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第7話 ソファで二人
しおりを挟むコンビニから帰宅してすぐに、濡れた体を拭き、部屋着に着替えた。
洗濯機に濡れたタオルとシャツを放り込む。洗剤を入れてスイッチを押すと、低い回転音が部屋の奥へ流れていった。
雨上がりの匂いが、まだ靴箱の辺りに残っている。
「お茶、淹れる」
「あ、俺、拭き掃除します。床が濡れてました」
「あぁ、気が利くな」
蒼は雑巾で玄関の水滴をさっと拭って、リビングに来た。
前髪がまだ少し濡れている。タオルを渡すと、「ありがとうございます」と髪を押さえる。
その仕草がやけに落ち着いていて、心臓の鼓動だけが場違いに騒いだ。
「何見る?」
テレビを指さすと、蒼は少し考えてから「音がうるさくないやつ」と言った。
「ドキュメンタリーでいいか」
「好きです。誰も死なないやつがいいです」
「物騒な基準だな」
ソファに腰を下ろす。
蒼はいつものように一呼吸おいてから、俺の隣に座った。
端でもなく、くっつくでもなく、今の二人のような曖昧な距離。
テーブルの湯呑みから立ちのぼる湯気が、二人の間で丸く揺れた。
洗濯機の「ゴウン、ゴウン」が一定のリズムを刻む。
画面では、海鳥が風に乗って滑空している。ナレーションが低く、眠気を誘うテンポで続く。
「……傘、やっぱり必要でしたね。入れてくれてありがとうございました」
「いや、二人ともずぶ濡れにならなくてよかったよ。牛乳も濡れなかったしな」
「大事なの、牛乳」
「生活に必須だろ」
他愛ない会話のあと、短い沈黙。
その沈黙が今日は妙に柔らかい。
蒼が湯呑みを両手で包んで、俺の肩のほうをちらりと見た。
「篠原さん」
「ん」
「傘、狭かったですね」
「狭かったな」
「でも、嫌じゃなかった」
画面の海が一瞬白く波立って、部屋の明るさがふっと変わる。
俺はそれを言い訳にして目を逸らした。
言葉が喉元まで上がって、そこでほどける。
「……お前、寒くないか」
「少し」
ソファの背からブランケットを取って、自分と蒼の膝へ落とす。
布が触れた瞬間に、蒼の指が一瞬固まって、それからそっとブランケットの端をつまんだ。
距離はさっきと同じ。けれど、布一枚を共有しただけで、熱の流れかたが変わる。
洗濯機が回り続ける。
湯呑みの縁に口をつけた蒼が、小さな声で言った。
「この音、好きかもしれない」
「洗濯機?」
「うん。寝そうになる」
「寝るな。干せなくなる」
「……干しそこねたら、しわしわになっちゃいますね」
「それは困る」
「ふふ、頑張って起きてなきゃ」
蒼の笑いが、いつもより低く、落ち着いていた。
俺はテレビのリモコンをテーブルに戻して、指先でブランケットの端を整える。
指と指が、端の布越しにすれ違った。
布越しの温度は、直接触れるよりもずっと鮮明だ。
「篠原さんって、目、やさしいですよね」
「どこ見て言ってる」
「なんかさっきから、テレビじゃなくて、反射で映る俺の顔のほう見てる気がします」
どきり、とした。
画面の黒い縁取りに、確かに俺の横顔が薄く映っている。
ごまかすために咳払いをしたが、何の役にも立たない。
「……気のせいだ」
「ふふ、はーい」
蒼は笑って、ブランケットの端をもう少し手前に寄せた。
俺の腿に、布越しの重さが加わる。
重さ、と言っても羽根みたいなものだ。なのに、やけに存在感がある。
洗濯機が音を落とし、最後のすすぎに入る。
それに紛れるように、蒼がぽつりと話し始めた。
「俺、昔から“待つ”の。
姉ちゃんって、急に予定変えるんですよ。会う約束してても、仕事入ったとか言って。
分かってるのに、毎回ちょっとだけ、寂しいって思っちゃうんです」
「分かる」
「分かります?」
「分かるさ。俺も、急な予定変更は苦手だ。
でも最近はこうして二人で暮らしてると、予定がずれても、“おかえり”が待ってるから、帳尻が合う」
「……“おかえり”、ですか」
蒼の声が少しだけ低くなった。
指先がブランケットの上を、行儀よく一センチだけ移動する。
触れない距離のまま、そっと寄ってくる。
「その“おかえり”は俺に言わせてください」
「毎日言ってくれ」
「はい、毎日、言います」
短い会話。
それだけで、体の芯に何かが落ちていく音がした。
ピッ、と電子音。
洗濯機が終わりを告げる。
俺は立ち上がりかけて、それでも一拍置いた。
蒼の横顔が、思いのほか近い。
「干すか」
「行きます」
二人で立つ。ブランケットが膝から滑り落ちて、柔らかい音を立てた。
洗濯機の前で、湯気みたいな湿気が顔に当たる。
タオルを一枚取って、軽く振る。
蒼も同じ動きをする。肩が当たって、今度はどちらも離れなかった。
「……ねえ、篠原さん」
「ん」
「俺が何か、間違えそうになったら、止めてくださいね」
唐突な言葉だった。
でも、唐突さの奥に、丁寧な意図が見えた。
俺は少しだけ笑って、洗濯ばさみを渡す。
「お前、……いや、わかった」
タオルが二人分のリズムで揺れる。
竿に並ぶ白が、窓の方へ小さくたなびいた。
湿度の高い空気に、石鹸の匂いが薄く溶け込む。
全部干し終えて、リビングに戻る。
ソファに座ると、ブランケットはもう冷えていた。
蒼が自分の側の端を持ち上げて、何も言わずに俺の膝へ返す。
ほんの数センチ、距離が縮まる。
テレビの海は、いつの間にか夕景になっていた。
光が水平線でちぎれ、画面の中の世界がゆっくりと夜に沈んでいく。
「明日、早い?」
「ちょっとな」
「起こしますね」
「お前、起きれんのか」
「起きます。……多分」
「多分かよ」
「じゃあ、頑張ります」
蒼が小さく欠伸をした。
肩が触れたまま、ゆっくり呼吸が整っていく。
寝息、ではない。安心しているときの呼吸だ。
言葉にしないまま、分かってしまうことが増えていく。
それが怖いのか、嬉しいのか、自分でも判別がつかない。
「このまま寝るには少し早いな」
「ふふ、そうですね。でも、少し眠いです」
「寝るか?」
「……夜中起きちゃうかも」
「そうだな」
「おやすみ、篠原さん」
「あぁ、おやすみ」
部屋の空気が一段柔らかくなって、外の道路を走る車の音さえ遠くなる。
雨上がりの夜は、こうして静かに積み上がっていく。
洗濯物が乾くころには、きっとまた、ひとつ何かが近づいている。
俺はブランケットの端を広げ、蒼が冷えないように掛け直した。
目を閉じた蒼はまだ幼い顔つきをしている。
俺はしばらく隣で眺めていた。
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