白猫が見ている町で〜海辺の喫茶店と、やさしい暮らし〜

井上 佳

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【番外編④】音子と紗矢の午後

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「うわぁ……ほんとに、海が見えるんだね。ここ」


喫茶店"ひだまり"の窓辺の席で、紗矢はうっとりと景色を眺めた。風に乗って海の香りがふんわりと漂ってくる。都会では味わえない、ゆっくりとした時間が流れていた。


「でしょ。朝なんか、光がきらきらして、ほんとにきれいなんだよ」


音子は、にこっと笑いながらカップを差し出した。


「ありがと。……あー、落ち着くー。音子がここにいる理由、ちょっとわかる気がする」

「ふふ、でしょ?」


さわやかなフルーツティーの香りに包まれて、二人の会話は自然と大学時代の思い出や、最近の出来事へと移っていった。


「……そういえば、金井課長、異動になったよ。総務の、あの……"あそこ"に」

「……あそこって、"窓際課"?」


音子の手が一瞬止まったけれど、すぐにまたカップに手を添える。


「そう。通称"窓際課"ね。セクハラとパワハラで調査入ったんだって。営業部の女性たち、けっこう話してくれてたみたい」

「そうなんだ……」

「音子が辞めるとき、営業の統括に話したって聞いたよ。……あの人さ、経理部まで噂届いてたよ? 部下に対して偉そうで、特に女は下に見てるんだーって」

「……うん。叱られるたびに、『私が悪いのかな』って、思っちゃってた」

「悪くないよ! 音子は、悪くない……」


紗矢は、コースターをくるくると回しながら、少し頬をふくらませた。


「……でもね。今思うと、辞めてよかったって、思えるの。ここに来て、みんな優しくて、季節の移り変わりもちゃんと感じられて……。あのときの自分には想像できなかったけど、今の暮らし、すごく好き」

「……音子、変わったね」

「そう?」

「うん。柔らかくなったっていうか、肩の力が抜けたっていうか。なんか、ちゃんと笑えてる気がする」

「えー、昔から笑ってたよ?」

「それはそうなんだけどさ~。なんかこう、ほんとの意味で、って感じ?」


二人は顔を見合わせて、くすっと笑った。


「私は音子がここにいるの、賛成。今の音子、すっごくいい顔してるもん」

「……ありがと」


その言葉に、音子はそっと目を細めた。大学時代から変わらない友達のまなざしが、どこまでもあたたかい。

店の扉が、カランと音を立てて開いた。


「おーい、音子ちゃん。慈姑、持ってきたぞー」

「あっ、義信さん!」


ダンボール箱を抱えた義信が、気さくに店の奥へと入ってきた。と、その視線がテーブルの紗矢に止まる。


「こんにちは。……お客さん?」

「あ、ううん。東京の友達です。紗矢。大学の頃からの、大事な人……」

「へぇ。……紗矢さん、こんにちは。滝川義信です。慈姑、作ってます」

「こんにちは! 慈姑、ほんとに美味しかったです!」


笑顔で言われて、義信は少しだけ嬉しそうに目を細める。

その視線の先では、音子が紗矢と、楽しそうに話している。大学時代の友達と再会できた嬉しさが隠しきれないその笑顔は、いつもより少しだけ無防備で――なんだか、微笑ましい。


(……いい顔してるな)


そう思いながら、義信はなんとなく胸の奥に、温かくて少しくすぐったい気持ちを抱いた。

そんな義信の様子を、紗矢も見逃してはいなかった。


(……ん?)


さっきまでのフレンドリーな挨拶から一転、音子を見る義信のまなざしが、どこか柔らかくて、深いものに感じた。


(あれ? この二人……なんか、ただの知り合いって空気じゃないな……)


紗矢はカップに口をつけながら、ちらりと音子を横目で見る。

音子のほうも、義信が厨房へ向かう背中を目で追いながら、ほんのすこし、口元をゆるめていた。


(ふーん……知り合い以上、友達以上……でも恋人未満?)


そんな言葉が心に浮かんで、紗矢はちょっとだけ口角を上げる。


「ねぇ、音子」

「ん?」

「あー……ううん、なんでもない♪」


にこにことお茶をすする紗矢に、音子は首をかしげた。


「なぁに、それー。気になる言い方」

「ふふっ、内緒」


潮風がふわりと店内に吹き込んで、ほんのりとフルーティーな紅茶の香りと混じり合った。
海辺の町の午後、ふたりの笑い声が、優しく揺れていた――。




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