『「あんな化け物と結婚なんて嫌!」と妹が泣くので私が身代わりになりました。……あの、化け物どころか、国一番の美形で紳士な旦那様なんですけど?

ラムネ

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第2話『死の行軍と、黒い鎧の騎士』

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王都を出発してから、どれほどの時間が過ぎたのでしょうか。 ガタゴトと車輪が石畳を叩く単調なリズムだけが、私の世界を支配していました。

最初は整備されていた街道も、日を追うごとに荒くなり、馬車は大きく揺れるようになりました。 窓の外を流れる景色は、豊かな緑から枯れ木へと変わり、やがて岩肌が露出した荒涼とした大地へと変貌を遂げていきます。

気温も、目に見えて下がってきました。 王都では春の陽気が漂っていましたが、北へ向かうにつれて空は鉛色に染まり、冷たい風が馬車の隙間から容赦なく入り込んできます。

私は、マリアのお古である薄いショールを肩に巻き直し、小さく身震いしました。 吐く息が白いことに気づき、ここがもう人の住む領域の限界に近いのだと実感させられます。

「……寒い」

思わず漏れた独り言は、誰の耳にも届くことなく、冷たい空気の中に消えていきました。

今回の旅路には、ジークハルト辺境伯家から派遣された御者と、四名の護衛騎士が同行しています。 しかし、彼らが私に言葉をかけてくることは、ほとんどありませんでした。

休憩のために馬車が止まると、彼らは慣れた手つきで火をおこし、自分たちだけで暖を取り始めます。 私が馬車から降りようとすると、まるで汚いものを見るような目で一瞥され、無言で「そこにいろ」という圧力をかけられるのです。

食事も、彼らが食べ終わった後に、残りの干し肉と、石のように硬い黒パンが投げ渡されるだけでした。 温かいスープは、私には回ってきません。

「おい、あの女に水はやったか?」 「ああ、少しだけな。どうせ向こうに着けば、生きてはいないだろう。無駄な食料を使うことはない」 「違いねぇ。あんなひ弱そうな貴族の娘が、旦那様の魔力に耐えられるわけがない」 「可哀想になぁ。まあ、俺たちの知ったことじゃねぇが」

焚き火を囲む男たちの話し声が、風に乗って聞こえてきます。 彼らは私が聞こえていることを知っていて、あえて大声で話しているのかもしれません。

辺境の兵士たちは、荒っぽいと聞いていましたが、これほどまでに排他的だとは思いませんでした。 彼らにとって私は、主人が気まぐれに注文した「すぐに壊れる消耗品」でしかないのでしょう。

私は、硬いパンを少しずつかじりながら、馬車の窓枠に肘をつきました。 冷え切ったパンは味もしませんでしたが、空腹を満たすためには贅沢を言っていられません。

(……帰りなさい、と言われているみたい)

冷たい風が、そう囁いているような気がしました。 王都の、あの暖かい屋敷。 たとえ冷遇されていても、屋根があり、暖炉があり、最低限の食事は保証されていたあの場所。

もし今、私が「帰りたい」と泣き叫んだら、彼らはどうするでしょうか。 きっと、鼻で笑って無視するか、あるいはこの荒野に私を置き去りにしていくでしょう。

でも不思議と、私の心に後悔の念はありませんでした。 あの屋敷に戻るくらいなら、この寒空の下で凍え死ぬ方が、よほど清々しいと思えたからです。

誰にも期待されず、誰にも愛されず、ただ静かに消えていく。 それはそれで、私らしい最期なのかもしれません。

「出発するぞ!」

御者の太い声が響き、短い休憩の終わりを告げました。 私は残りのパンを急いで口に押し込み、再び揺れる箱の中へと身を沈めました。

                  ◇

旅も十日目を迎えた頃でしょうか。 私たちは、王国の北端、辺境伯領との境界線である「嘆きの渓谷」に差し掛かっていました。

ここは、切り立った崖が両側に迫る難所であり、魔物の目撃情報も多い危険地帯です。 空はこれまで以上に低く垂れ込め、今にも雪が降り出しそうな重苦しい気配に満ちていました。

護衛たちの空気が、明らかに変わりました。 それまでの弛緩した雰囲気は消え失せ、彼らは剣の柄に手をかけ、鋭い視線を周囲に走らせています。 馬たちも何かに怯えるように、いななき、足を止めたがっていました。

「……来るかもしれんぞ」 「ああ、妙な匂いがしやがる。腐った肉のような……」

馬車の外から聞こえる緊迫した声に、私も思わず背筋を伸ばしました。 窓の外を覗くと、霧が立ち込め、視界が白く濁り始めています。

その時でした。

ヒュオオオオオ……という風の音に混じって、地響きのような唸り声が聞こえてきたのは。

「グルルルル……」

それは、獣の咆哮よりも低く、不気味で、お腹の底に響くような音でした。 馬たちがパニックを起こし、暴れ始めます。 馬車が激しく揺れ、私は座席から放り出されそうになりました。

「敵襲だ!!」 「オークの群れだ! 総員、戦闘配置!」 「くそっ、やっぱり出やがったか!」

怒号と共に、剣を抜く金属音が響き渡ります。 私は窓のカーテンを少しだけ開け、外の様子を窺いました。

息を呑みました。

霧の中から現れたのは、醜悪な緑色の皮膚を持つ、巨人のような怪物たちでした。 丸太のように太い腕には、錆びついた斧や棍棒が握られています。 その数は、ざっと見ても十体以上。 対して、こちらの護衛は四人だけです。

「ちっ、数が多いぞ!」 「円陣を組め! 馬車を守……いや、馬を守れ!」

護衛の一人が叫びました。 「馬車を守れ」ではなく「馬を守れ」。 つまり、私を守るつもりはないということでしょう。 馬さえ無事なら、彼らは逃げることができるのですから。

私は恐怖で喉が引きつりましたが、同時にどこか冷めた頭で状況を分析していました。 (ああ、やっぱり。私はここで捨てられるのね)

ドガッ!

巨大な棍棒が、馬車の屋根を掠めました。 木片が飛び散り、悲鳴のような音が車体を駆け抜けます。 私は座席の下にうずくまり、頭を抱えました。

外では激しい戦闘音が続いています。 剣が肉を裂く音、怒号、そして怪物の嗤い声。

「ぐあああっ!」

護衛の一人が悲鳴を上げました。 どうやら、負傷者が出たようです。

「退くな! ここで退いたら全滅だ!」 「無理だ、隊長! こいつら、普通のオークじゃねぇ! 変異種だ!」

変異種。 魔力の影響を受け、通常よりも凶暴化し、強大化した魔物。 そんなものが群れを成しているなんて、並の騎士団でも対処できるものではありません。

バキィッ!

ついに、馬車の車輪が破壊されました。 車体が大きく傾き、私は床に叩きつけられました。 目の前がチカチカと明滅し、痛みが全身を走ります。

傾いた馬車の扉が、軋みながら開いてしまいました。 そこから見えたのは、目の前に迫るオークの顔。 腐った息と、血走った黄色い目。 滴り落ちるよだれが、地面を汚しています。

「ギギッ、ギギギ……美味そうな雌だ」

オークが、下卑た笑みを浮かべながら、太い指を私に向けて伸ばしてきました。

動けませんでした。 恐怖で体が竦み、声も出ません。 これが、死。 私の人生の、あっけない幕切れ。

(ごめんなさい、誰とも知れない旦那様。貴方の元へは、辿り着けそうにありません)

私はギュッと目を閉じ、来るべき痛みに備えました。 オークの指先が、私のドレスの裾に触れた、その瞬間です。

ズドォォォォォォォン!!!!!

天が裂けるような、凄まじい爆音が轟きました。 続いて、地面が大きく揺れ、私の体は再び床に打ち付けられました。

何が起きたのかわかりません。 恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていました。

先ほどまで私の目の前にいたオークの姿が、どこにもないのです。 代わりに、そこには巨大なクレーターのような穴が開いていました。 そして、その周囲には、炭のように黒焦げになった肉片が散らばっています。

「……え?」

状況が理解できず、私は呆然としました。 周囲を見渡すと、他のオークたちも動きを止めています。 彼らの視線は、一点に釘付けになっていました。

霧の向こう。 渓谷の入り口から、ゆっくりと歩いてくる一つの影に。

それは、人でした。 いいえ、人の形をした、何か別の巨大な存在に見えました。

全身を覆うのは、光さえも吸い込むような漆黒のフルプレートアーマー。 身長は二メートルを優に超えているでしょう。 兜の隙間からは顔が見えず、ただ暗闇だけが覗いています。 手には、身の丈ほどもある巨大な黒い剣が握られていました。

一歩、また一歩。 彼が歩を進めるたびに、ズシン、ズシンと、大地の底から響くような重低音が周囲を圧します。

「な、なんだ、あれは……」 「ひっ……! ば、化け物……!」

生き残った護衛たちが、オーク以上の恐怖を顔に浮かべて後ずさりました。 オークたちでさえ、その圧倒的な威圧感に気圧され、ジリジリと後退しています。

黒い騎士は、何も言いませんでした。 ただ、私たちが乗っている壊れた馬車の前まで来ると、ゆっくりと顔を巡らせ、周囲のオークたちを見回しました。

その瞬間、空気が凍りついたように感じました。 彼から放たれたのは、殺気という言葉では生ぬるい、濃密な死の気配。

「……消えろ」

兜の奥から響いたのは、地獄の底から響いてくるような、低く、冷徹な声でした。

次の瞬間、彼の姿がかき消えました。 あまりの速さに、目が追いつきません。

ドガァァン!

一瞬にして、最も近くにいたオークの上半身が消し飛びました。 振るわれた大剣の一撃です。 それは剣術というよりは、暴風のような破壊のエネルギーでした。

「ギョエェェェッ!」

仲間が瞬殺されたことに激昂したオークたちが、一斉に黒騎士に襲いかかります。 しかし、それは象に群がる蟻のようなものでした。

ブォンッ!

黒騎士が大剣を横になぎ払います。 ただそれだけの動作で、衝撃波が発生しました。 三体のオークが、紙切れのように宙を舞い、崖の壁面に叩きつけられて肉塊に変わります。

圧倒的でした。 蹂躙、という言葉がこれほど似合う光景を、私は見たことがありません。 彼は避けることすらしませんでした。 オークの棍棒が彼の鎧に当たっても、カンッという乾いた音がするだけで、傷一つ付きません。 逆に、彼が腕を振るえば、それだけで敵の命が刈り取られていくのです。

「う、うわああああっ! 助けてくれぇぇ!」 「目が、目が見えねぇ!」

ふと気づくと、護衛の騎士たちが地面にのた打ち回っていました。 彼らは黒騎士に攻撃されたわけではありません。 ただ、彼の近くにいるだけで、苦しんでいるのです。

「瘴気だ……! 旦那様の魔力が、濃すぎるんだ……!」 「ぐっ、吐き気が……息ができない……!」

護衛の一人が、青ざめた顔で嘔吐しました。 彼らは必死で口元を押さえ、黒騎士から距離を取ろうと這いずっています。

(瘴気……?)

私は目をぱちくりとさせました。 確かに、黒騎士の体からは、黒い陽炎のような揺らめきが立ち上っています。 あれが、噂に聞く「触れる者を狂わせる魔力」なのでしょうか。 護衛たちは、その圧倒的な魔力の奔流に当てられ、立っていることすらできないようです。

でも。 おかしいのです。

私は、何も感じませんでした。 吐き気も、頭痛も、息苦しさもありません。 ただ、目の前で繰り広げられる凄惨な戦いに驚いてはいましたが、体調に変化は全くないのです。

むしろ、彼が放つ黒い波動が肌に触れると、少しピリッとするような、不思議な感覚があるだけでした。 それは不快なものではなく、どこか懐かしいような、静電気のような感覚。

ズドンッ!

最後のオークが、頭を粉砕されて地面に沈みました。 静寂が戻ってきます。 荒い息を吐く者はいません。 護衛たちは気絶するか、恐怖で縮こまっているだけ。 黒騎士もまた、息一つ乱していませんでした。

彼は、血濡れた大剣を無造作に振って汚れを落とすと、背中の鞘に納めました。 カチャン、という金属音が、静まり返った渓谷に響きます。

そして、彼はゆっくりと、こちらを振り向きました。

兜の奥の暗闇が、私を捉えたような気がしました。 彼は瓦礫の山となった馬車に近づいてきます。 一歩、また一歩。 その足音が、私の心臓の鼓動と重なります。

逃げなければ、と思うのに、足が動きません。 恐怖というよりは、金縛りにあったような感覚。 あるいは、その圧倒的な存在感に、魂が魅入られてしまったのかもしれません。

彼は、私の目の前で立ち止まりました。 近くで見ると、その巨大さが際立ちます。 私は彼のお腹のあたりまでしか身長がありません。 見上げると、黒い鎧の威容が、空を覆い隠すようでした。

「……」

彼は無言で私を見下ろしています。 私もまた、無言で彼を見上げ続けました。

沈黙が痛いほどでした。 護衛たちは、遠巻きに震えながらこちらの様子を窺っています。 「あの女、死んだな」という視線を感じました。 あんな至近距離で、あの濃密な魔力を浴びれば、常人なら即死してもおかしくないレベルらしいのです。

しかし、私は生きていました。 平然と、呼吸をしていました。

「……おい」

不意に、彼が口を開きました。 先ほどの戦闘時よりも、少しだけ戸惑いを含んだような、低い声。

「お前、苦しくないのか?」

その問いかけの意味を理解するのに、数秒かかりました。 私は自分の胸に手を当て、深呼吸をしてみました。 やはり、どこも苦しくありません。

「……はい。特に、何も」

私が正直に答えると、黒騎士の肩が、わずかにピクリと動きました。 それは、驚愕を表しているようでした。

「吐き気は? めまいは? 俺の魔力に当てられて、肌が焼けつくような痛みはないのか?」

「いいえ。少し……静電気のようなものを感じるくらいで」

「静電気……だと?」

彼は信じられないというように呟き、一歩、私に近づきました。 距離が縮まり、彼から発せられる黒いオーラが、私を包み込みます。 遠くで見ていた護衛たちが「ひぃっ!」と悲鳴を上げました。

それでも、私は平気でした。 それどころか、彼の魔力に包まれていると、不思議と寒さが和らぎ、冷え切っていた体が温まってくるような気さえしました。

「……どういうことだ」

彼は困惑したように首を傾げました。 そして、恐る恐るという手つきで、黒い籠手(こて)に覆われた右手を、私の顔の前に差し出してきました。

その手は震えていました。 私を傷つけることを恐れているのか、あるいは、拒絶されることを恐れているのか。

「……これでも、平気なのか?」

彼の指先から、黒い火花のような魔力が迸(ほとばし)り、私の頬を掠めます。 普通なら、これだけで皮膚がただれるほどの高濃度の魔力だそうです。

しかし、私は無意識のうちに、その手に頬を寄せていました。 温かかったからです。 凍えるような寒さの中で、彼の手から発せられる熱だけが、唯一の救いのように感じられたからです。

「……温かいです」

私がそう呟くと、黒騎士は石像のように固まりました。

「な……」

言葉を失った彼の様子に、私は自分がとんでもなく失礼なことをしてしまったのではないかと不安になりました。 初対面の、しかも「化け物」と恐れられる方の手に、勝手に顔を擦り寄せるなんて。

「も、申し訳ありません! 私、つい……!」

慌てて離れようとした私の腕を、今度は彼が強く掴みました。 痛いほどではありませんが、決して離さないという意志を感じる強さで。

「待て。行くな」

切羽詰まったような声でした。 彼は私の腕を掴んだまま、グイッと自分の方へ引き寄せました。 私の体は、冷たく硬い鎧の胸に押し付けられました。

「お前は……一体、何者なんだ?」

至近距離で響くその声には、威圧感ではなく、すがるような響きが含まれていました。

私は彼の兜を見上げました。 暗闇の奥に、一瞬だけ、紫色の光が揺らめいたのを見ました。 それは、孤独な獣が、初めて自分に触れてくれる存在を見つけた時の、驚きと渇望の色をしていました。

この方が、ジークハルト様。 私の夫となる人。 そして、国中が恐れる「北の化け物」。

でも、私にはどうしても、彼が恐ろしい存在だとは思えませんでした。 震えるその手からも、必死な声からも、彼がどれほど孤独であったかが、痛いほど伝わってきたからです。

「私は……」

名乗ろうとしたその時、私の意識が不意に遠のきました。 極度の緊張が解けた反動と、長旅の疲労、そして空腹が一気に押し寄せてきたのです。

視界がぐらりと揺れ、足の力が抜けました。 倒れる、と思った瞬間、私の体は宙に浮いていました。

彼が、私を軽々と抱き上げたのです。 いわゆる、お姫様抱っこという体勢で。

「おい! しっかりしろ!」

焦ったような彼の声が、遠くで聞こえました。 鎧の冷たさと、そこから伝わる魔力の温かさに包まれながら、私は深い闇の中へと落ちていきました。

最後に感じたのは、怪物に捕食される恐怖ではなく、誰かに大切に守られているという、生まれて初めての安心感でした。
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