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第4章:氷の辺境伯、倒れる
4-3:拒絶された「毒」
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男の蒼い瞳が、嵐の闇の中で、ルシルを捉えた。
それは、森の魔獣が放つ殺意とは全く違う、純粋な「力」そのものだった。だが、その力は持ち主の制御下になく、ただ荒れ狂い、漏れ出している。
「誰だ」
絞り出すような低い声。それだけで、小屋の空気が震えた。
「わたくしは、薬草師です! あなた、ひどい状態だわ。このままでは死んでしまう!」
ルシルは、恐怖を振り払い、職業的な本能で叫び返した。
嵐の音で、声がかき消されそうになる。
彼女は、男が貴族か軍人かなど、もはやどうでもよかった。目の前にいるのは、自身の魔力に殺されかけている、一人の「患者」だ。
ルシルはナイフを一旦腰に差し、扉をもう少し開け、男の体に触れようとした。
だが、
「触るな!」
男が、残った力の全てを振り絞って、拒絶の声を上げた。
彼の手がルシルを払いのけようと動いた瞬間、彼の手のひらの周囲の空気が急速に冷却され、鋭い氷の結晶が数本、ルシルの頬を掠めた。
「きゃっ!」
熱い。
頬に、ナイフで切り裂かれたかのような、鋭い痛みが走った。
それは「冷たさ」が極限に達したことによる「火傷」だった。
(すごい魔力。無意識の拒絶だけで、この威力)
ルシルは、一瞬怯んだ。だが、薬草師としての好奇心と使命感が、恐怖を上回る。
(この人を助けなければ。そして、この魔力のサンプルは、絶対に、薬草師として見過ごせない。これは、医学的にも、世界を変える発見になり得る)
「動かないで! わたくしは敵ではありません!」
ルシルは、荒れ狂う嵐の中で叫んだ。
(まずは、鎮静。体温が異常だ。高熱と極低温が同時に発生している。これは、魔力の中枢が完全に混乱している証拠)
彼女は、すぐさま自分の研究道具が置いてある棚に駆け寄った。
こんな時のために、王宮から持ち出せたわけではないが、この一週間で森の薬草を使い、様々な試作品を作っていた。
その中に、王都の市場で手に入る「市販のポーション」があった。
それは、追放前に彼女が研究用、つまり「比較対象」として購入していたものだ。この嘆きの森で採れる薬草の純度がいかに高いかを証明するために、不純物だらけの市販品をあえて持っていたのだ。
(低級の回復薬。でも、気休めにはなるかもしれない。まずは、これを飲ませて、少しでも体力を)
王宮での習慣、そして知識が、ルシルに「まずポーション」という行動を取らせた。
ルシルは、緑色の、安っぽいガラス瓶に入った市販ポーションのコルクを抜いた。
ツンと鼻を突く、安物のアルコールと、不純な薬草の匂いが混じった、独特の匂いが立ち込める。その匂いは、ルシルが王宮の工房で扱っていた『神聖原液』の、清浄で無臭に近いそれとは、あまりにもかけ離れていた。
彼女は、再び嵐の吹き込む戸口へ戻り、倒れている男の頭を何とか持ち上げようとした。
「しっかりして! これを飲んで!」
男は、高熱で朦朧としながらも、そのポーションの匂いを嗅ぎ取った。
その瞬間、彼の蒼い瞳が、憎悪と絶望で見開かれた。苦痛に歪んだその顔には、ルシルの善意を「悪意」と断じた、絶対的な拒絶の色が浮かんでいた。
「毒だ」
か細いが、絶対的な拒絶を込めた声だった。その一言は、ルシルの胸に、王太子に『偽聖女』と断罪された時と同じような、鋭い痛みを走らせた。
「なっ」
ルシルが驚く間もなく、男は最後の力を振り絞り、ルシルの手首を掴んだ。
(冷たい!)
まるで、氷の万力(まんりき)に掴まれたかのようだ。肌が、一瞬で凍りつき、感覚がなくなる。
「ぐ、その匂いは、王都の毒だ。よせ、それ以上、わたくしに、毒を盛るな」
男は、そのポーションを、まるでこの世の何よりもおぞましい汚物を見るかのように睨みつけた。
「違うわ! これはポーションよ! 回復薬なの!」
ルシルは必死に説明しようとするが、男は聞く耳を持たない。
ガシャン!
男はルシルの手からポーション瓶を叩き落とした。緑色の液体が、小屋の土間に飛び散り、不快な匂いが嵐の匂いと混じり合った。
(毒? どうして、市販のポーションを毒だと)
ルシルは、叩き落とされた手首の激痛に耐えながら、凍り付くような真実に思い至った。
(そうか。この人は、あまりにも魔力の純度が高すぎるんだ)
王宮の薬草院で、ごく稀に報告が上がってくる症例。
それは、並外れた魔力を持つ者が、その許容量を超えてしまった時に発症する、不治の病。
『魔力過多症』。
その病にかかった者は、体内の魔力が常に飽和状態にあるため、市販のポーションに含まれる、わずかな「不純物」や「魔力以外の添加物」さえもが、毒として作用してしまう。
彼らにとって、市販のポーションは「回復薬」ではなく、死に至る「猛毒」なのだ。
ルシルの頭の中で、全ての情報が繋がった。
高熱と極低温の同時発生。
制御不能な魔力の放出。
そして、市販ポーションへの、絶対的な拒絶。
「まさか、あなたが『氷の辺境伯』、カイラス様?」
ルシルは、震える声で呟いた。
王国最強の魔術師にして、この嘆きの森を管轄する地の領主。
そして、不治の病『魔力過多症』に苦しみ、王都の薬を一切受け付けないという、あの伝説的な存在。
男は、ルシルの言葉に答える代わりに、激しく咳き込み、その巨体が、ついに糸が切れたように、小屋の床に完全に倒れ込んだ。
「もう、いい、放っておけ」
彼は、全てを諦めたように、そう呟いた。
それは、森の魔獣が放つ殺意とは全く違う、純粋な「力」そのものだった。だが、その力は持ち主の制御下になく、ただ荒れ狂い、漏れ出している。
「誰だ」
絞り出すような低い声。それだけで、小屋の空気が震えた。
「わたくしは、薬草師です! あなた、ひどい状態だわ。このままでは死んでしまう!」
ルシルは、恐怖を振り払い、職業的な本能で叫び返した。
嵐の音で、声がかき消されそうになる。
彼女は、男が貴族か軍人かなど、もはやどうでもよかった。目の前にいるのは、自身の魔力に殺されかけている、一人の「患者」だ。
ルシルはナイフを一旦腰に差し、扉をもう少し開け、男の体に触れようとした。
だが、
「触るな!」
男が、残った力の全てを振り絞って、拒絶の声を上げた。
彼の手がルシルを払いのけようと動いた瞬間、彼の手のひらの周囲の空気が急速に冷却され、鋭い氷の結晶が数本、ルシルの頬を掠めた。
「きゃっ!」
熱い。
頬に、ナイフで切り裂かれたかのような、鋭い痛みが走った。
それは「冷たさ」が極限に達したことによる「火傷」だった。
(すごい魔力。無意識の拒絶だけで、この威力)
ルシルは、一瞬怯んだ。だが、薬草師としての好奇心と使命感が、恐怖を上回る。
(この人を助けなければ。そして、この魔力のサンプルは、絶対に、薬草師として見過ごせない。これは、医学的にも、世界を変える発見になり得る)
「動かないで! わたくしは敵ではありません!」
ルシルは、荒れ狂う嵐の中で叫んだ。
(まずは、鎮静。体温が異常だ。高熱と極低温が同時に発生している。これは、魔力の中枢が完全に混乱している証拠)
彼女は、すぐさま自分の研究道具が置いてある棚に駆け寄った。
こんな時のために、王宮から持ち出せたわけではないが、この一週間で森の薬草を使い、様々な試作品を作っていた。
その中に、王都の市場で手に入る「市販のポーション」があった。
それは、追放前に彼女が研究用、つまり「比較対象」として購入していたものだ。この嘆きの森で採れる薬草の純度がいかに高いかを証明するために、不純物だらけの市販品をあえて持っていたのだ。
(低級の回復薬。でも、気休めにはなるかもしれない。まずは、これを飲ませて、少しでも体力を)
王宮での習慣、そして知識が、ルシルに「まずポーション」という行動を取らせた。
ルシルは、緑色の、安っぽいガラス瓶に入った市販ポーションのコルクを抜いた。
ツンと鼻を突く、安物のアルコールと、不純な薬草の匂いが混じった、独特の匂いが立ち込める。その匂いは、ルシルが王宮の工房で扱っていた『神聖原液』の、清浄で無臭に近いそれとは、あまりにもかけ離れていた。
彼女は、再び嵐の吹き込む戸口へ戻り、倒れている男の頭を何とか持ち上げようとした。
「しっかりして! これを飲んで!」
男は、高熱で朦朧としながらも、そのポーションの匂いを嗅ぎ取った。
その瞬間、彼の蒼い瞳が、憎悪と絶望で見開かれた。苦痛に歪んだその顔には、ルシルの善意を「悪意」と断じた、絶対的な拒絶の色が浮かんでいた。
「毒だ」
か細いが、絶対的な拒絶を込めた声だった。その一言は、ルシルの胸に、王太子に『偽聖女』と断罪された時と同じような、鋭い痛みを走らせた。
「なっ」
ルシルが驚く間もなく、男は最後の力を振り絞り、ルシルの手首を掴んだ。
(冷たい!)
まるで、氷の万力(まんりき)に掴まれたかのようだ。肌が、一瞬で凍りつき、感覚がなくなる。
「ぐ、その匂いは、王都の毒だ。よせ、それ以上、わたくしに、毒を盛るな」
男は、そのポーションを、まるでこの世の何よりもおぞましい汚物を見るかのように睨みつけた。
「違うわ! これはポーションよ! 回復薬なの!」
ルシルは必死に説明しようとするが、男は聞く耳を持たない。
ガシャン!
男はルシルの手からポーション瓶を叩き落とした。緑色の液体が、小屋の土間に飛び散り、不快な匂いが嵐の匂いと混じり合った。
(毒? どうして、市販のポーションを毒だと)
ルシルは、叩き落とされた手首の激痛に耐えながら、凍り付くような真実に思い至った。
(そうか。この人は、あまりにも魔力の純度が高すぎるんだ)
王宮の薬草院で、ごく稀に報告が上がってくる症例。
それは、並外れた魔力を持つ者が、その許容量を超えてしまった時に発症する、不治の病。
『魔力過多症』。
その病にかかった者は、体内の魔力が常に飽和状態にあるため、市販のポーションに含まれる、わずかな「不純物」や「魔力以外の添加物」さえもが、毒として作用してしまう。
彼らにとって、市販のポーションは「回復薬」ではなく、死に至る「猛毒」なのだ。
ルシルの頭の中で、全ての情報が繋がった。
高熱と極低温の同時発生。
制御不能な魔力の放出。
そして、市販ポーションへの、絶対的な拒絶。
「まさか、あなたが『氷の辺境伯』、カイラス様?」
ルシルは、震える声で呟いた。
王国最強の魔術師にして、この嘆きの森を管轄する地の領主。
そして、不治の病『魔力過多症』に苦しみ、王都の薬を一切受け付けないという、あの伝説的な存在。
男は、ルシルの言葉に答える代わりに、激しく咳き込み、その巨体が、ついに糸が切れたように、小屋の床に完全に倒れ込んだ。
「もう、いい、放っておけ」
彼は、全てを諦めたように、そう呟いた。
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