病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第30話・選んでいいと言われたこと

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試験が終わり、ようやく迎えた束の間のお休み。
窓から差し込む夏の日差しが、リビングのカーテン越しにゆらゆらと揺れている。

今日は、奏一が早朝から仕事で、帰りは夕方になるという。
時計の針の音と、エアコンの低い唸りだけが、静かな部屋に溶け込んでいた。

「どこに行こうかな……」

琴葉はスマホを片手に、SNSをスクロールしている。

海沿いのテラスで乾杯する友達グループ。
ネイルサロンで仕上げたばかりのシェルネイル。
ひまわり畑で麦わら帽子をかぶって笑う子の写真。

さらに、観覧車の中で撮った夜景セルフィー、浴衣で夏祭りに行った投稿――。

(みんな、夏をちゃんと楽しんでるんだな……)

ふと、そこにタグ付きで流れてきたのは「#青春っぽい」「#夏デート」の文字。
飾られたスイカソーダ、グラスの中で光る星形の氷、フルーツたっぷりの“映え”パフェ。

画面の中だけ、夏がきらきらと溢れていた。

(次のお休み、またどこか連れてってくれるかな……)

つい、期待してしまっている自分がいる。
以前なら考えられなかった。
人に何かを“お願いしたい”なんて。

そんなとき、スマホの画面が切り替わった。

「……ママ?」

表示された名前に、ほんの少しだけ肩が強ばる。
家を出てから、もうすぐ二ヶ月。
心配しているのはわかっていたけれど、どこか気が引けていた。

通話ボタンを押すと、すぐに母の明るい声が耳に飛び込んでくる。

『もしもし? 久しぶりね、元気にしてる?』

「うん、まあ……なんとか」

『そう、よかったわ。 体調はどう? ちゃんと遠野先生に診てもらってる?』

「うん……診てもらってる」

『なら、安心ね。先生……と、うまくやれているのね?』

琴葉の手がピクリと止まった。
返事に迷って、琴葉は曖昧に笑う。

「……そうだね、特に困ったことはないよ」

『それは、よかったわ。最初はあんなに嫌がっていたのに、家を飛び出してからはずっと先生のところにいると聞いて……てっきり、すぐ戻ってくると思ってたのよ』

「……」

何か返そうとしたけれど、言葉が出てこない。

『ねえ、琴葉。遠野先生のこと……受け入れられそう?』

その問いかけに、一瞬、時間が止まったような気がした。

「うん」と言いきれない。
でも、「嫌だ」とも思わなかった。

「……わかんない」

ようやく絞り出したその言葉は、あまりに頼りなく、小さい。

母の声は、あくまで穏やかに続く。

『……夏休みは、帰ってこないの?』

また言葉が詰まる。

(帰りたくないわけじゃない。でも――先生のそばを離れたいとも思えない)

「……先生に聞いてから、決める」

そう言ってごまかすと、母は「あら、そう。わかったわ」と一言だけ返してきた。

通話を終えて、スマホをそっと伏せる。
さっきまで見ていたカフェや遊び場の写真は、どこか遠くに感じられた。

(私、先生のこと……どう思ってるんだろ)

母の言葉が、心に小さな波紋を残していた。


夕方、玄関の鍵が開く音がして、奏一が帰宅した。

「おかえりなさい」

いつもより少し早い時間に戻ってきた奏一に、琴葉は軽く声をかける。

(……言わなきゃ)

ソファの上でクッションを抱えたまま、言葉を探す。
手元にあるスマホの画面には「ママ」の着信履歴。

「先生、今日……ママから電話があったの。夏休み、帰ってこないのかって」

「そうですか。ご実家でしたら問題ありませんよ。体調も安定していますし、帰省そのものに支障はありません」

あまりにあっさりと返されたその言葉に、胸がチクリとした。

(……そうなんだ。行っていいんだ。こんなに、あっさりと)

反対してほしかったわけじゃない。
なのに、言葉にならない小さな何かが喉の奥に引っかかって、苦しくなる。

(――どうして、こんなにモヤモヤするんだろ)

母が嫌いなわけじゃない。
いつも心配してくれたし、必死で守ってくれていた。
だけど――

(ママは、私の“やりたい”を、ひとつも叶えてくれなかった)
(先生も最初は同じだと思ってた)

でも違った。
奏一は、“制限するため”ではなく、“叶えるため”に条件をつけた。

行きたいと言えば連れて行ってくれた。
見たいと言えば時間を作ってくれた。

戻りたくないわけではない。
でも、またあの家に戻ったら、“何もできない私”に戻されそうで、怖い。

気づけばうつむいていた琴葉に、奏一が声をかける。

「琴葉さん、気が進まないのであれば、無理に帰る必要はありませんよ」

「……え」

顔を上げると、柔らかな目が向けられていた。

「ご両親に会うこと自体が嫌なのではなく、“あの空気”に触れることが、今のあなたには負担になるのではと思って」

琴葉の中に渦巻く不安を正確にすくい上げるように――
まるで、心の中をそのまま読まれたようだった。

(そうだ……)

母に言われるのが、怖い。

(また“ここにいなさい”って。――“やっぱり無理だったのね”って)

奏一が続ける。

「私は、琴葉さんが望まないなら、それを否定しません。
ご実家も、ご両親のことも、あなたにとって大切なのはわかっています。
でも、今の琴葉さんが大切にしたい“時間”も、あるのではないでしょうか?」

“誰かのため”ではなく、“自分の意思で”
選んでいいのだと、そっと差し出されるような言葉。


でも、まだ――答えは出せなかった。
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