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第4章:氷の辺境伯、倒れる
4-1:嵐の夜、来訪者
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追放から、一週間が過ぎた。
ルシルが手に入れた生活は、驚くほど安定し、そして満ち足りたものになっていた。
小屋の修復は完了し、粘土とツタで補強された壁は、もはや森の冷たい風を通すことはない。竈の火は「火種壺」のおかげで絶えることなく管理され、小屋の中は常に柔らかな暖かさと、燻製肉の香ばしい匂い、そして乾燥薬草の清涼な香りが混じり合った、ルシルだけの「工房の匂い」で満たされていた。
食料は豊富だった。燻製にしたウサギの肉と川魚。精製した岩塩。そして、食用キノコや木の実。王宮の食事に比べれば質素だが、すべてが自分の知識と力で手に入れたものであり、その味は格別だった。
何より、ルシルを喜ばせたのは、研究の自由だった。
「やはり、『月影草』の細胞活性化作用は、純度を落とせば『安らぎカモミール』の鎮静作用と反発しない。むしろ、肌の奥深くまで鎮静成分を届けるための『運び屋』として機能するわ」
竈の火に照らされ、ルシルは愛用の研究ノートに、自作のインクで考察を書き込んでいた。
彼女の顔や手は、この一週間の肉体労働で少し荒れていたが、それすらも研究対象だった。今、彼女が作っている試作一号の『美容ポーション』が完成すれば、それもすぐに治るだろう。
王宮での息苦しさが、まるで遠い昔のことのように思い出される。
『神聖原液』の精製ノルマ。
ジェラルドの機嫌を伺う、味のしない食事。
アデリーナの嫉妬に満ちた、粘つくような視線。
(あそこは、金色の檻だった)
この森の小屋は、粗末で、危険と隣り合わせだが、彼女の魂を縛るものは何もない。
「グルル」
遠くで、魔獣の低い唸り声が聞こえた。
だが、ルシルはもう、追放初日のようには怯えなかった。
(大丈夫。この小屋の周りには、乾燥させた『忌避の香草』を粉末にして撒いてある。竈の煙にも混ぜているから、よほどのことがない限り、魔獣は近づかない)
彼女の知識が、この小屋を森の暴力から守る「聖域(サンクチュアリ)」に変えていた。
ルシルは、自作のハーブティーを一口含み、研究の続きに集中しようとした。
その時だった。
ゴォォォォォ!
地響きのような風の音が、森全体を揺るがした。
「きゃっ」
小屋が、みしり、と軋む。竈の炎が激しく揺らぎ、壁の隙間から、これまで入ってきたことのない、鋭い風切り音が差し込んだ。
(嵐?)
さっきまでは、穏やかな夜だったはずだ。
ルシルは慌てて、補強したばかりの木の扉に駆け寄った。扉の隙間から外を覗くと、信じられない光景が広がっていた。
木々が、根元から引きちぎれんばかりにのたうっている。
横殴りの雨が、滝のように森を叩きつけていた。
だが、それはただの嵐ではなかった。
(魔力が、荒れている)
ルシルの繊細な魔力感知能力が、大気の異常を捉えていた。
嘆きの森の濃密な魔力が、嵐によってかき乱され、まるで煮え滾る大釜のように暴走している。
ザァァァァァ!
屋根を叩く雨音は、もはや「音」ではなく「衝撃」に近い。
(これほどの嵐は、王都では経験したことがない。これが、嘆きの森)
この森の自然は、薬草に類稀なる恩恵を与える一方で、一度牙を剥けば、王宮の騎士団すら容易に飲み込むほどの脅威となる。
ルシルは、自分の小屋がこの嵐に耐えられるか、急に不安になった。
(壁は補強した。でも、屋根は)
屋根は、崩れた箇所をツタと粘土で応急処置しただけだ。あの暴風雨に耐えられる保証はない。
(怖い)
孤独な夜に、荒れ狂う自然の脅威。
それは、追放初日に感じた魔獣への恐怖とはまた違う、抗いようのない、根源的な恐怖だった。
ルシルは、竈の炎が消えないよう薪を足しながら、この嵐が過ぎ去るのを、ただ息を殺して待つことしかできなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。
風の音、雨の音、木々が折れる音。その「破壊の交響曲」が最高潮に達したかと思われた、その時。
ピシッ、と。
嵐の音とは明らかに異質な、空気が凍るような、鋭い音が混じった。
そして、
ドクン、と。
小屋全体が、心臓が脈打つかのように、一度だけ強く揺れた。
(な、なに?)
それは地震ではない。
魔力の、爆発的な「放電」だった。
まるで、巨大な何かが、溜め込んだ魔力を制御できずに放出し、その衝撃波が小屋まで届いたかのようだ。
ルシルは、その魔力の「質」に、息を呑んだ。
(魔獣ではない。もっと、こう、純粋で、高密度で、でも、制御されていない。苦しんでいるような魔力)
薬草の魔力を制御することにかけては、王国随一のルシルだからこそ、その異常さが分かった。
あれは、魔獣が獲物を狩るための殺意に満ちた魔力ではない。
内側から破裂しそうなほどに膨れ上がった力が、持ち主の意思とは関係なく漏れ出している、苦痛に満ちた波動だった。
「グルルルァァァ!」
嵐の音の向こうで、魔獣たちが一斉に、恐怖に満ちた咆哮を上げた。
ルシルの『忌避の香草』の結界など、もはや意味をなさない。
あの魔力の波動は、森の生態系の頂点に立つ、絶対的な「何か」の存在を、他の全ての魔獣たちに知らしめていた。魔獣たちは、その「何か」から逃れるために、一斉に遠吠えを上げているのだ。
(だめだ、ここにいたら危険だ)
ルシルは、本能的にそう感じた。
あの魔力の持ち主が何であれ、これ以上近づいてこられたら、この小屋ごと吹き飛ばされてしまう。
彼女は、竈の火を急いで土で覆い隠し、光を消した。
棚の隅に隠していた研究ノートを、再びワンピースの胸元にねじ込む。
そして、衛兵に渡されたナイフ一本を、強く、強く握りしめた。
震えが止まらない。
せっかく手に入れた安息の場所が、今、未知の脅威によって脅かされている。
ドン、という地響きが、先ほどよりも近くで響いた。
嵐の音に混じって、荒い呼吸音と、何かを引きずるような、重い音が聞こえる。
(近づいてくる!)
ルシルは、ベッドの下の、最も暗い物陰に身を潜めた。
どうか、この小屋を通り過ぎてくれ、と強く願う。
心臓が、喉から飛び出しそうだった。
そして、その音は、ルシルの小屋の、粗末な木の扉の前で、ぴたりと止まった。
静寂。
嵐の音だけが響く中、その「何か」が、扉の向こう側で息を潜めているのが、痛いほど伝わってくる。
ルシルが手に入れた生活は、驚くほど安定し、そして満ち足りたものになっていた。
小屋の修復は完了し、粘土とツタで補強された壁は、もはや森の冷たい風を通すことはない。竈の火は「火種壺」のおかげで絶えることなく管理され、小屋の中は常に柔らかな暖かさと、燻製肉の香ばしい匂い、そして乾燥薬草の清涼な香りが混じり合った、ルシルだけの「工房の匂い」で満たされていた。
食料は豊富だった。燻製にしたウサギの肉と川魚。精製した岩塩。そして、食用キノコや木の実。王宮の食事に比べれば質素だが、すべてが自分の知識と力で手に入れたものであり、その味は格別だった。
何より、ルシルを喜ばせたのは、研究の自由だった。
「やはり、『月影草』の細胞活性化作用は、純度を落とせば『安らぎカモミール』の鎮静作用と反発しない。むしろ、肌の奥深くまで鎮静成分を届けるための『運び屋』として機能するわ」
竈の火に照らされ、ルシルは愛用の研究ノートに、自作のインクで考察を書き込んでいた。
彼女の顔や手は、この一週間の肉体労働で少し荒れていたが、それすらも研究対象だった。今、彼女が作っている試作一号の『美容ポーション』が完成すれば、それもすぐに治るだろう。
王宮での息苦しさが、まるで遠い昔のことのように思い出される。
『神聖原液』の精製ノルマ。
ジェラルドの機嫌を伺う、味のしない食事。
アデリーナの嫉妬に満ちた、粘つくような視線。
(あそこは、金色の檻だった)
この森の小屋は、粗末で、危険と隣り合わせだが、彼女の魂を縛るものは何もない。
「グルル」
遠くで、魔獣の低い唸り声が聞こえた。
だが、ルシルはもう、追放初日のようには怯えなかった。
(大丈夫。この小屋の周りには、乾燥させた『忌避の香草』を粉末にして撒いてある。竈の煙にも混ぜているから、よほどのことがない限り、魔獣は近づかない)
彼女の知識が、この小屋を森の暴力から守る「聖域(サンクチュアリ)」に変えていた。
ルシルは、自作のハーブティーを一口含み、研究の続きに集中しようとした。
その時だった。
ゴォォォォォ!
地響きのような風の音が、森全体を揺るがした。
「きゃっ」
小屋が、みしり、と軋む。竈の炎が激しく揺らぎ、壁の隙間から、これまで入ってきたことのない、鋭い風切り音が差し込んだ。
(嵐?)
さっきまでは、穏やかな夜だったはずだ。
ルシルは慌てて、補強したばかりの木の扉に駆け寄った。扉の隙間から外を覗くと、信じられない光景が広がっていた。
木々が、根元から引きちぎれんばかりにのたうっている。
横殴りの雨が、滝のように森を叩きつけていた。
だが、それはただの嵐ではなかった。
(魔力が、荒れている)
ルシルの繊細な魔力感知能力が、大気の異常を捉えていた。
嘆きの森の濃密な魔力が、嵐によってかき乱され、まるで煮え滾る大釜のように暴走している。
ザァァァァァ!
屋根を叩く雨音は、もはや「音」ではなく「衝撃」に近い。
(これほどの嵐は、王都では経験したことがない。これが、嘆きの森)
この森の自然は、薬草に類稀なる恩恵を与える一方で、一度牙を剥けば、王宮の騎士団すら容易に飲み込むほどの脅威となる。
ルシルは、自分の小屋がこの嵐に耐えられるか、急に不安になった。
(壁は補強した。でも、屋根は)
屋根は、崩れた箇所をツタと粘土で応急処置しただけだ。あの暴風雨に耐えられる保証はない。
(怖い)
孤独な夜に、荒れ狂う自然の脅威。
それは、追放初日に感じた魔獣への恐怖とはまた違う、抗いようのない、根源的な恐怖だった。
ルシルは、竈の炎が消えないよう薪を足しながら、この嵐が過ぎ去るのを、ただ息を殺して待つことしかできなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。
風の音、雨の音、木々が折れる音。その「破壊の交響曲」が最高潮に達したかと思われた、その時。
ピシッ、と。
嵐の音とは明らかに異質な、空気が凍るような、鋭い音が混じった。
そして、
ドクン、と。
小屋全体が、心臓が脈打つかのように、一度だけ強く揺れた。
(な、なに?)
それは地震ではない。
魔力の、爆発的な「放電」だった。
まるで、巨大な何かが、溜め込んだ魔力を制御できずに放出し、その衝撃波が小屋まで届いたかのようだ。
ルシルは、その魔力の「質」に、息を呑んだ。
(魔獣ではない。もっと、こう、純粋で、高密度で、でも、制御されていない。苦しんでいるような魔力)
薬草の魔力を制御することにかけては、王国随一のルシルだからこそ、その異常さが分かった。
あれは、魔獣が獲物を狩るための殺意に満ちた魔力ではない。
内側から破裂しそうなほどに膨れ上がった力が、持ち主の意思とは関係なく漏れ出している、苦痛に満ちた波動だった。
「グルルルァァァ!」
嵐の音の向こうで、魔獣たちが一斉に、恐怖に満ちた咆哮を上げた。
ルシルの『忌避の香草』の結界など、もはや意味をなさない。
あの魔力の波動は、森の生態系の頂点に立つ、絶対的な「何か」の存在を、他の全ての魔獣たちに知らしめていた。魔獣たちは、その「何か」から逃れるために、一斉に遠吠えを上げているのだ。
(だめだ、ここにいたら危険だ)
ルシルは、本能的にそう感じた。
あの魔力の持ち主が何であれ、これ以上近づいてこられたら、この小屋ごと吹き飛ばされてしまう。
彼女は、竈の火を急いで土で覆い隠し、光を消した。
棚の隅に隠していた研究ノートを、再びワンピースの胸元にねじ込む。
そして、衛兵に渡されたナイフ一本を、強く、強く握りしめた。
震えが止まらない。
せっかく手に入れた安息の場所が、今、未知の脅威によって脅かされている。
ドン、という地響きが、先ほどよりも近くで響いた。
嵐の音に混じって、荒い呼吸音と、何かを引きずるような、重い音が聞こえる。
(近づいてくる!)
ルシルは、ベッドの下の、最も暗い物陰に身を潜めた。
どうか、この小屋を通り過ぎてくれ、と強く願う。
心臓が、喉から飛び出しそうだった。
そして、その音は、ルシルの小屋の、粗末な木の扉の前で、ぴたりと止まった。
静寂。
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