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第6話 雨の日、乾かないもの
しおりを挟む次の休日は朝から雨だった。
昨夜、ベランダに干した洗濯物を取り込むのが間に合わなくて、シーツの端が少し濡れた。
窓の外は白い。空気まで水を含んで、部屋が少し冷えている。
俺はコーヒーを淹れながら、カーテン越しに外を見た。
濃い雲。静かな水音。
「篠原さん、タオルどうします? 全部部屋干しします?」
蒼が両腕いっぱいにタオルを抱えて、リビングの入り口に立っていた。
Tシャツにスウェット。髪は後ろでゆるくまとめている。
いつもより少しラフで、それがやけに目に残る。
「部屋干しでいい。窓側のポール使え」
「了解です」
蒼は足早に物干しスタンドを出して、洗濯ばさみをぱちぱち留めていく。
シーツの角を合わせて折るとき、無意識に口笛を吹いている。
「上手くなったな」
「ほんとですか? 最初、ぐちゃぐちゃでしたもんね」
「もう、俺より几帳面だ」
「え、嘘でしょ。篠原さん、アイロンまでかけるのに」
「習慣だ。神経質って言われる」
「俺、好きですけどね。そういうの」
軽く言っただけかもしれない。
でも、その言葉の端に温度があって、思わず手の動きが止まる。
「……お前、よくそんなこと言うな」
「? 褒めてるだけですよ」
そう言って笑う。
悪気がないのが余計にやばい。
俺は誤魔化すようにコーヒーを一口飲んだ。
苦味が舌の奥に残る。
「シーツは乾きそうにないな。暖房入れるか」
「はい……あ、でも、シーツは乾燥機かけましょうか? 俺、持っていきます」
「使い方、わかるか?」
「大丈夫です!」
乾燥機に入れ、スタートボタンが押される。
「ゴウン、ゴウン」という回転音が、リビングにまで届く。
蒼はリビングに戻ると、俺の隣にすとんと座り、窓を眺めた。
「俺、雨の日、苦手なんです。
なんか、心まで湿ってくる感じしません?」
「するな。設計の仕事してると、天気に気分持っていかれる」
「篠原さんも?」
「ああ。曇りの日は図面の線がやけに重く見える」
「へぇ……。俺、音が駄目なんです。雨の音。
寂しくなるというか……一人を強調させられるみたいな」
「……」
「でも、篠原さんがいると、大丈夫なんです」
「……は?」
「だって、音が変わるんですよ。
同じ雨の音でも、篠原さんがいると、怖くなくなる」
蒼はそう言って、俺を見て軽く笑った。
悪気のない笑顔。
心臓の奥が、少しだけ跳ねた。
「……お前、ほんと、無防備だな」
「え?今なんて?」
「いや。なんでもない」
蒼が窓の外を覗いた。
雨粒がガラスを伝って、線みたいに伸びる。
「こんな日、姉ちゃんはずっと映画観てました。
俺は洗濯物を畳んでて。
篠原さんも、そんな感じですか?」
「似たようなもんだな。
仕事のこと考えながら、無意識に掃除してるタイプ」
「うわ、想像できる……」
「どういう意味だ」
「ふふ、真剣に掃除してそう。篠原さんっぽい」
「おい」
蒼が笑って、手で口を覆う。
その仕草が自然すぎて、また気持ちが波立つ。
なんでもない瞬間に、心が追いつかなくなる。
乾燥機が止まって「ピッ」と音を鳴らした。
その音に反応して、蒼が乾燥機に向かった。
俺は追いかけるように後を付いていった。
ちょうど蒼が取り出そうとして、まだ熱い布に指先を当てる。
「待てって」
「あっつ!」
「熱いに決まってるだろ。貸せ」
俺は反射的に手を伸ばした。
蒼の手を包むように掴む。
細くて、驚くほど柔らかい手。
そのまま数秒、動けなかった。
「……もう、大丈夫です」
蒼が少し笑って、手を引いた。
けど、その目は笑っていなかった。
何か言いたげに口を開いて、結局閉じる。
俺は咳払いをして、シーツを取り出し、畳んだ。
布の手ざわりが妙にリアルで、落ち着かない。
「火傷は?」
「もう大丈夫です。篠原さんの手、冷たくて気持ち良かったから平気です」
「……そういうこと、言うな」
「ごめんなさい?」
いたずらっぽく笑って、タオルを抱えたままリビングに戻っていく。
その背中を見送りながら、ため息が漏れた。
窓の外の雨音が、さっきより優しく聞こえる。
同じ音なのに、確かに“誰かの気配”で変わるらしい。
俺はコーヒーを温め直して、ソファに座る。
数分後、蒼が髪を乾かすドライヤーの音がした。
低い風音が部屋の静けさをほどよく散らす。
その音を聞きながら、不意に思う。
雨の日、乾かないのはタオルでもシーツでもない。
俺のこの、じわじわ熱を持ち始めた心だ。
***
昼を過ぎて、雨がようやく止んだ。
窓の外では、アスファルトが薄く光っている。
長い雨のあと、空気の粒が大きく感じる瞬間がある。
まさにそれだ。
蒼が窓を開けて、外を見上げた。
小さく吸い込む音。
それから、俺の方を向いて言った。
「雨、上がりましたね」
「ああ」
「外、出てみません?」
「どこに」
「コンビニ。牛乳切らしてました」
「行くか。傘、持ってけよ」
「もう降ってませんよ?」
「空は信用するな。また降るかもしれないだろ」
蒼は笑って、玄関でスニーカーを履く。
俺も軽いパーカーを羽織った。
ドアを開けると、湿った空気が肌にまとわりつく。
冷たくもない、ぬるい風。
「久しぶりに外、静かですね」
「雨が洗ってくれたからな」
「洗う?」
「埃とか、余計な音とか。……世界のノイズ」
「詩人みたいですね」
「違う。職業病だ」
蒼が笑う。その笑い声が、水に溶けたみたいに柔らかい。
マンションの階段を下りる。
傘をたたんで持ったまま、街路樹の下を歩いた。
雫が枝から落ちて、時々肩に当たる。
「篠原さん」
「ん」
「さっきの、手……」
蒼が言いかけて、口をつぐんだ。
俺は立ち止まらず、そのまま前を歩く。
彼の声が、背中に小さく当たる。
「……火傷、もう平気です」
「ああ」
「篠原さんも、あのとき……熱かったですか?」
心臓の奥で、何かが小さく鳴った。
答えようとして、できない。
代わりに、空を見上げた。
雲の切れ間から、淡い光が滲んでいる。
「熱いかどうかは、覚えてない」
「そうですか」
「お前は、どうだったんだ」
振り返ると、蒼は数歩後ろで立ち止まっていた。
少し驚いたように目を瞬かせて、それから小さく笑う。
「俺は……篠原さんの手が嬉しかったです」
短い沈黙。
風の音と、遠くの車の走る音だけが混じる。
このまま何か言えば、きっと何かが壊れる。
だから、俺は何も言わなかった。
コンビニに着くと、店の入口のガラスにまた細い雨粒がついていた。
「ほら、降ってきた」
俺が言うと、蒼が見上げて頷く。
「傘、一本しかないな」
「……一緒に入ります?」
「仕方ない。貸してやる」
「優しい」
「俺が濡れるだけだ」
「じゃあ、半分ずつ濡れましょ」
「意味がわからん」
会話が少しだけ軽くなる。
店で牛乳と少しの食料を買って、外に出る。
霧雨みたいな小雨が降り始めていた。
俺は傘を開いて、肩をすぼめる。
蒼が自然にその下に入ってきた。
傘の柄が少し短いせいで、距離が近い。
肩と肩の間、数センチ。
髪の先から、まだ雨粒が落ちている。
蒼が囁くように言った。
「雨の音、今は好きかもしれません」
「どうして」
「篠原さんが……いるから」
「……それは、俺がうるさいって意味か?」
「違います」
小さく笑う。
その声が、雨よりも静かで、胸の奥に残る。
「一緒にいると、音が柔らかくなるんです。
家でも、外でも。……なんか、落ち着くというか」
「落ち着かなくていい」
自分の言葉にはっとする。
「え?」
「……いや。なんでもない」
息が詰まりそうになる。
その距離で、傘の中の空気が狭く感じる。
蒼が少しだけ顔を上げて、俺を見る。
目の中に、雨を反射した光が揺れていた。
「篠原さん、顔、濡れてます」
「お前もだ」
指先で、頬の水滴を拭ってやる。
触れたのはほんの一瞬。
でも、手を離したあとも、その温度が指に残った。
蒼がゆっくり息を吸い込む。
視線を逸らせずにいる俺を見て、小さく笑う。
その笑い方が、いつもより大人びて見えた。
「もっと寄ってください。
篠原さん、肩まで濡れてます」
「……ああ」
傘を少し傾ける。
肩が触れた。
その接点から、鼓動の回数が一つずつ増えていく。
静かな道。
傘の内側で、世界の音がすべて遠ざかっていく。
雨が作る膜の中で、俺たちだけが閉じ込められたみたいだった。
歩幅を合わせる。
気づけば、息まで同じテンポになっている。
コンビニの袋が二人分の腕の間で揺れた。
中の牛乳が小さく鳴る。
その音が、やけに優しい。
「篠原さん」
「ん」
「俺……」
蒼が言いかけた言葉を、風がさらった。
代わりに、遠くで雷が鳴る。
俺はそのまま前を見て、静かに言う。
「帰ろう。冷える」
「……はい」
玄関に着くまで、言葉はなかった。
けれど、沈黙が苦じゃなかった。
むしろ心地よかった。
傘をたたみ、靴を脱ぐ。
蒼がふと笑って言う。
「半分ずつ濡れたの、ほんとになりましたね」
袖を見れば、確かに両方二人の肩が濡れている。
俺は苦笑して、タオルを取った。
「乾かせ」
「はい」
「風邪ひくな」
「篠原さんも」
蒼がタオルで髪を拭く。
少し乱れた前髪の奥から、笑みが覗く。
まるで何もなかったみたいに、穏やかに。
でも、俺の心はもう、穏やかじゃなかった。
雨上がりの匂いの中、傘の内側に残った湿った空気。
それが、夜になっても消えなかった。
きっともう、あの傘には二人分の熱が染みついている。
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