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第8話 朝と、気づいてしまったこと
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目が覚めた瞬間、どこか違和感があった。
普段なら、俺が起きてからしばらくして蒼が顔を出すはずなのに――今日は逆だった。
「篠原さん、起きてください」
控えめにノックする音と、柔らかい声。
まぶたを開けると、ドアの隙間から蒼が覗いていた。
寝癖を少し跳ねさせたまま、困ったように笑っている。
「おはようございます。6時半です」
「……お前、起きれたのか」
「はい。昨日“起こす”って約束したんで」
「偉いな。ちゃんと起きたな」
「へへ」
冗談めかした声。
起き上がると、カーテンの隙間から淡い光が差していた。
雨はすっかり上がって、空気に冷たい透明感がある。
洗面台で顔を洗ってリビングに出ると、
テーブルには朝食が並んでいた。
トースト、ゆで卵、コーヒー、そして味噌汁。
湯気の立ち方が、昨日の夜よりも穏やかだ。
「すごいな。いつの間に」
「早起きしたら、やることなくて」
「……悪くない朝だ」
トーストをかじると、バターの香りが広がる。
蒼はコーヒーを両手で包みながら、ぼんやりカーテンの外を見ていた。
「晴れてよかったですね」
「洗濯物も乾くだろうな」
「昨日の、ふわふわになるかな」
他愛もない会話。
だけど、不思議と心地いい。
その沈黙の中に、微かな呼吸のリズムが重なっていく。
「今日、仕事ですか?」
「ああ。昼まで資料作って、そのあと打ち合わせ」
「じゃあ俺、夕飯作っておきますね。早めに帰れる日ですか?」
「たぶん、七時過ぎ。無理するなよ」
「無理じゃないです。楽しみなんで」
“楽しみ”。
それを聞いただけで、少しだけ胸があたたかくなる。
蒼はコーヒーを飲み干し、食器をまとめて立ち上がった。
「俺、片づけます」
「いい。俺がやる」
「ダメです。起こしたからには、最後まで当番です」
そう言って、軽く笑う。
ああ、これはもう“弟”じゃない。
そう、ふと気づいてしまった。
今、この瞬間、心のどこかで何かが音を立てて変わった気がした。
仕事に出ても、なんとなく意識が落ち着かない。
書類の山を前に、気づけばコーヒーを飲みすぎていた。
午後の会議中、資料を見ながら、思い出すのは、大抵、家のことだ。
“帰ったら、あいつがいる”――それが当たり前になっていた。
***
夜7時頃、ドアを開けた瞬間、味噌と出汁の香りがふわっと広がった。
蒼がキッチンでエプロン姿のまま振り向く。
「おかえりなさい!」
「ただいま。……お前、もう板についてきたな」
「何がです?」
「“おかえり”の言い方」
「自然ですか?」
「ああ。……悪くない」
玄関で靴を脱ぎながら、思わず笑ってしまう。
こういう何気ない瞬間に、帰る理由を見つけてしまう。
「今日は豚汁です。あと、昨日の親子丼の残りがありますけど、食べます?」
「あぁ、食べる」
「はい。篠原さん、豚汁の具、何が好きですか?」
「じゃがいも」
「じゃあ、次は倍入れますね」
無邪気に言う声。
そのやり取りのどれもが、穏やかで柔らかくて、
気づけば笑っていた。
夕飯のあと、ソファで並んでニュースを見た。
話題は他愛もない。
天気予報、映画の公開情報、明日の気温。
蒼が「明日も晴れそうですね」と言って、
俺は「洗濯日和だ」と返す。
言葉は少なくても、沈黙がもう寂しくなかった。
息が触れるほどの距離ではないけれど、同じ空気を吸っていることが、確かに心を落ち着かせる。
時計を見ると、もう十時を過ぎていた。
蒼が軽く伸びをして、目を細める。
「……ねむい」
「早く寝ろ」
「篠原さんは?」
「少しだけ仕事する。明日、午前中に出さなきゃいけないんだ」
「じゃあ、コーヒー淹れます」
「いいから。寝ろ」
「お願いです、それくらいやらせて下さい。明日もちゃんと朝起きれますから」
言いながら、台所でカップを取る音がする。
俺は机の上の資料を開いて、文字を追う。
でも、頭の中では別のことを考えていた。
「楽しみ」と笑った顔。
雨に濡れた頬。
あどけない寝顔。
気づきたくなかった。
でも、もう気づいてしまった。
この同居が、もう“ただの生活”じゃなくなっていることに。
そして――
ドリップの音が止まり、蒼の声がした。
「篠原さん、ブラックでいいですよね?」
「ああ」
「お砂糖、少し入れてもいいのに」
「甘いのは、お前がいるだけで十分だ」
言ってから、自分で言葉の意味に気づいて、息を飲んだ。
蒼が少しだけ目を見開いて、それから、ゆっくり笑う。
「……それ、今の、冗談じゃないですよね」
「……早く寝ろ」
「は~い」
笑いながらカップを置く蒼の背中を見つめる。
何もかもが穏やかなのに、心の奥だけがざわついている。
ああ、もう戻れないな――。
静かな夜の空気の中で、
初めてその事実を、はっきりと自覚した。
普段なら、俺が起きてからしばらくして蒼が顔を出すはずなのに――今日は逆だった。
「篠原さん、起きてください」
控えめにノックする音と、柔らかい声。
まぶたを開けると、ドアの隙間から蒼が覗いていた。
寝癖を少し跳ねさせたまま、困ったように笑っている。
「おはようございます。6時半です」
「……お前、起きれたのか」
「はい。昨日“起こす”って約束したんで」
「偉いな。ちゃんと起きたな」
「へへ」
冗談めかした声。
起き上がると、カーテンの隙間から淡い光が差していた。
雨はすっかり上がって、空気に冷たい透明感がある。
洗面台で顔を洗ってリビングに出ると、
テーブルには朝食が並んでいた。
トースト、ゆで卵、コーヒー、そして味噌汁。
湯気の立ち方が、昨日の夜よりも穏やかだ。
「すごいな。いつの間に」
「早起きしたら、やることなくて」
「……悪くない朝だ」
トーストをかじると、バターの香りが広がる。
蒼はコーヒーを両手で包みながら、ぼんやりカーテンの外を見ていた。
「晴れてよかったですね」
「洗濯物も乾くだろうな」
「昨日の、ふわふわになるかな」
他愛もない会話。
だけど、不思議と心地いい。
その沈黙の中に、微かな呼吸のリズムが重なっていく。
「今日、仕事ですか?」
「ああ。昼まで資料作って、そのあと打ち合わせ」
「じゃあ俺、夕飯作っておきますね。早めに帰れる日ですか?」
「たぶん、七時過ぎ。無理するなよ」
「無理じゃないです。楽しみなんで」
“楽しみ”。
それを聞いただけで、少しだけ胸があたたかくなる。
蒼はコーヒーを飲み干し、食器をまとめて立ち上がった。
「俺、片づけます」
「いい。俺がやる」
「ダメです。起こしたからには、最後まで当番です」
そう言って、軽く笑う。
ああ、これはもう“弟”じゃない。
そう、ふと気づいてしまった。
今、この瞬間、心のどこかで何かが音を立てて変わった気がした。
仕事に出ても、なんとなく意識が落ち着かない。
書類の山を前に、気づけばコーヒーを飲みすぎていた。
午後の会議中、資料を見ながら、思い出すのは、大抵、家のことだ。
“帰ったら、あいつがいる”――それが当たり前になっていた。
***
夜7時頃、ドアを開けた瞬間、味噌と出汁の香りがふわっと広がった。
蒼がキッチンでエプロン姿のまま振り向く。
「おかえりなさい!」
「ただいま。……お前、もう板についてきたな」
「何がです?」
「“おかえり”の言い方」
「自然ですか?」
「ああ。……悪くない」
玄関で靴を脱ぎながら、思わず笑ってしまう。
こういう何気ない瞬間に、帰る理由を見つけてしまう。
「今日は豚汁です。あと、昨日の親子丼の残りがありますけど、食べます?」
「あぁ、食べる」
「はい。篠原さん、豚汁の具、何が好きですか?」
「じゃがいも」
「じゃあ、次は倍入れますね」
無邪気に言う声。
そのやり取りのどれもが、穏やかで柔らかくて、
気づけば笑っていた。
夕飯のあと、ソファで並んでニュースを見た。
話題は他愛もない。
天気予報、映画の公開情報、明日の気温。
蒼が「明日も晴れそうですね」と言って、
俺は「洗濯日和だ」と返す。
言葉は少なくても、沈黙がもう寂しくなかった。
息が触れるほどの距離ではないけれど、同じ空気を吸っていることが、確かに心を落ち着かせる。
時計を見ると、もう十時を過ぎていた。
蒼が軽く伸びをして、目を細める。
「……ねむい」
「早く寝ろ」
「篠原さんは?」
「少しだけ仕事する。明日、午前中に出さなきゃいけないんだ」
「じゃあ、コーヒー淹れます」
「いいから。寝ろ」
「お願いです、それくらいやらせて下さい。明日もちゃんと朝起きれますから」
言いながら、台所でカップを取る音がする。
俺は机の上の資料を開いて、文字を追う。
でも、頭の中では別のことを考えていた。
「楽しみ」と笑った顔。
雨に濡れた頬。
あどけない寝顔。
気づきたくなかった。
でも、もう気づいてしまった。
この同居が、もう“ただの生活”じゃなくなっていることに。
そして――
ドリップの音が止まり、蒼の声がした。
「篠原さん、ブラックでいいですよね?」
「ああ」
「お砂糖、少し入れてもいいのに」
「甘いのは、お前がいるだけで十分だ」
言ってから、自分で言葉の意味に気づいて、息を飲んだ。
蒼が少しだけ目を見開いて、それから、ゆっくり笑う。
「……それ、今の、冗談じゃないですよね」
「……早く寝ろ」
「は~い」
笑いながらカップを置く蒼の背中を見つめる。
何もかもが穏やかなのに、心の奥だけがざわついている。
ああ、もう戻れないな――。
静かな夜の空気の中で、
初めてその事実を、はっきりと自覚した。
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