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助け船
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「あなた達、そこで何をしているの?」
「ノーラ⁉ ここでなにしてるんだ」
驚いてハビエルを見た。それは愛称を呼ばれたエレオノーラも同じだったようだ。
目つきを鋭くし、咎めるようにじっとハビエルを見つめる。ハビエルはハッと息を呑み、何事もなかったように口を噤んだ。エレオノーラは蹲るシュメルヒの手に巻かれた白布に滲んだ赤色を見て、足早に近寄ってきた。
「妃殿下……大変、血が出ているじゃないの。何があったの」
「来ないでください、血に触れないように離れて」
「布で押さえているのだから大丈夫よ。心配ならこれ以上近寄らないわ。……いらっしゃい、私の部屋で手当てするから。といっても、手伝えないからシュメルヒ様に自分でしてもらわなくてはだけど」
「でも、ヨアン様が……」
「ヨアンが何?」
今しがたまで興奮状態だったせいか、流血の焦りも相まって舌がもつれてしまう。エレオノーラのはきはきした喋り方がヨアンに似ているせいもあるかもしれない。
「シュメルヒ様は気が動転なされているのです。池で溺れたばかりなので」
「……溺れたですって?」
シュメルヒはハビエルの手を振り払い、床に額を付けた。
「シュメルヒ様? なにをっ、おやめください!」
ハビエルが引き起こそうとするのに抵抗して、そのまま懇願した。今この場で頼れるのは、「彼女」だ。
「お願いです、どうか……イルミナさまにお願いがあるのです。ここを開けてください。儀式を中断して欲しいのです、ヨアン様をっ、お救い下さい」
身を投げるように冷たい大理石に額づいた。
「どうか、どうか」
「シュメルヒ様……」
ハビエルはどうしていいか分からず、空中で手をさ迷わせた。そんな中、静かに近づいてしゃがみ込んだのはエレオノーラだ。
「お顔をお上げになって、妃殿下。……会ったばかりなのに、本当に驚かす御方なのね。協力しても良いけれど、わけを話してくださるのが条件よ」
「時間がありません」
「我儘ね。……お母様を動かすのは無理だわ」
「エレオノーラ様!」
「待って。最後まで話を聞いて頂戴、妃殿下」
エレオノーラは弾かれたように顔を上げたシュメルヒに人差し指を突きつけた。
「尋常でない様子だから、『何かあった』というのは信じるけれど。なら猶更、お母様は儀式を中断なんてしない。だから別の人を頼ってらして」
「別って……」
「ついてらして、妃殿下。まずは手当てが先よ。それが済まないうちは、案内してあげない」
「でも、ヨアン様は今こうしてる間にも」
溺れているかもしれない。ゾッとした。己の無力に発狂しそうになる。カタカタと震えるシュメルヒを見て、エレオノーラが肩に手を置いた。
「落ち着いて。大丈夫よ。神官たちがヨアンに決まった時間に食料を運ぶ決まりなの。それが丁度ついさっき。出入りするのを見たから確かよ。それから妃殿下がいらっしゃるまで不審な立ち入りはなかったわ。だからヨアンは無事」
本当に? それが本当なら、どんなに安心できることだろう。しかし、頭の中の警鐘は鳴り止んでくれない。池の中で見た悪夢のような光景が、ずっと繰り返している。
ヨアンをここから出してあげなくては。そればかりが頭をぐるぐる回っている。
「シュメルヒ様。とにかく、今は彼女に従いましょう。我々だけで扉を開けるのは不可能です」
ハビエルに肩を掴まれ、半ば強引に引き起こされた。
「さあ、シュメルヒ様。ここでこうしていても、ヨアン殿下には会えませんよ」
「……はい」
ハビエルは、ただシュメルヒをここから立ち去らせたいだけかもしれない。シュメルヒが溺れたせいで錯乱していると思っているのかもしれない……それでも、彼の言うことは正しい。このまま蹲っているよりも、離れてでも自分に出来ることがあるなら、動くべきなのだ。たとえヨアンの傍を離れるのが不安でたまらなくても、それはシュメルヒの我儘でしかない。
「エレオノーラ様、約束してください。この扉を開けることができる方に御引き合わせくださると」
「ええ、妃殿下。約束するわ。私だって、そこまで仰るならヨアンが心配ですもの」
それは、婚約者だったから……? 今でもヨアンのことを、想っているから?
シュメルヒは邪念を振り払うように立ち上がった。
今はそんなことより、ヨアンを早くここから出してあげる方が先決だ。
エレオノーラに連れられて入った部屋は、シュメルヒの想像通り美しく華やかだった。薄い黄色を基調とした室内には、花が花瓶に活けられ、甘い芳香を放っている。良い香りだが、シュメルヒには少し強いと感じられる百合の甘い芳香が特に強く香っていた。慣れていないと、ややきついかもしれない。だがシュメルヒには、エレオノーラの肢体から立ち昇る芳醇な香りの方がよっぽど強く感じられた。
(これが成熟したオメガの放つ香気……)
同じオメガの自分でさえこうなのだ。アルファのヨアンにとってはどれほど魅惑的だろうか。
シュメルヒの、オメガとしての欠陥。発情期が訪れないこと。オメガ特有の香気がないこと……ヨアンには伝えていない。「シュメルヒ殿下から言及する必要はない」と、イレニアを発つ時、侍従長を通してそう言われた。
(これまで、ヨアン様に指摘されたことはなかった)
シュメルヒのオメガとしての欠陥を、ヨアンは気付いていた……? だとしたらヨアンは。
(私に興味がないから、あえて言及しなかった……? その方が、都合が良かったから?)
番がいないオメガの発情期の堪えは大層厄介だと聞いた。オメガと違い、アルファは王族以外にも生れ落ちる。独身のアルファを金で雇い、発情期の間だけ傍に置く習慣は大陸では一般的だ。もちろん、貞淑を重んじる貴族たちの間では、アルファの香気で発情期の熱を和らげるだけで、伴侶以外と肉体の交わりを持つことはあり得ない。少なくとも、表向きは。
(私に発情期がないのは、良いことだと思っていた)
<毒持ち>のオメガに近付きたいアルファなんていない。発情期の昂りを抑えるためとはいえ、そんな相手を見つけ出そうと思えば、権力にものを言わせて強要するか、よほど金策に困った相手を探し出す手間が要る。断れない事情がある者を怯えさせてまで側に侍らせるよりは、欠陥がある方がましな気がしていた。それなのに。
(今までも、気付かなかっただけで……ヨアン様は私とエレオノーラ様を比べていたのかもしれない)
せめて彼女のように、明るく快活で、ヨアンが面白がるようなことを言える口があればよかった。ヨアンがシュメルヒを揶揄ったり意地悪を言うたびもごもごと口籠っていては、ヨアンも退屈だったに違いない……。
「さあ、手当てできたわ。それで、さっきの話だけれど」
シュメルヒが考え込んでいる間に、怪我の手当ては終わった。
ハビエルが呆れたように、「出来たもなにも、手当てしたのはシュメルヒ様では? 全部ご自分でされてるじゃないですか」と言った。
「仕方ないでじゃない。触ったら駄目って仰るんだから。……いつもご自分でされてるのね」
シュメルヒは考え事をしながらも黙々と動かしていた手を止めた。
怪我の種類、傷の度合いによってどんな治療が必要か……イレニアにいた頃からつくづくと頭に叩き込まれてきたから、考えるまでもなく自然と手が動くのだ。
「出血が酷いときは火で炙って傷口を固めてしまうのですが、この程度ならそこまでせずとも良さそうなので」
「当たり前でしょ。そんなこと平然と口にしないで頂戴。……聞いてるだけで痛くなってしまいそうよ」
「申し訳ございません。確かに、ご令嬢の前でする話ではございませんでした」
「……そういうことが言いたいのではなくってよ」
よく分からなくて首を傾げる。エレオノーラはハビエルを振り返り、「いつもこうなの?」と尋ねた。ハビエルは肩を竦めて見せた。ふたりの間で交わされた無言のやり取りの気配に困惑したが、そんなことより今は急ぐべきことがあるのだ。エレオノーラの条件通り、こうして怪我の手当ても済んだ。
「エレオノーラ様。お約束の件ですが、こうしてきちんと治療をしました。ヨアン様を外に出す力を貸してください」
シュメルヒが長椅子から立ち上がると、エレオノーラは「ああ、そうでしたわね」と、テーブルの上の呼び鈴を鳴らした。何というか、シュメルヒの焦りをよそに悠長である。この場で、シュメルヒだけがじりじりと急き立てられている。
呼び鈴を聞き付け、侍女がひとり歩み寄ってきた。エレオノーラが二つ折りの紙切れを渡す。
「リアナ。これをエデ夫人に届けて頂戴。今すぐ。あまり人目につかないように注意して」
「かしこまりました。エレオノーラ様」
侍女が部屋を出て行くと、はやる気持ちを押さえつけて問いかけた。
「エデ、様という方がヨアン様をお助け下さるのですか?」
「いいえ? エデ夫人は侯爵夫人で、王妃付き侍女頭」
シュメルヒが驚きに目を瞠る。エレオノーラはなぜか苦笑を浮かべている。
「お母さまを頼りたかったのでしょうけれど、やめておいた方がいいわ。あの人はヨアンが大事というより、自分の育てた皇太子が大事なだけ。<水の祈り>は諸侯たちにヨアンの皇族としての威信を示すために必要な儀式だから、あの子が危険な目に合っても中断なんてしない。たとえ助けるためでも、それは同じ。……取り返しがつかなくなる寸前まで」
「そんな……イルミナ様は、そのようなお方では」
「娘の私が言っているのに信じられないの? 変な方ね、シュメルヒ様。お母さまとは会ったばかりなのに、なぜそこまで信頼されていらっしゃるの」
「それは……」
知っているからだ。前世でイルミナが優しく、献身的にヨアンを支えていたこと。王宮内の醜い争いに巻き込まれないよう遠ざけて、キリアスのような裏切り者から守ってくれた。仮妃にすぎないシュメルヒまで優しく労わってくれたのは、彼女だけだ。
姉のような、母のような温かさを持った女性を、どうして娘のエレオノーラはそんな風に捉えているのが寂しかった。
「エレオノーラ様は誤解されておいでです。イルミナさまはヨアン様や私を慮ってくださいます。きっと私が頼めば、今回だって」
初夜でヨアンの発作を鎮めた時のように、救いの手を差し伸べてくれるに違いない。
「ノーラ⁉ ここでなにしてるんだ」
驚いてハビエルを見た。それは愛称を呼ばれたエレオノーラも同じだったようだ。
目つきを鋭くし、咎めるようにじっとハビエルを見つめる。ハビエルはハッと息を呑み、何事もなかったように口を噤んだ。エレオノーラは蹲るシュメルヒの手に巻かれた白布に滲んだ赤色を見て、足早に近寄ってきた。
「妃殿下……大変、血が出ているじゃないの。何があったの」
「来ないでください、血に触れないように離れて」
「布で押さえているのだから大丈夫よ。心配ならこれ以上近寄らないわ。……いらっしゃい、私の部屋で手当てするから。といっても、手伝えないからシュメルヒ様に自分でしてもらわなくてはだけど」
「でも、ヨアン様が……」
「ヨアンが何?」
今しがたまで興奮状態だったせいか、流血の焦りも相まって舌がもつれてしまう。エレオノーラのはきはきした喋り方がヨアンに似ているせいもあるかもしれない。
「シュメルヒ様は気が動転なされているのです。池で溺れたばかりなので」
「……溺れたですって?」
シュメルヒはハビエルの手を振り払い、床に額を付けた。
「シュメルヒ様? なにをっ、おやめください!」
ハビエルが引き起こそうとするのに抵抗して、そのまま懇願した。今この場で頼れるのは、「彼女」だ。
「お願いです、どうか……イルミナさまにお願いがあるのです。ここを開けてください。儀式を中断して欲しいのです、ヨアン様をっ、お救い下さい」
身を投げるように冷たい大理石に額づいた。
「どうか、どうか」
「シュメルヒ様……」
ハビエルはどうしていいか分からず、空中で手をさ迷わせた。そんな中、静かに近づいてしゃがみ込んだのはエレオノーラだ。
「お顔をお上げになって、妃殿下。……会ったばかりなのに、本当に驚かす御方なのね。協力しても良いけれど、わけを話してくださるのが条件よ」
「時間がありません」
「我儘ね。……お母様を動かすのは無理だわ」
「エレオノーラ様!」
「待って。最後まで話を聞いて頂戴、妃殿下」
エレオノーラは弾かれたように顔を上げたシュメルヒに人差し指を突きつけた。
「尋常でない様子だから、『何かあった』というのは信じるけれど。なら猶更、お母様は儀式を中断なんてしない。だから別の人を頼ってらして」
「別って……」
「ついてらして、妃殿下。まずは手当てが先よ。それが済まないうちは、案内してあげない」
「でも、ヨアン様は今こうしてる間にも」
溺れているかもしれない。ゾッとした。己の無力に発狂しそうになる。カタカタと震えるシュメルヒを見て、エレオノーラが肩に手を置いた。
「落ち着いて。大丈夫よ。神官たちがヨアンに決まった時間に食料を運ぶ決まりなの。それが丁度ついさっき。出入りするのを見たから確かよ。それから妃殿下がいらっしゃるまで不審な立ち入りはなかったわ。だからヨアンは無事」
本当に? それが本当なら、どんなに安心できることだろう。しかし、頭の中の警鐘は鳴り止んでくれない。池の中で見た悪夢のような光景が、ずっと繰り返している。
ヨアンをここから出してあげなくては。そればかりが頭をぐるぐる回っている。
「シュメルヒ様。とにかく、今は彼女に従いましょう。我々だけで扉を開けるのは不可能です」
ハビエルに肩を掴まれ、半ば強引に引き起こされた。
「さあ、シュメルヒ様。ここでこうしていても、ヨアン殿下には会えませんよ」
「……はい」
ハビエルは、ただシュメルヒをここから立ち去らせたいだけかもしれない。シュメルヒが溺れたせいで錯乱していると思っているのかもしれない……それでも、彼の言うことは正しい。このまま蹲っているよりも、離れてでも自分に出来ることがあるなら、動くべきなのだ。たとえヨアンの傍を離れるのが不安でたまらなくても、それはシュメルヒの我儘でしかない。
「エレオノーラ様、約束してください。この扉を開けることができる方に御引き合わせくださると」
「ええ、妃殿下。約束するわ。私だって、そこまで仰るならヨアンが心配ですもの」
それは、婚約者だったから……? 今でもヨアンのことを、想っているから?
シュメルヒは邪念を振り払うように立ち上がった。
今はそんなことより、ヨアンを早くここから出してあげる方が先決だ。
エレオノーラに連れられて入った部屋は、シュメルヒの想像通り美しく華やかだった。薄い黄色を基調とした室内には、花が花瓶に活けられ、甘い芳香を放っている。良い香りだが、シュメルヒには少し強いと感じられる百合の甘い芳香が特に強く香っていた。慣れていないと、ややきついかもしれない。だがシュメルヒには、エレオノーラの肢体から立ち昇る芳醇な香りの方がよっぽど強く感じられた。
(これが成熟したオメガの放つ香気……)
同じオメガの自分でさえこうなのだ。アルファのヨアンにとってはどれほど魅惑的だろうか。
シュメルヒの、オメガとしての欠陥。発情期が訪れないこと。オメガ特有の香気がないこと……ヨアンには伝えていない。「シュメルヒ殿下から言及する必要はない」と、イレニアを発つ時、侍従長を通してそう言われた。
(これまで、ヨアン様に指摘されたことはなかった)
シュメルヒのオメガとしての欠陥を、ヨアンは気付いていた……? だとしたらヨアンは。
(私に興味がないから、あえて言及しなかった……? その方が、都合が良かったから?)
番がいないオメガの発情期の堪えは大層厄介だと聞いた。オメガと違い、アルファは王族以外にも生れ落ちる。独身のアルファを金で雇い、発情期の間だけ傍に置く習慣は大陸では一般的だ。もちろん、貞淑を重んじる貴族たちの間では、アルファの香気で発情期の熱を和らげるだけで、伴侶以外と肉体の交わりを持つことはあり得ない。少なくとも、表向きは。
(私に発情期がないのは、良いことだと思っていた)
<毒持ち>のオメガに近付きたいアルファなんていない。発情期の昂りを抑えるためとはいえ、そんな相手を見つけ出そうと思えば、権力にものを言わせて強要するか、よほど金策に困った相手を探し出す手間が要る。断れない事情がある者を怯えさせてまで側に侍らせるよりは、欠陥がある方がましな気がしていた。それなのに。
(今までも、気付かなかっただけで……ヨアン様は私とエレオノーラ様を比べていたのかもしれない)
せめて彼女のように、明るく快活で、ヨアンが面白がるようなことを言える口があればよかった。ヨアンがシュメルヒを揶揄ったり意地悪を言うたびもごもごと口籠っていては、ヨアンも退屈だったに違いない……。
「さあ、手当てできたわ。それで、さっきの話だけれど」
シュメルヒが考え込んでいる間に、怪我の手当ては終わった。
ハビエルが呆れたように、「出来たもなにも、手当てしたのはシュメルヒ様では? 全部ご自分でされてるじゃないですか」と言った。
「仕方ないでじゃない。触ったら駄目って仰るんだから。……いつもご自分でされてるのね」
シュメルヒは考え事をしながらも黙々と動かしていた手を止めた。
怪我の種類、傷の度合いによってどんな治療が必要か……イレニアにいた頃からつくづくと頭に叩き込まれてきたから、考えるまでもなく自然と手が動くのだ。
「出血が酷いときは火で炙って傷口を固めてしまうのですが、この程度ならそこまでせずとも良さそうなので」
「当たり前でしょ。そんなこと平然と口にしないで頂戴。……聞いてるだけで痛くなってしまいそうよ」
「申し訳ございません。確かに、ご令嬢の前でする話ではございませんでした」
「……そういうことが言いたいのではなくってよ」
よく分からなくて首を傾げる。エレオノーラはハビエルを振り返り、「いつもこうなの?」と尋ねた。ハビエルは肩を竦めて見せた。ふたりの間で交わされた無言のやり取りの気配に困惑したが、そんなことより今は急ぐべきことがあるのだ。エレオノーラの条件通り、こうして怪我の手当ても済んだ。
「エレオノーラ様。お約束の件ですが、こうしてきちんと治療をしました。ヨアン様を外に出す力を貸してください」
シュメルヒが長椅子から立ち上がると、エレオノーラは「ああ、そうでしたわね」と、テーブルの上の呼び鈴を鳴らした。何というか、シュメルヒの焦りをよそに悠長である。この場で、シュメルヒだけがじりじりと急き立てられている。
呼び鈴を聞き付け、侍女がひとり歩み寄ってきた。エレオノーラが二つ折りの紙切れを渡す。
「リアナ。これをエデ夫人に届けて頂戴。今すぐ。あまり人目につかないように注意して」
「かしこまりました。エレオノーラ様」
侍女が部屋を出て行くと、はやる気持ちを押さえつけて問いかけた。
「エデ、様という方がヨアン様をお助け下さるのですか?」
「いいえ? エデ夫人は侯爵夫人で、王妃付き侍女頭」
シュメルヒが驚きに目を瞠る。エレオノーラはなぜか苦笑を浮かべている。
「お母さまを頼りたかったのでしょうけれど、やめておいた方がいいわ。あの人はヨアンが大事というより、自分の育てた皇太子が大事なだけ。<水の祈り>は諸侯たちにヨアンの皇族としての威信を示すために必要な儀式だから、あの子が危険な目に合っても中断なんてしない。たとえ助けるためでも、それは同じ。……取り返しがつかなくなる寸前まで」
「そんな……イルミナ様は、そのようなお方では」
「娘の私が言っているのに信じられないの? 変な方ね、シュメルヒ様。お母さまとは会ったばかりなのに、なぜそこまで信頼されていらっしゃるの」
「それは……」
知っているからだ。前世でイルミナが優しく、献身的にヨアンを支えていたこと。王宮内の醜い争いに巻き込まれないよう遠ざけて、キリアスのような裏切り者から守ってくれた。仮妃にすぎないシュメルヒまで優しく労わってくれたのは、彼女だけだ。
姉のような、母のような温かさを持った女性を、どうして娘のエレオノーラはそんな風に捉えているのが寂しかった。
「エレオノーラ様は誤解されておいでです。イルミナさまはヨアン様や私を慮ってくださいます。きっと私が頼めば、今回だって」
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