病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第29話・教えてくれる距離のあたたかさ

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夕食を終えたあと、リビングに戻ってきた琴葉は、いつものようにローテーブルに教科書やノートを並べた。
体調不良や通院で空いてしまった分を取り戻そうと、ここ数日はずっと試験勉強に追われている。

明かりに照らされたページを睨むように見つめ、シャーペンをくるくると回しながら唇を噛む。
ノートに何度も書き直した式や図。
それでも、頭にすっと入ってこない。

(なんでここ、こんなにややこしいの……?)

参考書の説明も、スマホで調べた解説も、理解できるようでできていない。
何より、自分がどこでつまずいているのかさえ、うまく言語化できずただもどかしかった。

眉間にしわを寄せたまま、ため息をつく。
そんな様子を、キッチンのカウンター越しに見ていた奏一が、そっと声をかけてきた。

「……琴葉さん、少し休憩をしてはいかがでしょうか」

差し出されたマグカップには、湯気の立つ赤みがかった琥珀色の液体。
ほんのり甘く香ばしい、柔らかな香りがふわりと広がる。

「……これ、先生が?」

「はい。ルイボスティーです。ノンカフェインで、体にも優しいと聞きましたので」

いつも通りの、淡々とした説明。
だけど、そのひと手間が少し嬉しくて、琴葉は「ありがとう」と小さく呟いて受け取った。

唇をつけたマグカップから、あたたかな優しさが喉の奥に染みわたっていく。
その心地よさに、少しだけ肩の力が抜けた気がした。

(……どうせわかんないし、聞くだけ聞いてみようかな)

ダメ元で、という気持ちだった。
先生は医者なんだし、きっと頭がいい。
このくらいの問題なら、もしかして――

「ねえ、先生。ここ、わかる?」

そう言って、開いていたノートをくるりと回し、奏一に差し出す。
そこには、統計処理の基本的な考え方と、計算式の流れが書かれていた。

「ここがこうなる理由が、説明されてもピンとこなくて。
前提条件がとか書いてるけど、なんかすっと入ってこないの」

奏一は黙ってノートに視線を落とし、数秒だけページを追った。
そして、自分の指で一部を隠しながら、もう一度見せてくる。

「ここまでは理解されていますよね。では、これは“平均値”と“分散”の扱いの違いです。
要するに、ここで分母にnを使うのか、n-1を使うのかという点が――」

簡潔に、端的に。
でも、不思議なくらいにわかりやすく。

(……え、なにこれ。すごくわかりやすい)

納得しかけた勢いのまま、琴葉は別ページを開く。

「じゃあ、ここの応用問題は? これは?」

まるで連鎖反応みたいに、次から次へと聞いてしまう。
気がつけば、テーブルの上には2人分のマグカップと参考書とノートが広がっていた。

ページのあちこちに、丁寧な字でメモや計算式が書き込まれていく。

「……なんか、すごく進んだ気がする」

肩をほぐしながら、琴葉がポツリと呟くと、隣に座っていた奏一は小さく頷いた。

「琴葉さんは、理解のスピードが早いですね。集中力も高い。十分すぎるくらいです」

穏やかに告げられた褒め言葉。
感情の起伏が少ない声だから反応に困るのに――心は、少し嬉しくて。

琴葉の口元がふわりとゆるんだ。

「……先生、やっぱり頭いいよね」

「医師免許は持っていますから、それなりに」

淡々としているのに、否定しない受け答えがどこか優しい。
それが不思議と心地よかった。

(どうしてだろ……なんか、落ち着く……)

ふと顔を上げると、視線が重なった。
いつもと同じ表情なのに、ほんのわずかに柔らかさを帯びていて――

(……先生、こんな顔、するんだ)

胸がきゅ、と小さくざわめいた。
言葉にならない感情が、音もなく胸の奥に落ちていく。
焦るようで、くすぐったくて。
でも、嫌じゃない。

その静けさを破ったのは、奏一の声だった。

「――そろそろ、就寝時間です」

壁の時計は、いつの間にか23時を回っている。
普段から、22時には休むようにと言われていたのに、今日は完全に忘れていた。

「……あ、ごめん」

「いえ。今日は集中されていましたし、何より体調は安定していましたから」

怒らない。咎めない。
ただ、きちんと見ていてくれる。

「ですので、今からしっかり休めば、明日もきっと問題ないでしょう」

いつも通りのやり取り。
なのに、どこかあたたかく感じたのは――たぶん、自分の気持ちが少し変わったからだ。

「うん……わかった。おやすみなさい、先生」

「おやすみなさい、琴葉さん」

短いのに、心に残る会話だった。

寝室に向かう足取りの途中、胸の奥がぽうっと温かくなる。
琴葉はその感覚を、そっと胸の前で抱きしめるようにして歩いていった。
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