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第5話 休みの日の歩幅
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週末、久しぶりに何もない休日だった。
目覚ましをかけずに起きる。カーテンの隙間から淡い光。静かで、少しだけ甘い匂いがする。
キッチンに行くと、蒼がトーストを焦がしかけていた。
慌ててトースターから引っ張り出して、表面を見つめている。
「炭ではない。が、限りなく炭に近いな」
「う……篠原さんの前で焦がすと、罪悪感がすごいです」
「なんだ、それは。バターでも塗って誤魔化せ」
「はい、そうします」
半分笑いながら、俺はフライパンでスクランブルエッグを作る。
卵が固まっていく音、パンの香り、薄めたコーヒーの湯気。
休日のゆるいリズムに、二人の生活がすっかり馴染んできたのを感じる。
「今日、買い出し行こう」
「はい。調味料とか、いろいろ足りない気がします」
「それと、服」
「服?」
「お前、大学のバッグも服も、必要最低限って感じだからな。季節の変わり目に一着くらいちゃんとしたのを買っとけ」
蒼は目をぱちぱちさせ、それから嬉しそうに頷いた。
「あの、じゃあ……お願いします。俺、選ぶの苦手だから」
苦手、ね。わかる。
蒼は、身につけるものに無頓着だ。サイズ感も、色の相性も、“無害”に落ち着く選び方をする。
それで困らない場面は多いけど、残念なほど魅力が隠れてしまう。
「食料品店と、駅前のモール。昼前に出るぞ」
「了解です!」
口は軽いが、どこか楽しそうだった。
***
駅前のモールまで二人でゆっくり歩いた。
蒼は並んで歩くとき、半歩だけ俺の後ろにいる。たぶん癖なんだろう。
人混みで自然に距離を詰めたり、段差で一拍置いたり、身体で相手の動きを観察している。
俺は意識的に歩幅を落とした。
「そういえば、お前は何色が好きだ?」
「え、何だろ。青、グレー、白……無難なやつですかね」
「だろうな」
「バレてました?」
「バレるだろ、これだけ一緒にいれば」
「うう~……」
笑いながら、まずは大型スーパーへ。
醤油、みりん、味噌。米は五キロ。卵と牛乳、根菜をかごに入れる。
蒼はメモを見ながら、てきぱきと棚を回る。俺が予想していたよりずっと効率がいい。
「出汁昆布、これで大丈夫でした?」
「あぁ。……結構買ったな」
「そうですね」
会計を済ませると、蒼に重たいものを持たせないように選んでエコバッグに詰めていく。
エコバッグを肩に掛け、蒼の背中をポンと叩く。
「次、服な」
「はい」
モールの3階、手頃な価格のセレクトショップには吊るされた春物のシャツが並んでいた。
蒼は少し背筋を伸ばして店内を見回した。鏡越しに、表情が少しだけ緊張しているのがわかる。
「試着、3枚は行け」
「3枚も!?」
「俺は比較して選びたい」
「理系って感じ……」
苦笑しつつ、俺はラックからネイビーのニットと、グレージュのカーディガン、白ではなく生成り寄りのシャツを取った。
蒼の肌は青白すぎない。透けるような白に少し赤みがある。真っ白より、柔らかいトーンの方が馴染む。
「これ、着てみろ」
「わ、優しい色……」
試着室のカーテンが動く。
数十秒して、蒼が顔を出した。
「ど、どうですか……?」
生成りのシャツに、落ち着いたブルーグレーのパンツ。
肩のラインが少し華奢だが、シャツの地厚がそれを上手くカバーしていた。
襟元が詰まっていないから首が細く見え、鎖骨の影が浅く映る。
「悪くない。裾、前だけ軽く入れてみろ」
「こう?」
「そう。腰の位置が上がって見えるだろ」
俺が言うたびに、蒼は鏡の前でちょっと嬉しそうに動く。
自分をどう見せるか、まだ知らないだけなのだと、改めて思う。
「次、カーディガンも」
「は、はい」
カーテンが閉まり、開く。
グレージュのカーディガンは、蒼の目の色を静かに明るくした。
柔らかい布が中性的な骨格を拾いすぎず、手の甲に落ちた裾が少し長めで、指先が覗く。
「……いい」
「い、今の“いい”は、どっちの“いい”ですか?」
「似合っている、の“いい”だ」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
ほんとは、少し見惚れた。
曖昧に目を逸らして、咳ばらいで誤魔化す。
「最後、ネイビーのニット」
「行ってきます」
出てきた蒼は、鏡の前でくるりと回った。
ニットの編み目の陰影が頬の色を引き立て、視線が自然と目元へ行く。
笑ったとき、目尻が少しだけ三日月になるのが、よくわかる。
「これ、好きかも」
「じゃあ、それにしろ。シャツも一枚。パンツはブルーグレーのやつを一本」
「はい。……選んでもらうの、安心しますね」
会計を済ませる。店を出るころには、蒼の肩の力が抜けていた。
「さっきの着て帰るか?」
「え、そんなことできるんですか」
「あぁ、できる。タグ外してもらえば」
「じゃ、着たいです」
店員に頼んで、その場でネイビーのニットに着替える。
店を出たとき、蒼は照れて笑っていた。
「新しい服って、世界が明るく見えますね」
「そうか」
「はい、嬉しいです」
エスカレーターを降りながら、蒼がふと俺の方を見る。
俺は肩のエコバッグを持ち直し、ほんの少し歩幅を詰めた。
手がぶつかる距離ではない。でも、同じ速度で歩ける距離だ。
***
帰り道、夕方の風が少し冷たい。
小さなパン屋の前で、蒼が「あ」と声を上げた。
「この店、姉ちゃんが好きだったやつだ」
「人気だな。行列が短いから、今なら買えるんじゃないか」
「クリームパン……食べたいです」
「買うか」
二つ買って、小さな公園のベンチで食べた。
袋から出したクリームパンを半分に割ると、カスタードがとろりと覗いた。
「……うまいな」
「ふふ、美味しいですね」
「甘いもの、苦手じゃないんだよな?」
「好きです。篠原さんも、好きですよね」
「まあな」
ふと、蒼が膝の上で紙袋をいじりながら言った。
「姉ちゃん、最近ぜんぜん連絡してこないんです」
「そうか」
「ちょっと寂しいですけど、姉ちゃんらしいです」
声に、自分で自分を納得させるような固さがあった。
俺はパンを一口噛んで、言葉を選ぶ。
「仕事でも人間関係でも、それぞれの事情があって、一緒に居られなくなることがある。
でも、残された側がどう日常を作るかは、自由だろ」
「残された側……俺、ですね」
「あと、俺だ」
蒼が顔を上げる。
驚いたような、ほっとしたような目だった。
蒼の目を見ながら、苦笑した。
「今回のことで、一人よりも二人の方がいいこともあるんだと知ったよ」
「?」
「あの部屋に残されても、お前と二人でいられることが救いになることもあったっていうことだ」
「……篠原さん」
カスタードの甘さが、ゆっくりと喉を通り過ぎる。
夕景の公園は家族連れが多くて、子どもの笑い声が風に乗って流れていく。
俺たちは黙ってパンを食べ終え、紙袋を畳んだ。
「帰るか」
「はい」
***
部屋に戻ると、蒼は買ってきた食材をきっちりとしまい、服のタグを丁寧に切ってクローゼットに掛けた。
動きに無駄がない。
くるっと俺を振り返り、首を傾げるようにした。
「夜は、何を作ります?」
「簡単でいい。今日は歩いた」
「じゃあ、親子丼どうですか? レシピ、覚えました」
「お前、練習した?」
「味噌汁のついでに」
「よし。やってみろ。俺は米を研ぐ」
台所に並ぶ。
鶏の身に包丁を入れる音、玉ねぎをスライスする音。
油が温まる音。
生活音が重なり合って、静かな音楽みたいに流れる。
「卵、溶きすぎるなよ」
「はい。白身の筋を残すくらいでしたっけ?」
「そうそう。……いい匂いだ」
鍋の蓋を少しずらしたとき、蒼の肩が俺の腕に触れた。
反射で一歩引く。
蒼は気づいていないふりをして、火加減を弱めた。
どんぶりに盛ると、湯気が立ち上って、玉ねぎの甘い香りが鼻に抜ける。
「いただきます」
「いただきます」
一口。
だしが素直で、玉ねぎがちゃんと甘い。
卵の半熟が米に絡んで、喉をするりと滑っていく。
「うまい」
「……やった」
「ちゃんと“家の味”になってる」
蒼は箸を止めて、少しだけ目を丸くした。
「“家の味”」
「ああ。店の味じゃない、俺たちの台所の味」
「……すごい。そういうふうに言ってもらったの、嬉しいです」
照れたように笑って、また箸を動かす。
俺は湯呑みにお茶を注いだ。
静かな満ち足りた時間。
この穏やかさに、いつまで我慢できるのか、ふと怖くなる。
食器を片づけ、テレビをつける。
ぼんやりした情報番組の声が、夜の静けさをちょうど良く散らす。
蒼はソファで新しいニットの袖口をいじっていた。
「伸ばすなよ」
「すみません。落ち着くんです、袖口いじるの」
「子どもか」
「子どもです」
笑いながら、俺はクッションを直す。
肩が触れる。今度は離れなかった。
少しの体温。呼吸のリズム。
心臓が、静かに、でも確実に回数を増やす。
「篠原さん」
「ん?」
「今日、楽しかったです。買い物、服、パン、公園、親子丼。全部」
「そうか」
「はい。……“一緒に”って、すごいですね。”中身”の充実感が全然違うんだなって」
“中身”。
日常の質、心の重さ、記憶の手ざわり。いろんな意味が頭をよぎる。
「明日からまた大学、大変ですけど、頑張れそうです」
「そうか」
「はい。……篠原さんも」
蒼は視線を落として、それからふと顔を上げた。
まっすぐに目が合う。
数秒。
何かが言葉になりそうで、ならない距離。
「……ありがとな」
先に言ったのは、俺だった。
蒼は小さく笑って、ソファに背を預けた。
それだけで、部屋の空気が少しあたたかくなる。
休日の一日が、嘘みたいに滑らかに終わっていく。
この穏やかさが、明日も続く保証なんてどこにもない。
いつか、ちゃんと何かを言葉にしなきゃいけない日が来る。
でも今は、まだいい。
今は“日常”を積もう。
他人が歩幅を合わせるって、たぶん恋より難しい。
けれど、その難しさが心地いい。
俺たちは今日、同じ速度で歩けたはず。明日もきっと。
目覚ましをかけずに起きる。カーテンの隙間から淡い光。静かで、少しだけ甘い匂いがする。
キッチンに行くと、蒼がトーストを焦がしかけていた。
慌ててトースターから引っ張り出して、表面を見つめている。
「炭ではない。が、限りなく炭に近いな」
「う……篠原さんの前で焦がすと、罪悪感がすごいです」
「なんだ、それは。バターでも塗って誤魔化せ」
「はい、そうします」
半分笑いながら、俺はフライパンでスクランブルエッグを作る。
卵が固まっていく音、パンの香り、薄めたコーヒーの湯気。
休日のゆるいリズムに、二人の生活がすっかり馴染んできたのを感じる。
「今日、買い出し行こう」
「はい。調味料とか、いろいろ足りない気がします」
「それと、服」
「服?」
「お前、大学のバッグも服も、必要最低限って感じだからな。季節の変わり目に一着くらいちゃんとしたのを買っとけ」
蒼は目をぱちぱちさせ、それから嬉しそうに頷いた。
「あの、じゃあ……お願いします。俺、選ぶの苦手だから」
苦手、ね。わかる。
蒼は、身につけるものに無頓着だ。サイズ感も、色の相性も、“無害”に落ち着く選び方をする。
それで困らない場面は多いけど、残念なほど魅力が隠れてしまう。
「食料品店と、駅前のモール。昼前に出るぞ」
「了解です!」
口は軽いが、どこか楽しそうだった。
***
駅前のモールまで二人でゆっくり歩いた。
蒼は並んで歩くとき、半歩だけ俺の後ろにいる。たぶん癖なんだろう。
人混みで自然に距離を詰めたり、段差で一拍置いたり、身体で相手の動きを観察している。
俺は意識的に歩幅を落とした。
「そういえば、お前は何色が好きだ?」
「え、何だろ。青、グレー、白……無難なやつですかね」
「だろうな」
「バレてました?」
「バレるだろ、これだけ一緒にいれば」
「うう~……」
笑いながら、まずは大型スーパーへ。
醤油、みりん、味噌。米は五キロ。卵と牛乳、根菜をかごに入れる。
蒼はメモを見ながら、てきぱきと棚を回る。俺が予想していたよりずっと効率がいい。
「出汁昆布、これで大丈夫でした?」
「あぁ。……結構買ったな」
「そうですね」
会計を済ませると、蒼に重たいものを持たせないように選んでエコバッグに詰めていく。
エコバッグを肩に掛け、蒼の背中をポンと叩く。
「次、服な」
「はい」
モールの3階、手頃な価格のセレクトショップには吊るされた春物のシャツが並んでいた。
蒼は少し背筋を伸ばして店内を見回した。鏡越しに、表情が少しだけ緊張しているのがわかる。
「試着、3枚は行け」
「3枚も!?」
「俺は比較して選びたい」
「理系って感じ……」
苦笑しつつ、俺はラックからネイビーのニットと、グレージュのカーディガン、白ではなく生成り寄りのシャツを取った。
蒼の肌は青白すぎない。透けるような白に少し赤みがある。真っ白より、柔らかいトーンの方が馴染む。
「これ、着てみろ」
「わ、優しい色……」
試着室のカーテンが動く。
数十秒して、蒼が顔を出した。
「ど、どうですか……?」
生成りのシャツに、落ち着いたブルーグレーのパンツ。
肩のラインが少し華奢だが、シャツの地厚がそれを上手くカバーしていた。
襟元が詰まっていないから首が細く見え、鎖骨の影が浅く映る。
「悪くない。裾、前だけ軽く入れてみろ」
「こう?」
「そう。腰の位置が上がって見えるだろ」
俺が言うたびに、蒼は鏡の前でちょっと嬉しそうに動く。
自分をどう見せるか、まだ知らないだけなのだと、改めて思う。
「次、カーディガンも」
「は、はい」
カーテンが閉まり、開く。
グレージュのカーディガンは、蒼の目の色を静かに明るくした。
柔らかい布が中性的な骨格を拾いすぎず、手の甲に落ちた裾が少し長めで、指先が覗く。
「……いい」
「い、今の“いい”は、どっちの“いい”ですか?」
「似合っている、の“いい”だ」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
ほんとは、少し見惚れた。
曖昧に目を逸らして、咳ばらいで誤魔化す。
「最後、ネイビーのニット」
「行ってきます」
出てきた蒼は、鏡の前でくるりと回った。
ニットの編み目の陰影が頬の色を引き立て、視線が自然と目元へ行く。
笑ったとき、目尻が少しだけ三日月になるのが、よくわかる。
「これ、好きかも」
「じゃあ、それにしろ。シャツも一枚。パンツはブルーグレーのやつを一本」
「はい。……選んでもらうの、安心しますね」
会計を済ませる。店を出るころには、蒼の肩の力が抜けていた。
「さっきの着て帰るか?」
「え、そんなことできるんですか」
「あぁ、できる。タグ外してもらえば」
「じゃ、着たいです」
店員に頼んで、その場でネイビーのニットに着替える。
店を出たとき、蒼は照れて笑っていた。
「新しい服って、世界が明るく見えますね」
「そうか」
「はい、嬉しいです」
エスカレーターを降りながら、蒼がふと俺の方を見る。
俺は肩のエコバッグを持ち直し、ほんの少し歩幅を詰めた。
手がぶつかる距離ではない。でも、同じ速度で歩ける距離だ。
***
帰り道、夕方の風が少し冷たい。
小さなパン屋の前で、蒼が「あ」と声を上げた。
「この店、姉ちゃんが好きだったやつだ」
「人気だな。行列が短いから、今なら買えるんじゃないか」
「クリームパン……食べたいです」
「買うか」
二つ買って、小さな公園のベンチで食べた。
袋から出したクリームパンを半分に割ると、カスタードがとろりと覗いた。
「……うまいな」
「ふふ、美味しいですね」
「甘いもの、苦手じゃないんだよな?」
「好きです。篠原さんも、好きですよね」
「まあな」
ふと、蒼が膝の上で紙袋をいじりながら言った。
「姉ちゃん、最近ぜんぜん連絡してこないんです」
「そうか」
「ちょっと寂しいですけど、姉ちゃんらしいです」
声に、自分で自分を納得させるような固さがあった。
俺はパンを一口噛んで、言葉を選ぶ。
「仕事でも人間関係でも、それぞれの事情があって、一緒に居られなくなることがある。
でも、残された側がどう日常を作るかは、自由だろ」
「残された側……俺、ですね」
「あと、俺だ」
蒼が顔を上げる。
驚いたような、ほっとしたような目だった。
蒼の目を見ながら、苦笑した。
「今回のことで、一人よりも二人の方がいいこともあるんだと知ったよ」
「?」
「あの部屋に残されても、お前と二人でいられることが救いになることもあったっていうことだ」
「……篠原さん」
カスタードの甘さが、ゆっくりと喉を通り過ぎる。
夕景の公園は家族連れが多くて、子どもの笑い声が風に乗って流れていく。
俺たちは黙ってパンを食べ終え、紙袋を畳んだ。
「帰るか」
「はい」
***
部屋に戻ると、蒼は買ってきた食材をきっちりとしまい、服のタグを丁寧に切ってクローゼットに掛けた。
動きに無駄がない。
くるっと俺を振り返り、首を傾げるようにした。
「夜は、何を作ります?」
「簡単でいい。今日は歩いた」
「じゃあ、親子丼どうですか? レシピ、覚えました」
「お前、練習した?」
「味噌汁のついでに」
「よし。やってみろ。俺は米を研ぐ」
台所に並ぶ。
鶏の身に包丁を入れる音、玉ねぎをスライスする音。
油が温まる音。
生活音が重なり合って、静かな音楽みたいに流れる。
「卵、溶きすぎるなよ」
「はい。白身の筋を残すくらいでしたっけ?」
「そうそう。……いい匂いだ」
鍋の蓋を少しずらしたとき、蒼の肩が俺の腕に触れた。
反射で一歩引く。
蒼は気づいていないふりをして、火加減を弱めた。
どんぶりに盛ると、湯気が立ち上って、玉ねぎの甘い香りが鼻に抜ける。
「いただきます」
「いただきます」
一口。
だしが素直で、玉ねぎがちゃんと甘い。
卵の半熟が米に絡んで、喉をするりと滑っていく。
「うまい」
「……やった」
「ちゃんと“家の味”になってる」
蒼は箸を止めて、少しだけ目を丸くした。
「“家の味”」
「ああ。店の味じゃない、俺たちの台所の味」
「……すごい。そういうふうに言ってもらったの、嬉しいです」
照れたように笑って、また箸を動かす。
俺は湯呑みにお茶を注いだ。
静かな満ち足りた時間。
この穏やかさに、いつまで我慢できるのか、ふと怖くなる。
食器を片づけ、テレビをつける。
ぼんやりした情報番組の声が、夜の静けさをちょうど良く散らす。
蒼はソファで新しいニットの袖口をいじっていた。
「伸ばすなよ」
「すみません。落ち着くんです、袖口いじるの」
「子どもか」
「子どもです」
笑いながら、俺はクッションを直す。
肩が触れる。今度は離れなかった。
少しの体温。呼吸のリズム。
心臓が、静かに、でも確実に回数を増やす。
「篠原さん」
「ん?」
「今日、楽しかったです。買い物、服、パン、公園、親子丼。全部」
「そうか」
「はい。……“一緒に”って、すごいですね。”中身”の充実感が全然違うんだなって」
“中身”。
日常の質、心の重さ、記憶の手ざわり。いろんな意味が頭をよぎる。
「明日からまた大学、大変ですけど、頑張れそうです」
「そうか」
「はい。……篠原さんも」
蒼は視線を落として、それからふと顔を上げた。
まっすぐに目が合う。
数秒。
何かが言葉になりそうで、ならない距離。
「……ありがとな」
先に言ったのは、俺だった。
蒼は小さく笑って、ソファに背を預けた。
それだけで、部屋の空気が少しあたたかくなる。
休日の一日が、嘘みたいに滑らかに終わっていく。
この穏やかさが、明日も続く保証なんてどこにもない。
いつか、ちゃんと何かを言葉にしなきゃいけない日が来る。
でも今は、まだいい。
今は“日常”を積もう。
他人が歩幅を合わせるって、たぶん恋より難しい。
けれど、その難しさが心地いい。
俺たちは今日、同じ速度で歩けたはず。明日もきっと。
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