【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋

文字の大きさ
7 / 18

第七巻

しおりを挟む
ー(決戦!川中島の戦い)ー
 
 


 【第四次川中島の戦い絵】




【上杉謙信(右)の太刀を武田信玄(左)が軍配で受け止める像。画像は長野市八幡原史跡公園の一騎討ち像】

 

 
 天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始したのであった。
 以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となったのが、最初の合戦であった。これを第1次川中島の戦いという。

 武田軍は村上義清の葛尾城を落とした。しかしこの後、武田軍は5月、八幡にて村上義清に敗れ葛尾城を奪還されてしまう。
 9月武田軍は塩田城を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いにて撃破されてしまう。
 長尾景虎は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めたが武田晴信は何故か決戦を避けた。

 その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退したのである。

 同年8月には景虎の支援を受けて大井信広(武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。

 ー(甲斐•相模•駿河三国同盟の締結)ー

 武田晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554年)には嫡男武田義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲斐•駿河同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男北条氏政に嫁がせ甲斐•相模同盟を結ぶ。
 これにより、今川氏と北条氏も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲斐•相模•駿河三国同盟が成立する。甲斐•相模•駿河三国同盟のうち、北関東に於いて景虎と抗争していた北条氏との甲斐•相模同盟は長尾景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能したのであった。

 ー(木曽・下伊那・美濃恵那の平定)ー
 
 天文23年(1554年)、佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧して信濃南部を安定化させることに成功した。
 これと同時期に、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つ美濃恵那郡の岩村遠山氏・苗木遠山氏の両遠山氏も信玄に臣従して来た為に美濃を支配する斎藤道三・義龍父子とも緊張関係を生じさせることになる。

 ー(第2次川中島の戦い)ー
 
 天文24年(1555年)、武田方の善光寺別当・栗田永寿が旭山城(長野県長野市)に籠もった。

 これに対し、長尾景虎は裾花川を挟んで対岸に葛山城を築城する。
 天文24年(1555年)、信玄は川中島於いて200日余長尾軍と対陣したのである。
 今川義元の仲介で和睦、両軍は撤兵した。和睦の条件に武田方の旭山城破砕があり、破砕されたのである。

 弘治2年(1556年)、長尾家家臣の大熊朝秀が離反し、会津の蘆名盛氏と共に越後に侵攻するが撃退されてしまう。

 ー(第3次川中島の戦い)ー

 弘治3年(1557年)2月15日、信玄は葛山城を調略で落とすことに成功する。
 弘治3年(1557年)、晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。

 この戦いは、上野原の戦いともいう。

 弘治3年(1557年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されているのだ。

 また、小谷城(平倉城)を攻めて飯森盛春らを討ち取り、これを攻略することに成功する。小谷城の戦いである。
 一連の戦闘の結果、北信地方の武田氏勢力は拡大した。

 永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城、長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退してしまう。
 
 長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになった。
 永禄2年(1559年)、永禄の飢饉が発生した。甲斐国が大規模な水害に襲われるたのである。
 このように戦国時代という時代は飢饉や疫病などがあり、また、容赦なく襲って来る。武田信玄も上杉謙信も、領土に於ける領民の幸せな暮らしを守ることも必要であったのだ。

 ー(第4次川中島の戦い)ー

 その間も信玄は北信濃侵攻を続けていた。永禄4年(1561年)4月、上杉政虎(永禄4年(1561年)3月、長尾景虎より改名)が後北条氏の小田原城を包囲した。小田原城の戦いである。
 この間に信玄は信濃に海津城(長野県長野市松代町)を築城する。
 割ヶ嶽城(現長野県上水内郡信濃町)を攻め落とす。参謀の原虎胤が負傷する。
 
 代わって、軍師•山本勘助が参謀になる。
信玄は甲斐•相模同盟の後北条氏の要請に応じて信濃に出兵した。
 これを受けて政虎(永禄4年(1561年)8月より輝虎に改名)は川中島の善光寺に出兵したのである。
 永禄4年(1561年)8月、第四次川中島の戦いは一連の対決の中で歴史上最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である副将武田信繁をはじめ重臣室住虎光、足軽大将の軍師•山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したのであった。

 第4次川中島合戦で信濃侵攻は一段落し、信玄は西上野侵攻を更に進めるのであった。

ー(第5次川中島の戦いと西上野侵攻)ー

 永禄7年(1564年)、上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐ為に川中島に出陣したが、信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。

 弘治3年(1557年)より、信玄は川中島の戦いと並行して西上野侵攻を開始したものの、山内上杉家の長野業正が善戦した為、当初は捗々しい結果は得られなかったのである。
 永禄4年(1561年)、業正が死去すると、武田軍は跡を継いだ長野業盛を攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化したのであった。
 これにより箕輪城は対後北条氏の最前線となる。

 元亀2年(1571年)12月、甲斐•相模同盟が回復すると後北条氏との争いが止まったのである。
 甲斐•相模同盟は天正7年(1579年)3月まで続いたのであった。

 ー(川中島の戦いのまとめ)ー

 川中島の戦いかわなかじまのたたかいは、日本の戦国時代に、領土拡大を目指し信濃国南部や中部を制圧し、さらに北信濃に侵攻した甲斐国の戦国大名である武田信玄武田晴信と、北信濃や信濃中部の豪族から助けを求められた越後国の戦国大名である上杉謙信長尾景虎との間で、主に川中島で行われた数次の戦いである。
 武田信玄、上杉謙信双方とも勝利を主張している。

ー(川中島の戦い)ー

 武田信玄率いる武田軍と上杉謙信率いる
 上杉軍の戦力比較とその主なる武将達である。

 武田信玄率いる武田軍は次の通りである。
 武田信繁 、武田義信、諸角虎定 、山本勘助 、飯富虎昌、馬場信春、高坂昌信、真田幸隆、

 上杉謙信率いる上杉軍は次の通りである。
 上杉政虎、直江実綱、柿崎景家、甘粕長重(景持)、中条藤資、色部勝長、本庄繁長、村上義清、高梨政頼

 戦力は武田軍は二万。上杉軍は一万三千。

 戦死者は、武田軍は、武田信繁、諸角虎定、山本勘助など他四千人死傷。

 上杉軍の戦死者は、志田義時、大川忠秀など他三千人死傷。

 1542年(天文11年)に武田信玄が甲斐国の実権掌握後に信濃国に侵攻して各地を制圧し、さらに北信濃に侵攻したことで越後の上杉謙信との間に軍事的な緊張が生まれた。
 武田信玄と上杉謙信の対立は、北信濃の覇権を巡る戦いとなり、その後の武田軍と上杉軍は川中島の地域を主戦場にして戦うことになったのである。

 最大の激戦となった第四次の戦は千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されている。また、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いとされている。

 川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に川中島で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に川中島の戦いと言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日〈18日〉)を指すことが多い。

第一次合戦:天文22年(1553年)

第二次合戦:天文24年(1555年)

第三次合戦:弘治3年(1557年)

第四次合戦:永禄4年(1561年)

第五次合戦:永禄7年(1564年)

 ただし、古文書や古記録の研究の進展から、北信濃地域ではこの5回の他にも武田・上杉両軍による軍事行動が確認されているのである。
 
 私はこの合戦で尊い命を落とした武将や足軽まで、彼らに「謹んでご冥福をお祈り申し上げたい」

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――

黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。  一般には武田勝頼と記されることが多い。  ……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。  信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。  つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。  一介の後見人の立場でしかない。  織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。  ……これは、そんな悲運の名将のお話である。 【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵 【注意】……武田贔屓のお話です。  所説あります。  あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

【完結】二つに一つ。 ~豊臣家最後の姫君

おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
大阪夏の陣で生き延びた豊臣秀頼の遺児、天秀尼(奈阿姫)の半生を描きます。 彼女は何を想い、どう生きて、何を成したのか。 入寺からすぐに出家せずに在家で仏門に帰依したという設定で、その間、寺に駆け込んでくる人々との人間ドラマや奈阿姫の成長を描きたいと思っています。 ですので、その間は、ほぼフィクションになると思います。 どうぞ、よろしくお願いいたします。 本作品は、カクヨムさまにも掲載しています。 ※2023.9.21 編集しました。

楽将伝

九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語 織田信長の親衛隊は 気楽な稼業と きたもんだ(嘘) 戦国史上、最もブラックな職場 「織田信長の親衛隊」 そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた 金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか) 天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!

処理中です...