元カノの弟と同居を始めます?

結衣可

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第4話 ただいま、と言える場所

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 夜の11時。
 鍵を回す音が、やけに大きく響いた。

 今日の現場は思ったより長引いた。
 昼からずっと外回りで、図面の修正や客先対応。
 身体の疲れよりも、頭が重い。
 だからこそ、ドアを開けた瞬間に漂ってきた“だしの匂い”に、思わず足が止まった。

「……おい、まさか」

 リビングの灯りの下、エプロン姿の蒼がいた。
 髪を後ろでまとめ、まじめな顔で鍋をかき回している。
 フライパンの脇には、焦げかけた卵焼き。
 そして、なぜかコンロの上には失敗作らしき鍋が二つ。

「あっ、おかえりなさい!」

 蒼は笑顔で振り返った。
 でも、その笑顔の端に、少し焦りが見える。

「帰り、遅かったですね。お腹すきました?」

「まあな。……何だ、この惨状は」

「練習です!」

「何のだよ」

「夕飯です!」

 自信満々に言うわりに、コンロは軽く戦場だった。
 焦げた味噌の匂いと、昆布の残骸。

「失敗、したんだな」

「はい……味噌汁、三連敗です。
 味見したら全部しょっぱくて、泣きそうになりました」

「味噌入れすぎたんだろ」

「う~~……! 篠原さんの昨日の、あれどうやってたんですか?」

「普通に味見しただけだ」

「……味見のタイミングがダメなのかな」

 蒼は項垂れながら、鍋を抱えて椅子に座った。
 エプロンの前面には、うっすら味噌のシミ。
 その姿が妙に可愛くて、思わず笑いそうになるのをこらえた。

「作ろうとしただけ偉いよ」

「慰めになってないですよ」

「いや、本気で言ってる。
 疲れて帰ってきて、飯の匂いがするのは……悪くなかった」

 そう言うと、蒼は目を瞬かせて、少しだけ笑った。
 鍋の火を止めて、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出す。
 その横顔は、失敗を引きずっていない明るさがあった。

「じゃあ、やり直しです。教えてください」

「俺、教えるの下手だぞ」

「いいですよ。叱られ慣れてますから」

「俺が叱るタイプに見えるか?」

「見えません。でも、ちょっと見てみたいです」

「……なんでそういうこと言うんだ、お前は」

 からかっているようで、素直な笑顔。
 台所に二人並ぶと、腕が軽く触れた。
 そのたびに意識が逸れる。距離が、近い。

「まず、出汁の味見してみろ」

「はい」

 蒼がレンゲを差し出す。
 唇が触れる寸前に、俺の指先が彼の手に当たった。
 その瞬間、ほんの一瞬、時間が止まったような気がした。

 レンゲを受け取って、一口飲む。
 まだ塩気が強い。でも、昨日よりずっとマシだった。

「うん、だいぶ良くなった。これなら普通に食える」

「ほんとですか!?」

「ああ。……この味を覚えておけよ」

「はい!」

 その嬉しそうな顔を見るだけで、疲れが全部抜けていく気がする。
 それなのに、どこか怖かった。
 この“普通の幸せ”が、当たり前になっていくのが。

 夕飯を並べて、二人で座る。
 メニューは味噌汁と焼き魚と卵焼き。
 不格好だけど、温かかった。

「うまいよ」

「ほんとに?」

「ああ。ちゃんと味がする」

「なんか、照れますね……」

 湯気の向こうで、蒼が少し笑う。
 その笑顔が、姉の美織とほんの少し似ていた。

「そういえば、姉ちゃんからまたLINEきました」

「なんて?」

「“ちゃんと寝てる?”だって。
 あと、“聡くんに迷惑かけてない?”って」

「かけてるな」

「即答!?」

「鍋、3連敗」

「うぅ……返す言葉もないです」

 苦笑する蒼を見て、ふと、胸の奥があたたかくなる。
 こういう他愛もないやり取りが、どうしようもなく心地いい。

 皿を流しに置き、ソファで麦茶を飲む。
 時計の針が静かに進んでいく。
 蒼は隣で欠伸をして、ぽつりと呟いた。

「篠原さん、家に帰ってきたとき、
 “おかえり”って言われるの、久しぶりじゃないですか?」

「……ああ。そうかもな」

「俺、篠原さんに“おかえり”って言いたかったんです」

 その言葉が、心の奥に刺さる。
 誰に言われたとか、どんなトーンだったとかじゃない。
 “家に帰ってきた”と実感できる場所の響き。

 俺は麦茶を一口飲んで、視線を逸らした。
 言葉を選ばずに口を開く。

「……ありがとな」

「え?」

「飯、うまかったって話だ」

「ふふ、どういたしまして」

 笑う声が近い。
 俺の肩に、蒼の髪が少し触れた。
 柔らかくて、温かい。

 呼吸の音が混じって、心臓の鼓動がやけにうるさい。
 たぶん、蒼には聞こえていない。
 聞こえてたら困る。
 俺は静かに立ち上がって、食器を片づけた。

 背中に視線を感じる。
 振り返れば、蒼がソファに座ったまま、
 目を細めてこちらを見ていた。

「篠原さん、なんか、今日の顔、優しいですね」

「……疲れてるだけだ」

「ふふ、そうですか」

 蒼はそれだけ言って、クッションを抱えたまま、ゆっくり目を閉じた。
 しばらくして寝息が落ちる。

 俺は黙って、その寝顔を見ていた。
 整った顔立ちでも、完璧でもない。
 けど、不思議なほど見ていて飽きない。
  
 風邪をひかないように、そっとブランケットをかけてやる。
 そのまま蒼に触れそうになって手を慌てて、引っ込める。

 ――19歳で、なんでこんな可愛いんだよ。
 
 俺はため息をついて、シャワーを浴びに向かった。  
 
 家に誰かが待っているだけで、自分がこんなにあたたかい気持ちになれるとは思っていなかった。
 生活の音が、少しずつ二人のリズムに変わっていく。
 確かに“何か”が始まっている夜だった。
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