午前2時、 コンビニの灯りの下で

結衣可

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第4話 名前で呼ぶ距離

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 金曜の夜は、いつもより仕事が長く感じる。
 終業時刻の少し前になると、画面の文字が霞んで見え、手元のタイピングがやけに遅くなる。
 同僚の雑談も耳に入ってこない。
 早く帰りたいのか、と問われたら違う。
 帰る“だけ”なら、別に急ぐ理由はないからだ。

 でも、今夜は傘を返しに行かなければならない。
 「返すの、またこの時間でいいですか」と、あの夜、自分で口にした。
 約束を守るため──それは表向きの理由で、内側ではもっと率直な気持ちがうごめく。

 ──ただ、会いたい。

 その言葉を胸の中心に置くと、どこか居心地が悪い。
 自分に似合わない感情だと、瞬時に否定が出る。
 けれど、否定しても足は同じ道を選ぶのだろう。
 蛍光灯の白い光に向かって、今夜も歩いていくのだろう。

 仕事を終えて駅へ向かう間、空には薄い雲がかかっていた。
 雨の名残りの匂いが湿った空気に混ざり、アスファルトからは冷たい湿度が立ち上がる。
 鞄の中には、きれいに乾かした黒い折りたたみ傘。
 拭き上げた持ち手は、磨いたばかりの靴のようにしっとりと手になじむ。

 店が近づくにつれて、心臓の鼓動が静かに早まっていく。
 自分でも可笑しいと思う。
 名前をろくに知らない相手に会いに行くのに、どうしてこんなふうに。
 いや、名前は知っている。
 名札にあった文字。「成瀬 海」。
 それを口に出したことは、まだなかった。

 自動ドアの前で一呼吸置き、足を踏み入れる。
 ピン、とベルが鳴る。
 コーヒーの香り、電子レンジの音、湯気ののぼるケース。
 深夜の店は、相変わらずの小さな宇宙で、外よりも少しだけ暖かい。

「いらっしゃいませ」

 聞き慣れてしまった声。
 それなのに、耳は新鮮な音として拾い上げる。
 顔を上げると、レジの向こうで海がこちらを見ていた。
 手元の作業を止め、目尻だけで柔らかく笑う。

 傘を返す──それだけでいいのに、歩幅が自然と売り場に向かう。
 いつものルートを辿って、いつものコーヒー、いつものサンドイッチ、いつものミントのガム。
 かごに入れながら、自分の滑稽さに苦笑がこみ上げる。

 レジへ向かうと、海が軽く顎を引いた。

「こんばんは。お仕事お疲れ様です」

「こんばんは」

 短い往復でも、息が落ち着く。
 袋詰めの所作が丁寧で、例えばサンドイッチの角が潰れないように、缶が転がらないように、と気遣いが見える。
 その一挙一動が彼自身を表しているようで、つい見入ってしまう。

「あの……これ、先日お借りした傘です」

 鞄から折りたたみ傘を取り出す。
 小さく畳まれた黒が、レジの光に鈍く光った。

「ありがとうございます。きれいに……拭いてくださったんですね」

「はい。助かりました」

「いえ、よかったです。風邪、ひかれませんでした?」

「大丈夫でした」

 声に出してみると、あの夜から今日までの空白が、たった一つの会話でそっと埋まる気がした。

 支払いを済ませ、袋を受け取る。
 このまま「おやすみなさい」と言って帰れば、約束を果たしたことになる。
 それが正しい距離の保ち方だ、と頭は言う。
 けれど、足は出口へ向かわなかった。

「もしよかったら、少しだけ……」

 思いがけず、海のほうから声がかかった。
 店内に他の客はいない。
 ガラスの向こう、街灯の下のベンチが空いているのが見える。
 頷くと、海は「すぐ戻ります」と言って奥へ消え、ジャケットを羽織って出てきた。
 自動ドアが開く音が二度鳴る。
 夜の空気が肺に刺さって、頭が冴える。

 ベンチに並んで腰を下ろすと、街路樹から滴る水がぽとりと落ち、地面に丸い暗い斑点を作った。
 遠くでタクシーが通り過ぎる音。
 風は弱く、空は薄く輝いていて、夜が少しだけ浅い。

「傘、本当にありがとうございました」

 改めて言葉にすると、海は小さく笑って「いえ」と返した。

「本当は、予備を持ってたんです。だから、あの……口実というか」

 思いがけない告白に、横顔を見た。
 いたずらが見つかった少年のように、気まずそうに視線を落としている。
 胸が、少しだけ跳ねた。

「口実、ですか」

「はい。……また来てくれる理由があったほうが、安心するというか」

 言葉は軽い調子なのに、そこに載っている温度が真っ直ぐだった。
 その温度に戸惑っているのに、視線を逸らすことができなかった。

「あの……嬉しかったです。貴方のお陰で、よく眠れましたから」

 自分でも驚くほど素直な声が出た。
 海は驚いたように目を見開き、続けてほっとした表情を浮かべる。

「本当ですか」

「ええ。最近は、眠れないことが多かったので」

「よかった……。眠れない夜って、長いですよね」

 そう言った海の声には、実感が滲んでいた。
 夜を知っている人の声だ、と思う。

「眠れないとき、どうしてますか?」

 問いかけながら、名札の文字をなぞるように頭の中で反芻する。
 “成瀬 海”。
 呼び方が急にぎこちなく感じて、舌の上で転がしてみたくなる。

「僕ですか。うーん……台所に立っちゃいます。何か切ったり、洗ったりすると、少し落ち着くから」

「家事、得意なんですね」

「得意ってほどでも。でも、夜って、音がきれいに響くでしょう。水の音とか、包丁の音とか。それを聞いてると、呼吸が整う感じがして」

 言葉を選ぶたびに、彼の生活の断片が見える。
 誰もいない狭いキッチン、暗い窓、流しに落ちる水音。
 眠れない夜と、折り合いをつけるためのささやかな儀式。
 その一つひとつが、海という人の輪郭を静かに濃くしていく。

「海……」

 そこで言葉がたわむ。
 しばらく黙って、夜風が頬を撫でるのをやり過ごす。
 視界の端で、海がこちらを見た気配がした。
 きっと、待っているのだ。
 自分が、どんな距離を選ぶのか。

「……か、海くんは、どうして夜に強いんですか」

 言ってしまった。
 口に出た“くん”の一音が、胸の内側で静かに波紋を広げる。
 海はわずかに目を丸くし、少し照れくさそうに笑った。
 その笑みに、こちらの鼓動が追いつけない。

「今、呼びましたね。僕のこと」

「……すみません。失礼でしたか」

「いえ。むしろ、嬉しいです」

 短く答えた声が、ほんの少し掠れていた。
 それを聞いて、自分の肩の力も抜ける。

 “海くん”。
 名前で呼ぶことは、境界線を生み出す行為でもある。
 呼び方ひとつで、近づくことも離れることもできる。
 けれど、今の自分は遠ざかる術を忘れつつある。

「えーと、お名前教えてください」

「智也、芹沢智也です」

「智也さん、って呼びますね。智也さんは?」

 問いが返ってくる。
 “さん”付けの呼び方に、少し笑ってしまう。

「僕は……夜が長いと、昔のことを思い出します」

 声にすると、思い出は輪郭を持つ。
 話すつもりのなかった扉が、いつの間にか軋んで開いていく。

「同棲していた人がいて。……別れてから、静かな部屋が広すぎて」

 言葉が宙でほどける前に、海が頷いた。
 同情ではない、理解の仕草。
 それがうまく、胸の中の空洞のかたちに沿う。

「音がないと、心臓の音ばかり大きくなりますよね」

「そうですね」

「それで、眠れなくなる」

「ええ」

 ほんの数語の共鳴で、夜の温度が一段階やわらぐ。
 話せたことに、自分で驚く。
 誰かに言って軽くなることを、身体が思い出したようだ。

「……ねえ、智也さん」

 呼ばれて、視線を向ける。
 海は少し躊躇してから、言葉を置いた。

「今度、コーヒーを淹れてもいいですか。店のじゃなくて、ちゃんと豆から」

 申し出は唐突で、しかし不思議と場違いではなかった。
 夜に似合う提案。
 抽出する湯気や、漂う香りや、静かな時間。
 想像しただけで、呼吸が深くなる。

「……いいですね」

「夜は、苦くないほうが眠れます。浅煎りで」

「任せます」

 やり取りは短く、簡素だ。
 それでも、互いの手の届く場所に、小さな未来が置かれた気がする。
 約束というほど固くない、でも実現させたい未来ができた。

 店内のベルがひとつ鳴り、誰かがセルフレジを利用して商品だけを買ってすぐに去っていった。
 その間、ふたりは黙っていた。
 沈黙は気まずさではなく、呼吸を合わせる間合いだった。
 街路樹の葉から落ちる一滴が、足元で弾ける。
 夜は深いが、暗くはない。

「そろそろ、戻らないと」

「長居させてしまいましたね」

「僕が誘ったんです。……ありがとうございます、来てくれて」

 その言い方は、店員のそれではない。
 個人宛の、静かな礼。
 心の表面に、やさしく触れられた感触だけが残る。

 立ち上がって、店の光のほうへ歩く。
 自動ドアの前で、思いが喉に詰まる。
 言うなら今だ、と身体が告げる。
 言わなければ、夜に置いていかれる。

「海くん」

 振り向かずに呼んだ。
 背中で、彼が小さく息を飲む気配がする。

「今度、コーヒー……お願いします」

 一拍置いて、明るすぎない返事が落ちてくる。

「はい」

 短い二音が、胸の中で長い余韻になる。

 レジ横で支払いを済ませ、袋を受け取る。
 さっきまでと何も変わらない手順なのに、世界の手触りが違って感じられる。
 呼び方ひとつで、距離はわずかにずれる。
 そのずれを、心が受け入れている。

「おやすみなさい、智也さん」

 別れ際、海がそう言った。
 その言葉は、眠りの扉の鍵穴にぴたりとはまり、カチリと音を立てた。
 今夜も眠れそうだ。

 外に出ると、空は低く、街灯の光の周りだけがぼんやりと滲んでいる。
 歩き出す足取りは、来るときよりも軽い。

 角を曲がる前に、もう一度だけ振り返る。
 ガラス越しに見えるカウンターの中で、海がこちらに気づいて小さく手を上げた。
 その仕草は子どものように飾り気がなく、でも確かに「また」を含んでいた。

 ──“また”。

 それは、約束というには軽すぎて、祈りというには現実的すぎる。
 けれど、今の自分にはちょうどいい重さだ。

 マンションのエレベーターに乗り、部屋の鍵を回す。
 灯りを点けると、白い天井がいつもより低く見えた。
 静かで、狭くて、ひとりの部屋。
 そこに、さっきの「おやすみなさい」がふわりと漂って、壁の角にそっと落ち着く。

 シャワーの湯が肩を打つ音を聞きながら、思い出す。
 “海くん”と呼んだとき、胸の内側で起きた、あの小さな震え。
 名前の一音一音が、夜の内側に灯りを点けていく。
 その灯りは、きっと朝になっても消えないだろう。

 ベッドに横になり、呼吸を整える。
 眠れるかどうかは、いつも賭けみたいなものだ。
 今夜は賭ける前に結果が見える。
 瞼の裏に、彼の笑い皺が浮かぶ。
 深く、長く息を吐く。

 おやすみ、と心の中で言う。
 返事はない。
 ないはずなのに、どこかで「はい」と聞こえる。
 そんな気がして、目を閉じた。

 夜はまだ続いている。
 でも、もう一人で持つには重くない。
 名前で呼べる距離に、誰かがいる。
 それだけで、眠りはやさしく、夜は短くなるのだと思った。
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