幼馴染最優先の婚約者に愛想が尽きたので、笑って家出しました ― 笑顔で去っただけなのに、なぜ泣いているのですか

ラムネ

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第9話 笑って去った夜

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馬車の硬い車輪が、王都の石畳を規則正しいリズムで叩いている。
ガタゴトと揺れる薄暗い車内で、私は手袋に包まれた自分の左手を見つめていた。

薬指にあったはずの、重い銀の感触はもうない。
冷たいサファイアの石が指先から消えただけで、身体の奥底にこびりついていた泥のような疲労感が、少しだけ軽くなったような気がした。

「リオナ様……お寒くありませんか?」

向かいの席に座るエマが、不安げな声で毛布を差し出してくる。
小さなカンテラの灯りに照らされた彼女の顔は、まだ少し強張っていた。

「ありがとう、エマ。私は大丈夫よ」

私は毛布を受け取りながら、静かに微笑んだ。
無理をして作った笑顔ではない。本当に、心が凪いだ水面のように穏やかだったのだ。

私がクラウゼ家を支えなければならない。
私が完璧でなければ、領地の民が苦しむ。
そんな強迫観念で自分を縛り付けてきた日々が、まるで遠い昔の幻のように思える。

馬車は速度を落とし、王都の外郭を取り囲む巨大な城壁の門へと近づいていった。
深夜の関所は静まり返っており、重武装の衛兵たちがランタンを掲げて立ち塞がる。

「止まれ! 夜間の通行は制限されている。身分証を提示しろ」

くぐもった、威圧的な声。
エマがビクッと肩を跳ねさせたが、私は落ち着いて窓を開け、冷たい夜気の中に顔を出した。

「夜分遅くに、ご苦労様です」

私は平坦な声で言い、懐から一通の封書を取り出して衛兵に手渡した。
上質な純白の羊皮紙。そこには、天秤と剣を交差させた『王立監査院』の漆黒の紋章が押されている。

ランタンの光を近づけた衛兵の顔色が変わった。

「こ、これは……監査院からの招致状……」

「ええ。白夜回廊への赴任を命じられております。急ぎの出立ゆえ、夜間の通行許可が含まれているはずですが」

衛兵の視線が、封書の隅に刻まれた小さな『告示の鏡板』の魔法陣へと注がれる。
公文書であることの絶対的な証明。
彼らは慌てて背筋を伸ばし、道を開けるように同僚たちに手で合図を送った。

「し、失礼いたしました! 通行を許可します!」

重厚な鉄格子が、ギギギ……と鈍い音を立てて持ち上がっていく。
馬車が再び動き出し、王都の石畳から、未舗装の土の道へと変わる柔らかな感触が伝わってきた。

王都を、抜けた。

♦︎♦︎♦︎

窓の外の景色が、漆黒から深い藍色へ、そして少しずつ白み始めていく。

私は隠しポケットに手を入れた。
そこには、数枚の紙片が折りたたまれて入っている。
第参倉庫の真の在庫数と、ミレーヌ名義の口座への送金記録を書き写したものだ。

アルベルトは言った。
『君は強いから、大丈夫だろ?』と。

ええ、私は強い。
だからこそ、これからは自分のためにその力を使う。
誰かの尻拭いのためでも、理不尽な侮辱に耐えるためでもない。

東の空から、刺すような朝の光が差し込んできた。

私を縛り付けていた魔紋契約は、あの指輪を外した瞬間に効力を失っている。
今頃、あの屋敷では私が消えたことに気づいただろうか。
それとも、まだ誰も気付かず、ミレーヌのご機嫌取りに奔走しているのだろうか。

「……私は、笑って去っただけです」

朝日に照らされながら、私は小さく呟いた。

もう、二度とあの場所に戻ることはない。
私の新しい行き先は、王国最北の交易路――白夜回廊。
監査補助官としての、冷たくて新しい朝が始まろうとしていた。
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