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第1章:偽聖女の烙印
1-4:嘆きの森へ
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何が起こったのか、ルシルにはもうよく分からなかった。
全身が鉛のように重い。思考が霧の中に沈んでいく。
謁見の間から引きずり出され、あれほど誇りに思っていた「神聖薬草院」の白衣を、まるで汚物でも扱うかのように乱暴に剥ぎ取られた。ルシルの肩に、白衣の重みと同時に、長年背負ってきた使命の重みも剥ぎ取られていくような、空虚な感覚が残った。
すれ違う貴族たちの露骨な嘲笑、そして背後から聞こえたアデリーナの勝ち誇ったような微かな笑み。
それが、彼女が王宮で見た、屈辱と絶望に満ちた最後の光景だった。
ガタン、ゴトン。
粗末な荷馬車の固い荷台が、容赦なく体を打ち付ける。座席もなく、彼女はただ、木片と埃にまみれた荷台に横たわっていた。
夜の帳が降りたばかりの時間は、都市の喧騒が遠ざかるにつれて、一層の冷え込みを増していく。冷たい夜風が、仕事着の薄いワンピース一枚になった肌を突き刺し、骨の芯まで冷やしていく。
(寒い。そして、汚い)
泥にまみれたワンピース。それは、彼女が「仕事着」として選んだ、丈夫で実用的な服だったが、今やただの貧しい布切れだ。
震えが止まらない。肉体的な寒さのせいか、それとも、婚約者と信じていた者からの裏切りという、魂を凍らせるほどの恐怖のせいか。
どれだけ時間が経ったのだろう。体感では永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。
馬車が、舗装されていない荒れた道で、急に、そして乱暴に止まった。ゴツン、という衝撃と共に、ルシルは荷台の壁に頭を打ち付けた。
「着いたぞ。『偽聖女』様よ」
扉が乱暴に開けられ、月明かりを背にした衛兵の巨大な影が、ルシルの体を覆いかぶさる。
「さっさと降りろ!」
衛兵の侮蔑に満ちた声と共に、背中を強く蹴り飛ばされた。ルシルは、ぬかるんだ地面に顔から転がり落ち、全身が冷たい泥にまみれた。
「ヒィィィン!」
直後、すぐ近くの暗闇から、獣の遠吠えが聞こえた。それはただの獣ではなく、魔力を帯びた、腹の底に響くような、恐怖を煽る咆哮だった。
ぞわり、と総毛立つ。
「嘆きの森」。
王国で最も危険な魔獣の巣窟。その入り口に、ルシルは文字通り「棄てられた」のだ。ここに放り出されることは、魔獣の餌となり、死を意味する。
「ま、待って! お願い、やめて!」
泥だらけの手で、最後の頼みとばかりに衛兵のブーツに縋ろうとするが、無情にも蹴り飛ばされた。
「うるさい! 王太子殿下のご命令だ! 貴様のような国家反逆者に、情けなどかける必要はない!」
「さっさと失せろ! 魔獣の餌になりやがれ!」
衛兵たちは、ルシルを森の入口に置き去りにし、急いで馬車に乗り込む。彼らの目にも、この森の恐ろしさが映っているのだろう。馬車は泥を跳ね上げながら、一目散に王都へと走り去っていった。
後に残されたのは、圧倒的な闇と、魔獣の気配が満ちる深い森、そして、泥まみれのルシル一人。
耳元で、風が唸る。心臓が早鐘を打つ。
(どうすればいい。薬草師の知識はあっても、戦闘力はゼロ。服はこれ一枚、食料も水も寝床もない。このままでは、夜明けを待たずに死んでしまう)
全身の震えが再び強くなる。絶望が全身を支配し、彼女の膝を地面につかせようとした。
その時、馬車の轟音が完全に消え去った後。
「おい」
低い声が、ルシルの耳に届いた。
彼女は反射的に顔を上げた。馬車から最後に降りた衛兵の一人が、少し離れた場所に立っている。
(また、戻ってきた? 今度こそ殺される!)
ルシルが恐怖で身を固くした瞬間、彼の足元に、何かが鈍い音を立てて投げ捨てられた。
「ガチャン!」
それは、一本の鞘に納められた、何の変哲もない、柄の擦り切れたナイフだった。
「気休めにしかならんだろうがな。丸腰で死ぬよりはマシだ。衛兵長には言うなよ。俺からの、ほんの情けだ」
衛兵はそれだけ早口で言い捨てると、ルシルの答えを待たずに、馬車の消えた道を足早に立ち去っていった。
後に残されたのは、遠くで響く魔獣の遠吠えと、手の届く場所にある一本のナイフ。
ルシルは震える手で、そのナイフを拾い上げた。冷たい鉄の感触が、手のひらにわずかな現実感を取り戻させた。
(情け、か)
それは屈辱的だったが、同時に、彼女を現実に引き戻す錨でもあった。
ルシルは、震えを無理やり押し殺し、ワンピースのポケットに手を入れた。
指先に、紙の束のような、固い感触が触れる。
(ああ、よかった!)
それは、追放の混乱の中、誰にも気づかれなかった、彼女の唯一にして最大の財産。
長年、血のにじむような努力で書き溜めてきた、薬草の成分解析、調合記録、そして未完成の研究データが記された、小さな『研究ノート』だった。
ナイフ一本と、一冊のノート。
それが、『偽聖女』として追放されたルシルの、全財産だった。
ルシルは、ノートが濡れないよう胸元にしっかりと抱きしめ、ナイフを強く握りしめた。
裏切られ、断罪され、全てを失った。だが、知識と、生きるための武器は残された。
(負けない。私は、ここで死ぬわけにはいかない!)
絶望の闇の中で、ルシルの中に、薬草師としての静かな、しかし確固たる意志が燃え上がった。
彼女は泥を払い、恐怖を振り払い、覚悟を決めて「嘆きの森」の暗闇へと足を踏み入れた。
生存の戦いが、今、始まった。
全身が鉛のように重い。思考が霧の中に沈んでいく。
謁見の間から引きずり出され、あれほど誇りに思っていた「神聖薬草院」の白衣を、まるで汚物でも扱うかのように乱暴に剥ぎ取られた。ルシルの肩に、白衣の重みと同時に、長年背負ってきた使命の重みも剥ぎ取られていくような、空虚な感覚が残った。
すれ違う貴族たちの露骨な嘲笑、そして背後から聞こえたアデリーナの勝ち誇ったような微かな笑み。
それが、彼女が王宮で見た、屈辱と絶望に満ちた最後の光景だった。
ガタン、ゴトン。
粗末な荷馬車の固い荷台が、容赦なく体を打ち付ける。座席もなく、彼女はただ、木片と埃にまみれた荷台に横たわっていた。
夜の帳が降りたばかりの時間は、都市の喧騒が遠ざかるにつれて、一層の冷え込みを増していく。冷たい夜風が、仕事着の薄いワンピース一枚になった肌を突き刺し、骨の芯まで冷やしていく。
(寒い。そして、汚い)
泥にまみれたワンピース。それは、彼女が「仕事着」として選んだ、丈夫で実用的な服だったが、今やただの貧しい布切れだ。
震えが止まらない。肉体的な寒さのせいか、それとも、婚約者と信じていた者からの裏切りという、魂を凍らせるほどの恐怖のせいか。
どれだけ時間が経ったのだろう。体感では永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。
馬車が、舗装されていない荒れた道で、急に、そして乱暴に止まった。ゴツン、という衝撃と共に、ルシルは荷台の壁に頭を打ち付けた。
「着いたぞ。『偽聖女』様よ」
扉が乱暴に開けられ、月明かりを背にした衛兵の巨大な影が、ルシルの体を覆いかぶさる。
「さっさと降りろ!」
衛兵の侮蔑に満ちた声と共に、背中を強く蹴り飛ばされた。ルシルは、ぬかるんだ地面に顔から転がり落ち、全身が冷たい泥にまみれた。
「ヒィィィン!」
直後、すぐ近くの暗闇から、獣の遠吠えが聞こえた。それはただの獣ではなく、魔力を帯びた、腹の底に響くような、恐怖を煽る咆哮だった。
ぞわり、と総毛立つ。
「嘆きの森」。
王国で最も危険な魔獣の巣窟。その入り口に、ルシルは文字通り「棄てられた」のだ。ここに放り出されることは、魔獣の餌となり、死を意味する。
「ま、待って! お願い、やめて!」
泥だらけの手で、最後の頼みとばかりに衛兵のブーツに縋ろうとするが、無情にも蹴り飛ばされた。
「うるさい! 王太子殿下のご命令だ! 貴様のような国家反逆者に、情けなどかける必要はない!」
「さっさと失せろ! 魔獣の餌になりやがれ!」
衛兵たちは、ルシルを森の入口に置き去りにし、急いで馬車に乗り込む。彼らの目にも、この森の恐ろしさが映っているのだろう。馬車は泥を跳ね上げながら、一目散に王都へと走り去っていった。
後に残されたのは、圧倒的な闇と、魔獣の気配が満ちる深い森、そして、泥まみれのルシル一人。
耳元で、風が唸る。心臓が早鐘を打つ。
(どうすればいい。薬草師の知識はあっても、戦闘力はゼロ。服はこれ一枚、食料も水も寝床もない。このままでは、夜明けを待たずに死んでしまう)
全身の震えが再び強くなる。絶望が全身を支配し、彼女の膝を地面につかせようとした。
その時、馬車の轟音が完全に消え去った後。
「おい」
低い声が、ルシルの耳に届いた。
彼女は反射的に顔を上げた。馬車から最後に降りた衛兵の一人が、少し離れた場所に立っている。
(また、戻ってきた? 今度こそ殺される!)
ルシルが恐怖で身を固くした瞬間、彼の足元に、何かが鈍い音を立てて投げ捨てられた。
「ガチャン!」
それは、一本の鞘に納められた、何の変哲もない、柄の擦り切れたナイフだった。
「気休めにしかならんだろうがな。丸腰で死ぬよりはマシだ。衛兵長には言うなよ。俺からの、ほんの情けだ」
衛兵はそれだけ早口で言い捨てると、ルシルの答えを待たずに、馬車の消えた道を足早に立ち去っていった。
後に残されたのは、遠くで響く魔獣の遠吠えと、手の届く場所にある一本のナイフ。
ルシルは震える手で、そのナイフを拾い上げた。冷たい鉄の感触が、手のひらにわずかな現実感を取り戻させた。
(情け、か)
それは屈辱的だったが、同時に、彼女を現実に引き戻す錨でもあった。
ルシルは、震えを無理やり押し殺し、ワンピースのポケットに手を入れた。
指先に、紙の束のような、固い感触が触れる。
(ああ、よかった!)
それは、追放の混乱の中、誰にも気づかれなかった、彼女の唯一にして最大の財産。
長年、血のにじむような努力で書き溜めてきた、薬草の成分解析、調合記録、そして未完成の研究データが記された、小さな『研究ノート』だった。
ナイフ一本と、一冊のノート。
それが、『偽聖女』として追放されたルシルの、全財産だった。
ルシルは、ノートが濡れないよう胸元にしっかりと抱きしめ、ナイフを強く握りしめた。
裏切られ、断罪され、全てを失った。だが、知識と、生きるための武器は残された。
(負けない。私は、ここで死ぬわけにはいかない!)
絶望の闇の中で、ルシルの中に、薬草師としての静かな、しかし確固たる意志が燃え上がった。
彼女は泥を払い、恐怖を振り払い、覚悟を決めて「嘆きの森」の暗闇へと足を踏み入れた。
生存の戦いが、今、始まった。
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