰り返した。武田信玄と同盟して関東で勢力を伸ばす北条氏康に対し、輝虎は安房国の里見義堯・義弘父子と同盟を結ぶことで対抗したのである。

 永禄5年(1562年)、上杉軍は上野館林城主の赤井氏を滅ぼしたが、佐野昌綱が籠城する唐沢山城を攻めたものの落城させるには至らなかった。

 7月、越中国に出陣し、椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。しかし、輝虎が越後国へ戻ると再び長職が挙兵したため、9月に再び越中国へ取って返し、神保長職を降伏させた。
ところが、上杉軍が関東を空けている間に、武蔵国における上杉方の拠点・松山城が再度、北条方の攻撃を受けた。信玄からの援軍を加え、5万人を超える北条・武田連合軍に対し、松山城を守る上杉軍は寡兵であった。既に越後国から関東へ行く上越国境の三国峠は雪に閉ざされていたが、輝虎は松山城を救援するため峠越えを強行。12月には上野沼田城に入った。兵を募って救援に向かったものの、永禄6年(1563年)2月、間に合わず松山城は落城した。
しかし、輝虎は反撃に出て武蔵国へ侵攻、小田朝興の守る騎西城を攻め落とし、朝興の兄である武蔵忍城主・成田長泰を降伏させた。次いで下野に転戦して、4月には唐沢山城を攻め佐野昌綱を降伏させ、小山秀綱の守る下野の小山城も攻略。さらに、下総国にまで進出し、秀綱の弟である結城城主・結城晴朝を降伏させ、関東の諸城を攻略した。 
 尚この年、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたが直ぐに奪回し、北条高広を城代に据えている。閏12月に上野和田城を攻めた後、この年も厩橋城で越年する。

 永禄7年(1564年)4月、北条方へ寝返った小田氏治を討伐するため常陸国へ攻め入り、28日に山王堂の戦いで氏治を破り、その居城・小田城を攻略した。

 同年2月、三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野国へ出陣し、唐沢山城に攻め寄せた。唐沢山城の戦いである。しかし、この時の戦いは10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦の中でも、最大の激戦となった。
 輝虎は総攻撃をかけるも、昌綱は徹底抗戦した。結局、昌綱は佐竹義昭や宇都宮広綱の意見に従い降伏することになる。

 輝虎は義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。
3月、上野国の和田城を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国した。

ー(第5次川中島の戦い)ー

 永禄7年(1564年)4月、蘆名盛氏軍が武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだが、上杉軍は蘆名軍を撃破した。その間に武田軍は信濃国水内郡の野尻城を攻略したが、上杉軍はこれを奪還した。一方で、蘆名盛氏は輝虎とも関係を深めており、永禄6年には既に事実上の同盟関係にあったとする説もあるのだ。

 永禄7年(1564年)8月、輝虎率いる上杉軍は信玄率いる武田軍と川中島で再び対峙した。第五次川中島の戦いである。60日に及ぶ対峙の末に上杉軍は越後に軍を引き、決着は着かなかった。 

 これ以降、輝虎と信玄が川中島で相見えることはなかった。

 10月、佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため上杉軍は唐沢山城を攻撃し、佐野昌綱を降伏させると人質をとって帰国した。

ー(関東の上杉方諸将の離反)ー

 永禄8年(1565年)2月、越前守護・朝倉義景が一向一揆との戦いで苦戦していたため、輝虎に救援を要請する。

3月、関東の中原を押さえる要衝・関宿城が北条氏康の攻撃に晒される。第一次関宿合戦である。
 氏康は岩付城や江戸城を拠点に、利根川水系など関東における水運の要となるこの城の奪取に傾注していた。輝虎は、関宿城主・簗田晴助を救援するため下総国へ侵攻、常陸の佐竹義重(佐竹義昭の嫡男)も関宿城へ援軍を送る。このため氏康は攻城を中断、輝虎と戦わずして撤退した。

 5月、将軍・足利義輝が三好義継・三好三人衆・松永久通らの謀反により、二条御所で殺害された(永禄の変)。輝虎はこの報を伝え聞くと憤慨し、「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓ったほどであった。

 6月、信玄が西上野へ攻勢をかけ、上杉方の倉賀野尚行が守る倉賀野城を攻略した。

 9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を指揮して武田軍の上野における拠点・和田城を攻めたが成功しなかった。

 永禄9年(1566年)、輝虎は常陸国へ出兵して再び小田城に入った小田氏治を降伏させるなど、攻勢をかける。また輝虎と同盟を結ぶ安房国の里見氏が北条氏に追い詰められていたため、これを救援すべく下総国にまで侵出。3月20日に北条氏に従う千葉氏の拠点・臼井城に攻め寄せたのである。
 上杉方が有利で実城の際まで迫ったが、3月24日に敗北する。撃退された要因は籠城方の健闘であったとされている。
 また足利義昭の3月10日附の書状を義昭の使者が臼井の上杉軍のもとに持参して、北条氏と和睦して幕府再興のために上洛するように要請したことが、上杉軍の退却に繋がったのではないかとも指摘されているのである。これを臼井城の戦いという。
 
 臼井城攻めに失敗したことにより、輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条氏に降る。9月には上野金山城主・由良成繁が輝虎に背く。関東において、北条氏康・武田信玄の両者と同時に戦う状況となり守勢に回る。さらに輝虎は関東での勢力拡大を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。

 永禄10年(1567年)、輝虎は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、3月に昌綱を降伏させた。唐沢山城の戦いである。
 しかし、厩橋城代を務める上杉の直臣・北条高広までもが北条に通じて謀反を起こす。

 4月、輝虎は高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦するも、関東に於ける領土は主に東上野にとどまった。ただし、謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方であった。

 永禄11年(1568年)、織田信長に推戴され新しく将軍となった足利義昭からも関東管領に任命された。この頃から次第に越中国へ出兵することが多くなる。一方で北信をめぐる武田氏との抗争は収束していた。

 織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで敗死させた後、後継者となった今川氏真を武田信玄が攻めた。世に言う駿河侵攻である。だが氏真を挟撃するため手を組んでいた三河国の大名・徳川家康と衝突を起こし、上杉氏との関係は同じく武田氏と手切れとなった相模北条氏や武田氏と友好関係をもつ将軍・義昭と織田信長らとの関係で推移するようになったのである。

 永禄11年(1568年)3月、越中国の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中国を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かなかったのだ。放生津の戦いである。

 7月には武田軍が信濃最北部の飯山城に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後国を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退した。更に輝虎から離反した康胤を討つべく越中国へ入り、堅城・松倉城をはじめ、守山城を攻撃した。

 ところが時を同じくして、5月に信玄と通じた上杉家重臣で揚北衆の本庄繁長が謀反を起こしたため、越後国への帰国を余儀なくされる。反乱を鎮めるため輝虎はまず、繁長と手を組む出羽尾浦城主・大宝寺義増を降伏させ、繁長を孤立させた。その上で11月に繁長の居城・本庄城に攻撃を加え、謀反を鎮圧した。本庄繁長の乱という。
 この頃、前述のように甲斐武田氏と駿河今川氏は関係が悪化し、同年11月25日に今川氏真は武田氏の当敵である上杉氏に和平を持ち掛け信濃への牽制を要請しているが、謙信はこれを退けたのだ。

 永禄12年(1569年)、蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた大宝寺義増の降伏により、出羽庄内地方を手にすることが出来たのである。

 永禄11年(1568年)12月6日、武田信玄は甲相駿三国同盟を破って駿河国へ侵攻したのだ。
 この信玄の動きに北条氏康は激怒。猛反発し、北条氏は武田氏と断交し、激しく敵対するようになった。今川氏真は北条氏に救援を求め、北条氏康が駿河に出兵して武田軍と対決したが、武田軍は今川氏真の率いる今川軍を打ち破り、駿府城を攻略し、駿河国を併合した。これにより武田氏と北条氏の間の均衡が崩れて、北条氏康の居城・小田原城に大きな危機が迫ったのである。
 この時、北条氏は東に里見氏、北に上杉氏、西に武田氏と、三方向から敵に囲まれる苦しい情勢となってしまったのである。

 こうして、北条氏康は、長年敵対してきた輝虎との和睦を考えるようになった。

 永禄12年(1569年)1月、北条氏康は輝虎に和睦を提案した。これに対し輝虎は当初、この和睦に積極的でなかったが、度重なる関東出兵で国内の不満が高まっており、また上杉方の関宿城が北条氏照の攻撃に晒されていた。第二次関宿合戦である。 
 この城の危機を救うためにも上杉輝虎は北条氏との和議を検討することになった。

 永禄12年(1569年)3月、上杉輝虎は信玄への牽制の意図もあり北条氏との講和を受諾、宿敵ともいえる北条氏康と同盟することになったのだ。これを越相同盟というのだ。
 この同盟に基づき、北条氏照は関宿城の包囲を解除することが出来たのである。

 これにより上野国の北条方の豪族は輝虎に従った。北条高広も帰参が許された。輝虎は北条氏に関東管領職を認めさせた上、上野国を確保したのである。これより輝虎は本格的に北陸諸国の平定を目指すことになった。しかし一方で、北条氏の擁する足利義氏を古河公方として認めることにもなり、越相同盟により上杉方の関東諸将は輝虎に対して不信感を抱く結果となったのである。

 長年に亘り北条氏と敵対してきた里見義弘は輝虎との同盟を破棄し、信玄と同盟を結ぶなど北条氏と敵対する姿勢を崩さなかった。なお輝虎はこの年の閏5月、足利義昭の入洛を祝し、織田信長に鷹を贈っている。

 永禄12年(1569年)8月、上杉軍は前年に続いて越中へ出兵し、椎名康胤を討つため大軍を率いて松倉城を百日間に亘り攻囲したのだ。松倉城の戦いである。
 その後、上杉軍は支城の金山城を攻め落としたものの、武田信玄率いる武田軍が上野国へ侵攻したため輝虎は松倉城の攻城途中で帰国し、上野の沼田城に入城したのである。

 元亀元年(1570年)1月、下野において再び佐野昌綱が背いたため、上杉軍は唐沢山城を攻撃するも、攻め落とすことは出来なかった。

 4月、輝虎は北条氏康の七男である北条三郎を養子として迎えた。その後、輝虎は、三郎のことを大いに気に入って景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという逸話がある。

 10月、北条氏康から支援要請を受けたため上杉軍は上野国へ侵攻し、武田軍と交戦した後、年内に帰国した。

 12月、上杉輝虎は法号「不識庵謙信」を称した(これ以降、上杉謙信となる)。

 元亀2年(1571年)2月、謙信は2万8000人の兵を率いて再び越中国へ出陣した。椎名康胤が立て籠もる富山城を攻撃した。更に数年に亘り謙信を苦しめた新庄城・守山城などを攻撃した。康胤は激しく抗戦を続けたが、上杉軍はこれらの城を落城させることに成功した。その後、康胤は再起を目指して落ち延びて、越中一向一揆と手を組み、協同して謙信への抵抗を続けることになる。その後、両者の間では、富山城を奪い合う戦いが幾度となく繰り返され、越中支配をかけた謙信と越中一向一揆の戦いは熾烈を極めることになったのである。

 元亀2年(1571年)11月、北条氏政から支援要請があったため上杉軍は関東へ侵攻した。佐竹義重が武田信玄に通じて小田氏治を攻めたため、謙信は上野総社城に出陣して氏治を援助した。尚この年の2月、謙信と共に信玄と敵対している徳川家康は、新春を祝して謙信に太刀を贈っているのだ。

ー(越中一向一揆・北条との戦い)ー

 元亀2年(1571年)10月、関東の覇権を長年争った北条氏康がこの世を去った。

 元亀3年(1572年)1月、北条氏の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、謙信は再び北条氏と敵対することになった。

 また上洛の途につく信玄は、謙信に背後を突かれないため調略により越中一向一揆を煽動した。これにより謙信は主戦場を関東から越中国へ移すことになったのである。

ー(富山城の戦い)ー

 元亀3年(1572年)1月、上杉軍は利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する武田方の付城・石倉城を攻略する。相前後して押し寄せてきた武田・北条両軍と利根川を挟み対峙したのである。第一次利根川の対陣。

 元亀3年(1572年)5月、武田信玄に通じて加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が日宮城、白鳥城、富山城など上杉方の諸城を攻略するなど、一向一揆の攻勢は頂点に達する。8月、謙信は越中へ出陣し、新庄城に布陣した。
 その後、富山城の一揆勢は9月17日未明には小旗を畳んで日宮城方面に退却した(『上杉文書』)。

 上杉軍は神通川を越えて西進し、翌18日には滝山城にも攻撃を仕掛けた。
 上杉軍は年末にこれを制圧した。また、11月には大規模に動員した信玄と交戦状態に入った織田信長からの申し出を受け、同盟を締結した。

 信長は11月20日付けで謙信に

 「信玄の所行、まことに前代未聞の無道といえり、侍の義理を知らず、ただ今は都鄙を顧みざるの私大、是非なき題目にて候」

「永き儀絶(義絶)たるべき事もちろんに候」

「未来永劫を経候といえども、再びあい通じまじく候」
と書状を送っている。

 元亀4年(1573年)正月、椎名康胤方の松倉城が開城した。

 4月、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の影響力が薄らぐことになる。

 天正元年(1573年)8月、謙信は越中国へ出陣して増山城・守山城など諸城を攻略。さらに上洛への道を開くため加賀国まで足を伸ばし、一向一揆が立て籠もる加賀・越中国境近くの朝日山城を攻撃、これにより越中の過半を制圧することに成功した。
 
 一向一揆は謙信が越中から軍を引き上げる度に蜂起する為、業を煮やした謙信は、ついに越中を自国領にする方針を決める。さらに江馬氏の服属で飛騨国にも力を伸ばした。

ー(北条氏政との戦い)ー

 天正元年(1573年)8月、謙信が越中朝日山城を攻撃していた時、北条氏政が上野国に侵攻していた。

 上洛を目指す謙信の主戦場は既に関東でなく越中国であったが、後顧の憂いを無くすため、天正2年(1574年)、8,000の兵を率いて関東に出陣し上野金山城主の由良成繁を攻撃、3月には膳城、女淵城、深沢城、山上城、御覧田城を立て続けに攻め落とし戦果をあげていた。しかし成繁の居城である要害堅固な金山城を陥落させるに至らなかった。金山城の戦いは失敗した。

更に武蔵に於いて上杉方最後の拠点である羽生城を救援するため4月、上杉軍は北条氏政と再び利根川を挟んで相対することになった。第二次利根川の対陣である。
 しかし、増水していた利根川を渡ることは出来ず、5月に越後国へ帰国した。
 羽生城は閏11月に自落させた。

 天正2年(1574年)、北条氏政が下総関宿城の簗田持助を攻撃するや、10月に謙信は関東へ出陣、武蔵国に攻め入って後方かく乱を狙った。謙信は越中平定に集中していたが、救援要請が届くと軍を転じて関東に出陣した。上杉軍は騎西城、忍城、鉢形城、菖蒲城など諸城の領内に火を放ち北条軍を牽制したが、佐竹など関東諸将が救援軍を出さなかった為、北条の大軍に攻撃を仕掛けることまでは出来なかったのである。
 このため関宿城は結局降伏することとなった。第三次関宿合戦に於いて。

 閏11月に謙信は北条方の古河公方・足利義氏を古河城に攻めているが、既に関東では上杉派の勢力が大きく低下していた。

 12月19日、伝法灌頂を受けて、正式に出家すると共に、法印大和尚に任ぜられる。 

 尚この年の3月、織田信長から狩野永徳筆の『洛中洛外図屏風』を贈られている。

 天正3年(1575年)1月11日、養子の喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。

ー(本願寺との講和と織田信長との戦い)ー

 天正4年(1576年)2月以降、毛利輝元の庇護の受けていた足利義昭が反信長勢力を糾合し、同年5月頃からは義昭の仲介で甲斐武田氏・相模後北条氏との甲相越三和が試みられている。

 同年4月、謙信は織田信長との戦いで苦境に立たされていた石山本願寺の顕如と和睦交渉を開始、5月中旬に講和を承諾し、成立させることに成功したのだ。このとき、上杉側で本願寺との交渉にあたったのは、山崎秀仙であった。

 謙信が本願寺と講和した背景には、足利義昭が毛利氏の庇護下で鞆城に落ち着き、義昭自身が謙信に幕府再興の援助を求めたからだとされている。
 また、前年に信長は本願寺を攻撃、更に越前国に侵攻した為、顕如と越前の一向宗徒は謙信に援助を求めていた。顕如は謙信を悩ませ続けていた一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開けた。甲相越一和は成立しなかったものの、謙信と本願寺との講和によって、信長包囲網が築き上げられたのである。だが、謙信が本願寺や毛利輝元との同盟を決めたことで、信長との同盟は破綻し、上杉氏と織田氏は以後敵対し続けることになる。

 5月、毛利輝元が謙信に上洛を呼びかけたことで、6月に謙信は輝元の叔父・小早川隆景に対して、来春には上洛するように伝えている。
 また、10月には足利義昭からも信長討伐を求められており、謙信は上洛を急ぐことになる。なお、この時期、織田信長は朝廷から内大臣に、次に右大臣に任命されており、朝敵になった訳でもなく、単に織田政権と室町幕府(足利将軍家)との武家同士の紛争に過ぎなかったのである。

ー(越中・能登平定)ー

 天正4年(1576年)9月、管領畠山氏が守護を務める越中国に侵攻して、一向一揆支配下の富山城、栂尾城、増山城、守山城、湯山城を攻め落とした。次いで椎名康胤(越中守護代)の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、ついに越中を平定することに成功した。

 謙信の次の狙いは、能登国の平定であった。特に能登国の拠点・七尾城を抑えることは、軍勢を越後国から京へ進める際、兵站線を確保する上で重要な要諦であった。 
 当時の七尾城主は戦国大名畠山氏の幼い当主・畠山春王丸であったが、実権は重臣の長続連・綱連父子が握っていた。城内では信長に付こうとする長父子と謙信に頼ろうとする遊佐続光が主導権争いをしており、内部対立があった。謙信は平和裏に七尾城を接収しようとするも、畠山勢は評議の結果、抗戦を決した。これにより、七尾城の戦いが勃発することになったのである。

ー(七尾城の戦い)ー

 天正4年(1576年)11月、謙信は能登国に進み、熊木城、穴水城、甲山城かぶとやまじょう正院川尻城しょういんかわしりじょう富来城とぎじょうなど能登国の諸城を次々に攻略した後、七尾城を囲んだのである。この一連の戦いを、第一次七尾城の戦いという。しかし七尾城は石動山系北端・松尾山山上に築かれた難攻不落の巨城であり、力攻めは困難であった。 
 付城として石動山城を築くものの攻めあぐねてとうとう謙信は越年することになった。

 天正5年(1577年)、関東での北条氏政の進軍もあり、謙信は春日山に一時撤退した。その間に敵軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は次々に落とされた。関東諸将から救援要請を受けていた謙信のもとに、能登国での戦況悪化に加え、足利義昭や毛利輝元から早期の上洛を促す書状が届く。
 これに至り謙信は反転を決意し、同年閏7月、再び能登に侵攻して諸城を攻め落とし、七尾城を再び包囲した。第二次七尾城の戦いである。このとき、城内で疫病が流行、傀儡国主である畠山春王丸までもが病没したことにより厭戦気分が蔓延していた。しかし、守将の長続連は、織田信長の援軍に望みをつないで降伏しようとはしなかった。この為、謙信は力攻めは困難とみて方針を変更し調略を試みることにした。

 そして、9月15日、遊佐続光らが謙信と通じて遂に反乱を起こした。信長と通じていた長続連らは殺され、とうとう七尾城は落城した。この2日後の17日には加賀国との国境に近い能登末森城を攻略することに成功した。

ー(手取川の戦い)ー

 謙信が七尾城を攻めていた天正5年(1577年)、長続連の援軍要請を受けていた尾張の織田信長は、七尾城を救援する軍勢の派遣を決定、謙信との戦いに踏み切る。

 総大将・柴田勝家の下、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら3万余の大軍は、8月に越前北ノ庄城に結集した。
 同月8日には七尾城へ向けて越前国を発ち、加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍した。しかし途中で秀吉が、総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど、足並みの乱れが生じていた。

 9月18日、勝家率いる織田軍は手取川を渡河、水島に陣を張ったが、既に七尾城が陥落していることすら認知していなかった。
 
 織田軍が手取川を越えて加賀北部へ侵入したことを知るや、謙信はこれを迎え撃つため数万の大軍を率いて一気に南下した。加賀国へ入って河北郡・石川郡をたちまちのうちに制圧し、松任城にまで進出した。

 9月23日、ようやく織田軍は七尾城の陥落を知ることになる。更に謙信率いる上杉軍が目と鼻の先の松任城に着陣しているとの急報が入り、形勢不利を悟った勝家は撤退を開始したのである。

 それに対して謙信率いる上杉軍本隊の8千人は23日夜、手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破したのである。手取川の戦いは上杉謙信の勝利に終わった。

 天正5年(1577年)12月18日、謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての動員令を発した。天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だった。

 しかし、その6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城内のかわやで倒れ、昏睡状態に陥り、その後意識が回復しないまま、3月13日の未の刻(午後2時)にこの世を去ったのである。享年49。倒れてからの昏睡状態により、死因は脳溢血との見方がある。恐らくこれは間違いあるまい。

 天正4年12月に正式に真言宗の僧侶となった謙信は、春日山城を高野山に、北の丸にあった大乗院を金剛峯寺に例え、空海の眠る奥之院に倣って自らの遺骸を葬る建物を春日山城内に設けることとして直ちに工事を開始、翌年3月には自らの号「不識庵」にちなんで「不識院」と命名している。自らを即身仏として春日山城に安置することや葬儀の手法などは、謙信自身が生前に定めていたと考えられ、突然の急死であったにも関わらず、死去から僅か2日後である3月15日には謙信の葬儀が執り行われている。

 一方で、生涯独身で養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを決めていなかった為、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発することになる。結局、勝利した上杉景勝が、謙信の後継者として上杉家の当主となったが、内乱によって上杉家の勢力は衰えることとなるのである。

 未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも推測されるが、詳細は不明である。

 私は歴史小説を執筆していて、いつも思うことがある。
 「史実は小説より奇なり」と。


 「神知りて 人の幸せ 願うのみ
 
 神のつたへし 愛善の道」

 歌人 蔵屋日唱
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