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第4章:氷の辺境伯、倒れる
4-4:診断、魔力過多症
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嵐が、小屋の開かれた扉から容赦なく吹き込んでくる。
床に倒れ伏した男――氷の辺境伯カイラスの体からは、未だに魔力の嵐が漏れ出し、小屋の中の気温を急速に下げていく。ルシルの吐く息が、白くなった。
(このままでは、この人も、わたくしも、二人とも凍え死んでしまう)
ルシルの思考は、極限の状況下で、薬草師としての冷徹さを取り戻していた。
「放っておけ、ですって? 馬鹿なことを言わないで!」
ルシルは、恐怖を怒りに変えて叫んだ。
「わたくしは薬草師よ! 目の前で患者が死にかけているのを見過ごせるわけがないでしょう!」
彼女は、残る力を振り絞り、カイラスの巨体を掴んだ。
(重い!)
まるで、鉄の塊を引きずるようだ。王宮育ちのルシルの細い腕では、びくともしない。
だが、彼女は諦めなかった。
「くっ!」
奥歯を強く噛みしめ、全身の筋肉を震わせる。泥と雨水で滑る床に、足を踏ん張り、体幹を固定する。薬草の知識だけでなく、工房で重い樽を動かすために学んだ、あらゆる物理法則を総動員する。
テコの原理を使い、彼の外套の襟元を掴み、ナイフの柄を床に突き立てて滑車代わりにする。その一瞬の判断力と行動力は、もはや貴族令嬢のそれではない。この一週間、森の過酷な生活の中で養われた、「生きる者」の純粋な闘志だった。
「動いて! 生きるのを、諦めないで!」
泥と雨水にまみれながら、数センチずつ、数センチずつ、カイラスの体を小屋の奥へと引きずっていく。そのたびに、ルシルの指先は彼の魔力で凍りつき、皮膚が裂けるような激痛が走る。
しかし、ルシルは痛みを無視した。この痛みは、目の前の命と引き換えられるものなのだ。
カイラスは、もう抵抗する力も残っていないのか、ただ荒い息を繰り返すだけだった。彼の銀色の髪は雨と汗で濡れ、高熱のためか湯気が立っている。
どれほどの時間を要したか。
ルシルは、自分の肩が抜けそうなほどの痛みを感じながらも、なんとかカイラスの巨体を小屋の中央、竈の炎が(土に埋もれながらも)かろうじて熱を放つ場所まで移動させることに成功した。
すぐに、重い扉を閉め、閂を戻し、嵐を遮断する。
「ハァ、ハァ、ぜぇ、っ」
嵐の音が遠のき、小屋の中に、二人の荒い呼吸音だけが響いた。ルシルの呼吸は、自分の体力の限界を超えた労働のため、もはや喘ぎのようだった。彼女は、その場に倒れ込みそうになるのを、必死で堪えた。
(まずは、診断)
彼女は、泥と雨水でびしょ濡れのまま、カイラスのそばに膝をついた。
竈の熾火を急いで掻き出し、新しい薪にくべ直す。再び勢いよく立ち上った炎が、カイラスの苦悶に満ちた顔を照らし出した。
ルシルは、その顔の造形美に一瞬息を呑んだが、すぐに薬草師の目に戻った。
(市販ポーションを「毒」と拒絶した。この症状は、間違いなく『魔力過多症』)
王宮の書庫で読んだ、禁書に近い医療記録。
体内の魔力生成量が、消費量を上回り、常に魔力が飽和状態となる。
飽和した魔力は、持ち主の意思に関係なく暴走し、肉体を内側から破壊する。
治療法は、ない。
なぜなら、彼らを癒やすことができるほどの「高純度のポーション」が存在しないからだ。不純物入りの薬は、彼らにとって毒でしかない。
(だから、王都の薬を拒絶したのね)
カイラスがなぜこんな森の奥にいたのかは分からない。だが、おそらく、この嵐が引き金となり、定期的な発作が最悪の形で発生したのだろう。
ルシルは、カイラスの首筋にそっと手を触れた。
(熱い! 火傷しそうなほどの高熱。でも、わたくしの指先は凍りつきそうだわ)
矛盾した現象が、彼の体で起こっている。
魔力が暴走し、熱エネルギーとして変換されると同時に、彼の魔力の本質である「氷」が、その熱を無理やり抑え込もうとして、体表でぶつかり合っているのだ。
このままでは、内側からは高熱で、外側からは凍結で、彼の肉体は崩壊する。
(助ける方法は、一つしかない)
ルシルの脳裏に、数日前に自らが精製した、あの琥珀色の液体が浮かんだ。
王宮で、騎士団長フェリクスを救うために精製した『神聖原液』。
そして、この森に来てから、護身用と研究用に、あの『月影草』と清流の水を使って、ほんの数滴だけ、王宮のものを遥かに凌駕する純度で精製し直した、彼女だけの『神薬』。
(あれなら、いける)
市販のポーションが「毒」になるのは、不純物のせいだ。
だが、ルシルが精製した『神聖原液』は、不純物ゼロ。純度百分の一の、魔力そのものと言っていい。
『月影草』の強力な魔力鎮静作用が、彼の荒れ狂う魔力を抑え込み、神経の損傷を修復できるはずだ。
(この人を助けられるのは、世界でわたくしだけだわ)
追放された『偽聖女』。
王太子に「地味で陰気な薬草いじり」と罵られた、彼女の技術。
それこそが今、王国最強の魔術師の命を救う、唯一の鍵となっていた。
ルシルは、カイラスの凍える手首をそっと握った。
「待っていて、カイラス様。わたくしが、必ず、その苦痛から救い出してあげる」
彼女は、乾燥棚の奥、最も厳重に隠してあった、小さな鉛のケースへと手を伸ばした。
その瞳には、嵐の夜の恐怖も、追放の絶望も、もはや微塵も残っていなかった。
一人の研究者として、薬草師として、目の前の難解な「症例」を救うという、燃えるような使命感だけが宿っていた。
床に倒れ伏した男――氷の辺境伯カイラスの体からは、未だに魔力の嵐が漏れ出し、小屋の中の気温を急速に下げていく。ルシルの吐く息が、白くなった。
(このままでは、この人も、わたくしも、二人とも凍え死んでしまう)
ルシルの思考は、極限の状況下で、薬草師としての冷徹さを取り戻していた。
「放っておけ、ですって? 馬鹿なことを言わないで!」
ルシルは、恐怖を怒りに変えて叫んだ。
「わたくしは薬草師よ! 目の前で患者が死にかけているのを見過ごせるわけがないでしょう!」
彼女は、残る力を振り絞り、カイラスの巨体を掴んだ。
(重い!)
まるで、鉄の塊を引きずるようだ。王宮育ちのルシルの細い腕では、びくともしない。
だが、彼女は諦めなかった。
「くっ!」
奥歯を強く噛みしめ、全身の筋肉を震わせる。泥と雨水で滑る床に、足を踏ん張り、体幹を固定する。薬草の知識だけでなく、工房で重い樽を動かすために学んだ、あらゆる物理法則を総動員する。
テコの原理を使い、彼の外套の襟元を掴み、ナイフの柄を床に突き立てて滑車代わりにする。その一瞬の判断力と行動力は、もはや貴族令嬢のそれではない。この一週間、森の過酷な生活の中で養われた、「生きる者」の純粋な闘志だった。
「動いて! 生きるのを、諦めないで!」
泥と雨水にまみれながら、数センチずつ、数センチずつ、カイラスの体を小屋の奥へと引きずっていく。そのたびに、ルシルの指先は彼の魔力で凍りつき、皮膚が裂けるような激痛が走る。
しかし、ルシルは痛みを無視した。この痛みは、目の前の命と引き換えられるものなのだ。
カイラスは、もう抵抗する力も残っていないのか、ただ荒い息を繰り返すだけだった。彼の銀色の髪は雨と汗で濡れ、高熱のためか湯気が立っている。
どれほどの時間を要したか。
ルシルは、自分の肩が抜けそうなほどの痛みを感じながらも、なんとかカイラスの巨体を小屋の中央、竈の炎が(土に埋もれながらも)かろうじて熱を放つ場所まで移動させることに成功した。
すぐに、重い扉を閉め、閂を戻し、嵐を遮断する。
「ハァ、ハァ、ぜぇ、っ」
嵐の音が遠のき、小屋の中に、二人の荒い呼吸音だけが響いた。ルシルの呼吸は、自分の体力の限界を超えた労働のため、もはや喘ぎのようだった。彼女は、その場に倒れ込みそうになるのを、必死で堪えた。
(まずは、診断)
彼女は、泥と雨水でびしょ濡れのまま、カイラスのそばに膝をついた。
竈の熾火を急いで掻き出し、新しい薪にくべ直す。再び勢いよく立ち上った炎が、カイラスの苦悶に満ちた顔を照らし出した。
ルシルは、その顔の造形美に一瞬息を呑んだが、すぐに薬草師の目に戻った。
(市販ポーションを「毒」と拒絶した。この症状は、間違いなく『魔力過多症』)
王宮の書庫で読んだ、禁書に近い医療記録。
体内の魔力生成量が、消費量を上回り、常に魔力が飽和状態となる。
飽和した魔力は、持ち主の意思に関係なく暴走し、肉体を内側から破壊する。
治療法は、ない。
なぜなら、彼らを癒やすことができるほどの「高純度のポーション」が存在しないからだ。不純物入りの薬は、彼らにとって毒でしかない。
(だから、王都の薬を拒絶したのね)
カイラスがなぜこんな森の奥にいたのかは分からない。だが、おそらく、この嵐が引き金となり、定期的な発作が最悪の形で発生したのだろう。
ルシルは、カイラスの首筋にそっと手を触れた。
(熱い! 火傷しそうなほどの高熱。でも、わたくしの指先は凍りつきそうだわ)
矛盾した現象が、彼の体で起こっている。
魔力が暴走し、熱エネルギーとして変換されると同時に、彼の魔力の本質である「氷」が、その熱を無理やり抑え込もうとして、体表でぶつかり合っているのだ。
このままでは、内側からは高熱で、外側からは凍結で、彼の肉体は崩壊する。
(助ける方法は、一つしかない)
ルシルの脳裏に、数日前に自らが精製した、あの琥珀色の液体が浮かんだ。
王宮で、騎士団長フェリクスを救うために精製した『神聖原液』。
そして、この森に来てから、護身用と研究用に、あの『月影草』と清流の水を使って、ほんの数滴だけ、王宮のものを遥かに凌駕する純度で精製し直した、彼女だけの『神薬』。
(あれなら、いける)
市販のポーションが「毒」になるのは、不純物のせいだ。
だが、ルシルが精製した『神聖原液』は、不純物ゼロ。純度百分の一の、魔力そのものと言っていい。
『月影草』の強力な魔力鎮静作用が、彼の荒れ狂う魔力を抑え込み、神経の損傷を修復できるはずだ。
(この人を助けられるのは、世界でわたくしだけだわ)
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それこそが今、王国最強の魔術師の命を救う、唯一の鍵となっていた。
ルシルは、カイラスの凍える手首をそっと握った。
「待っていて、カイラス様。わたくしが、必ず、その苦痛から救い出してあげる」
彼女は、乾燥棚の奥、最も厳重に隠してあった、小さな鉛のケースへと手を伸ばした。
その瞳には、嵐の夜の恐怖も、追放の絶望も、もはや微塵も残っていなかった。
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