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第2章:嘆きの森と希望の小屋
2-4:最初の拠点確保
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(でも、このままでは危ない)
ルシルは、小屋を手に入れた喜びに浸る間もなく、すぐさま思考を切り替えた。
小屋はあっても、魔獣が匂いを嗅ぎつければ、こんな粗末な扉は簡単に突き破られてしまう。
時刻は、もう真夜中に近いだろう。夜明けまでは、まだ時間がある。
(魔獣避けの香草が必要よ)
幸い、この森が薬草の宝庫であることは確認済みだ。
薬草師の知識が、即座に答えを導き出す。
(『忌避の香草』。魔獣が嫌う、強い刺激臭を持つ薬草。確か、湿った岩陰に生えているはず。あの、苔むした岩壁の下にあったわ)
ルシルは再びナイフを強く握りしめ、小屋の外に出た。暗闇に目が慣れてきたとはいえ、夜の森は未だ危険に満ちている。
清流の周辺、水が滴る岩壁を注意深く探す。
(あった!)
暗闇の中でも分かる、特徴的な鋸歯状の葉。その植物は、強い魔力を持ったルシルでなければ、その刺激臭を魔力で感知することは難しい。
衛兵から渡されたナイフの刃が、この時初めて、ルシルの命を繋ぐ道具として機能した。必要な分だけ素早く、しかし丁寧に刈り取る。葉がちぎれるたびに、鼻をつく、強烈な薬草の香りが立ち上った。
急いで小屋に戻ると、ルシルは石造りの竈(かまど)を調べた。
長年の湿気で煤けてはいるが、構造はしっかりしている。幸運なことに、前の住人が残していった薪の残骸と、火打ち石が竈の横に転がっていた。
(火が点けば、すべてが始まる!)
湿気った薪は使えない。ルシルは、小屋の作業台の乾いた木片をナイフで削り、火口(ほくち)を作った。ナイフの切っ先は粗末だが、ルシルの繊細な手つきは、まるで王宮の精巧な器具を扱うようだ。
火打ち石を強く打ち付ける。
カチ、カチ。
冷たい闇の中で、小さな火花が散る。その度に、ルシルの顔に一瞬、炎のような赤みが差した。
三度、四度。焦りが募る。火花は散るが、火口に移らない。
(だめ。体力が、集中力が足りない)
王宮での生活では、火起こしなど侍女の仕事であり、ルシルが自ら行うことはなかった。薬草の精製に必要なのは、精密な魔力制御と繊細な指先の動き。暴力的な力ではない。疲労困憊の体では、単純な火打ち石の作業ですら、こんなにも難しいのか。
額に冷たい汗が滲む。このままでは、香草を燻すこともできず、夜明けまでに魔獣に嗅ぎつけられてしまう。
ルシルは、大きく深呼吸をした。
(落ち着いて。魔力制御と、火起こしは、原理は同じ。必要なのは、焦りではなく、正確な力と、熱を集める集中力よ)
薬草を扱う時と同じように、ルシルは全身の意識を右手のナイフと火打ち石に集中させた。心臓の鼓動を鎮め、魔力を手のひらに集める。
カキン!
ひときわ強く、正確に打ち付けられた火打ち石から、鮮やかな火花が弾けた。その火花が、削ったばかりの乾いた火口に舞い落ちた瞬間、小さな赤い点が生まれた。
ルシルが必死に、しかし丁寧に息を吹きかけると、ぼっ、と音を立てて頼りない炎が立ち上がった。
「やった」
小さな勝利だったが、その安堵と達成感は、王宮で『神聖原液』を完成させた時にも引けを取らなかった。
ルシルは、その炎に急いで『忌避の香草』をくべた。
すぐに、ツンとするような、しかしどこか清涼感のある独特の煙が立ち上り、小屋の隙間という隙間から、森の闇へと流れ出していく。
煙は、目に見えない魔獣避けの結界を小屋の周囲に張り巡らせた。匂いを辿って近づこうとする魔獣は、この強い刺激臭に、本能的な嫌悪感を抱き、この場を避けるはずだ。
(よし。これで、ひとまず魔獣は近づいてこないはず)
この香りは、多くの魔獣が嫌う。完璧な安全ではないが、丸腰で夜を明かすよりは遥かにマシだった。
ルシルは、重い木の扉を内側からなんとか塞ぐと、竈の前にへたり込んだ。
炎がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く。
泥まみれのワンピース。空っぽの胃袋。そして、極度の疲労。
全てを失ったはずだった。
それなのに、不思議と心は満たされていた。
(私、生きている。そして、生き残った)
炎の暖かさが、骨の芯まで染み渡る。暖炉の向こうには、暗く危険な森が横たわっているが、この小さな空間だけは、彼女の知識と努力によって守られている。
王宮の工房で、国の最高機密を背負い、息を詰めて生きていた頃よりも、今、この瞬間のほうが、よほど「生きている」実感があった。
孤独だが、自由だ。誰の監視もない。誰の思惑に怯える必要もない。
ルシルは、炎の揺らぎを見つめながら、今後の計画を立て始めた。
(明日は、まずこの小屋を修理しないと。壁の隙間を粘土とツタで塞ぎ、雨風と魔獣の視線から遮断する。それから、食料の調達。あの『月影草』も、ちゃんと処理しないと、鮮度が落ちてしまう)
考えることは、山積みだ。
薬草師としての本能が、王太子への憎しみも、貴族としてのプライドも、全てを塗り替えていく。それは、純粋な研究者としての喜びに満ちていた。
ルシルは、胸元の研究ノートをそっと取り出し、炎の光にかざした。ノートは濡れていない。
「わたくしの研究室へようこそ」
誰に言うでもなく、彼女は微笑んだ。その顔は、泥にまみれてはいたが、王宮で見たどの瞬間よりも、強く、そして輝いていた。
追放された『偽聖女』の、嘆きの森でのスローライフが、今、静かに、しかし確かな炎と共に幕を開けた。
ルシルは、小屋を手に入れた喜びに浸る間もなく、すぐさま思考を切り替えた。
小屋はあっても、魔獣が匂いを嗅ぎつければ、こんな粗末な扉は簡単に突き破られてしまう。
時刻は、もう真夜中に近いだろう。夜明けまでは、まだ時間がある。
(魔獣避けの香草が必要よ)
幸い、この森が薬草の宝庫であることは確認済みだ。
薬草師の知識が、即座に答えを導き出す。
(『忌避の香草』。魔獣が嫌う、強い刺激臭を持つ薬草。確か、湿った岩陰に生えているはず。あの、苔むした岩壁の下にあったわ)
ルシルは再びナイフを強く握りしめ、小屋の外に出た。暗闇に目が慣れてきたとはいえ、夜の森は未だ危険に満ちている。
清流の周辺、水が滴る岩壁を注意深く探す。
(あった!)
暗闇の中でも分かる、特徴的な鋸歯状の葉。その植物は、強い魔力を持ったルシルでなければ、その刺激臭を魔力で感知することは難しい。
衛兵から渡されたナイフの刃が、この時初めて、ルシルの命を繋ぐ道具として機能した。必要な分だけ素早く、しかし丁寧に刈り取る。葉がちぎれるたびに、鼻をつく、強烈な薬草の香りが立ち上った。
急いで小屋に戻ると、ルシルは石造りの竈(かまど)を調べた。
長年の湿気で煤けてはいるが、構造はしっかりしている。幸運なことに、前の住人が残していった薪の残骸と、火打ち石が竈の横に転がっていた。
(火が点けば、すべてが始まる!)
湿気った薪は使えない。ルシルは、小屋の作業台の乾いた木片をナイフで削り、火口(ほくち)を作った。ナイフの切っ先は粗末だが、ルシルの繊細な手つきは、まるで王宮の精巧な器具を扱うようだ。
火打ち石を強く打ち付ける。
カチ、カチ。
冷たい闇の中で、小さな火花が散る。その度に、ルシルの顔に一瞬、炎のような赤みが差した。
三度、四度。焦りが募る。火花は散るが、火口に移らない。
(だめ。体力が、集中力が足りない)
王宮での生活では、火起こしなど侍女の仕事であり、ルシルが自ら行うことはなかった。薬草の精製に必要なのは、精密な魔力制御と繊細な指先の動き。暴力的な力ではない。疲労困憊の体では、単純な火打ち石の作業ですら、こんなにも難しいのか。
額に冷たい汗が滲む。このままでは、香草を燻すこともできず、夜明けまでに魔獣に嗅ぎつけられてしまう。
ルシルは、大きく深呼吸をした。
(落ち着いて。魔力制御と、火起こしは、原理は同じ。必要なのは、焦りではなく、正確な力と、熱を集める集中力よ)
薬草を扱う時と同じように、ルシルは全身の意識を右手のナイフと火打ち石に集中させた。心臓の鼓動を鎮め、魔力を手のひらに集める。
カキン!
ひときわ強く、正確に打ち付けられた火打ち石から、鮮やかな火花が弾けた。その火花が、削ったばかりの乾いた火口に舞い落ちた瞬間、小さな赤い点が生まれた。
ルシルが必死に、しかし丁寧に息を吹きかけると、ぼっ、と音を立てて頼りない炎が立ち上がった。
「やった」
小さな勝利だったが、その安堵と達成感は、王宮で『神聖原液』を完成させた時にも引けを取らなかった。
ルシルは、その炎に急いで『忌避の香草』をくべた。
すぐに、ツンとするような、しかしどこか清涼感のある独特の煙が立ち上り、小屋の隙間という隙間から、森の闇へと流れ出していく。
煙は、目に見えない魔獣避けの結界を小屋の周囲に張り巡らせた。匂いを辿って近づこうとする魔獣は、この強い刺激臭に、本能的な嫌悪感を抱き、この場を避けるはずだ。
(よし。これで、ひとまず魔獣は近づいてこないはず)
この香りは、多くの魔獣が嫌う。完璧な安全ではないが、丸腰で夜を明かすよりは遥かにマシだった。
ルシルは、重い木の扉を内側からなんとか塞ぐと、竈の前にへたり込んだ。
炎がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く。
泥まみれのワンピース。空っぽの胃袋。そして、極度の疲労。
全てを失ったはずだった。
それなのに、不思議と心は満たされていた。
(私、生きている。そして、生き残った)
炎の暖かさが、骨の芯まで染み渡る。暖炉の向こうには、暗く危険な森が横たわっているが、この小さな空間だけは、彼女の知識と努力によって守られている。
王宮の工房で、国の最高機密を背負い、息を詰めて生きていた頃よりも、今、この瞬間のほうが、よほど「生きている」実感があった。
孤独だが、自由だ。誰の監視もない。誰の思惑に怯える必要もない。
ルシルは、炎の揺らぎを見つめながら、今後の計画を立て始めた。
(明日は、まずこの小屋を修理しないと。壁の隙間を粘土とツタで塞ぎ、雨風と魔獣の視線から遮断する。それから、食料の調達。あの『月影草』も、ちゃんと処理しないと、鮮度が落ちてしまう)
考えることは、山積みだ。
薬草師としての本能が、王太子への憎しみも、貴族としてのプライドも、全てを塗り替えていく。それは、純粋な研究者としての喜びに満ちていた。
ルシルは、胸元の研究ノートをそっと取り出し、炎の光にかざした。ノートは濡れていない。
「わたくしの研究室へようこそ」
誰に言うでもなく、彼女は微笑んだ。その顔は、泥にまみれてはいたが、王宮で見たどの瞬間よりも、強く、そして輝いていた。
追放された『偽聖女』の、嘆きの森でのスローライフが、今、静かに、しかし確かな炎と共に幕を開けた。
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