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第32話・帰る場所が変わっていく
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リビングに足を踏み入れると、ソファに腰掛けていた父が顔を上げた。
相変わらず穏やかな空気をまとっていて、その落ち着きはどこか奏一にも通じるものがある。
「遠野先生、ようこそ、お越しくださいました。本日はお忙しいなか、ありがとうございます」
立ち上がりながら差し出された手を、奏一は丁寧に取る。
「こちらこそ、こうしてご挨拶の機会をいただき恐縮です。琴葉さんも、体調に気をつけながらしっかり過ごされています」
「……そうですか。娘のこと、どうかよろしくお願いします」
言葉は簡潔ながら、そこに込められた信頼と託す想いは十分すぎるほどに伝わってくる。
父は、娘の命を守ってくれる者として奏一を信じている――そんな空気があった。
「さ、どうそ、座ってください。冷たいお茶を出しますね」
母がキッチンへ向かうと、父はふたりに視線を向けた。
「琴葉、大学はどうだ。無理はしていないか?」
「……うん、大丈夫。ちゃんと行ってるし、先生が送り迎えしてくれてる」
「そうか。それは安心だな」
ぎこちなくなるかと思った会話は、父の自然な口ぶりのおかげでほぐれていく。
琴葉の肩からも、少しだけ緊張が解けた。
やがて母が食卓に昼食を並べ、4人でテーブルを囲む。
冷やし茶碗蒸しに、彩り豊かなサラダ、ちらし寿司に、冷製スープ。
――どれも涼しげで、優しい色合いだった。
「いつも簡単なものしか作らないけど、今日は頑張ったのよ」
母が少し照れたように笑うと、父が頷く。
「母の味だな。久しぶりだろう、琴葉」
「……うん、美味しそう」
まだ少しぎこちないけれど、自然と笑みがこぼれる。
「遠野先生のお口に合うかわかりませんが……よろしければ、どうぞ」
「ありがとうございます。どれもとても美味しそうですね」
奏一は、箸を丁寧に取り、静かに口をつける。
その所作ひとつひとつが丁寧で、琴葉は隣に座っているその姿をぼんやりと見ていた。
少しして、母が琴葉に尋ねる。
「どう?味、変じゃない?」
琴葉はわずかに眉を上げてから、箸を動かした。
「ううん。おいしいよ。このスープも好きな味」
「そう、よかった」
和やかなやり取りがあって、また静かに食事が進む。
ふと、父が奏一に目を向ける。
「先生……娘はご迷惑をおかけしていませんか?」
この言葉に、琴葉の手が一瞬止まりかけた。
しかし奏一は、いつもと変わらぬ穏やかな声で返す。
「ご心配には及びません。琴葉さんは、無理のない範囲でしっかりと日々を過ごされています。
必要な休息も取れていますし、食事もきちんと摂れています。体調は安定していますよ。
私も、できるかぎりのサポートをさせていただいています」
父も母も、どこかほっとしたように表情を和らげた。
「……この子なりに、前を向こうとしてるんですね」
「はい。それが何よりも大切なことだと思っています」
湯気は立たないけれど、温かい会話が続く。
いつもの自宅とは違う空気のなかで、琴葉は黙々と箸を進めた。
いつもなら、母の言葉に何かしら身構えてしまうのに。
今日は不思議と、それがなかった。
奏一がそばにいてくれる――
その事実を自覚した瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
「ごちそうさまでした。どれも本当に美味しかったです」
奏一がそう言って箸を置くと、母はどこか安堵したように微笑む。
「先生のお口に合ってよかったです」
「……私も、もう食べ終わった」
琴葉も空になった皿を見下ろし、小さく息を吐く。
気を張っていたのだと、今さらながら気づいた。
「先生、荷物、取りに行ってきてもいい?」
「ええ、もちろん。持って帰りたいものがあれば、遠慮なくどうぞ」
何気ない言葉なのに、その声が少しだけ優しく響いて、琴葉の胸に残った。
「……うん、じゃあちょっと行ってくる」
立ち上がり、廊下を抜けて、久しぶりの自分の部屋へ向かう。
ドアを開けると、そこは以前のままだった。
整えられたベッド、壁にかけられたカレンダー。
使っていた勉強机と、本棚。
「……変わってないんだ」
漏れた声は、とても小さかった。
昔は、ここが自分の世界のすべてだった。
外出することも叶わず、ベッドと机の往復だけの日々。
それでも、大事にしていた空間だった――はずなのに。
今は、少しだけ遠く感じる。
琴葉は、ゆっくりとクローゼットを開ける。
お気に入りだったけれど、持ち出す機会のなかったワンピースや、読みかけの小説。
少し迷ってから、それらをトートバッグに入れた。
「……ここに帰る、って感じがしない」
思わず、ぽつりと呟く。
帰ってきたのに、“帰る”と感じない。
今、自分が帰るべき場所は――
荷物をまとめ、深く息を吐いた。
なんとなく、さっきより心が軽くなっている気がした。
相変わらず穏やかな空気をまとっていて、その落ち着きはどこか奏一にも通じるものがある。
「遠野先生、ようこそ、お越しくださいました。本日はお忙しいなか、ありがとうございます」
立ち上がりながら差し出された手を、奏一は丁寧に取る。
「こちらこそ、こうしてご挨拶の機会をいただき恐縮です。琴葉さんも、体調に気をつけながらしっかり過ごされています」
「……そうですか。娘のこと、どうかよろしくお願いします」
言葉は簡潔ながら、そこに込められた信頼と託す想いは十分すぎるほどに伝わってくる。
父は、娘の命を守ってくれる者として奏一を信じている――そんな空気があった。
「さ、どうそ、座ってください。冷たいお茶を出しますね」
母がキッチンへ向かうと、父はふたりに視線を向けた。
「琴葉、大学はどうだ。無理はしていないか?」
「……うん、大丈夫。ちゃんと行ってるし、先生が送り迎えしてくれてる」
「そうか。それは安心だな」
ぎこちなくなるかと思った会話は、父の自然な口ぶりのおかげでほぐれていく。
琴葉の肩からも、少しだけ緊張が解けた。
やがて母が食卓に昼食を並べ、4人でテーブルを囲む。
冷やし茶碗蒸しに、彩り豊かなサラダ、ちらし寿司に、冷製スープ。
――どれも涼しげで、優しい色合いだった。
「いつも簡単なものしか作らないけど、今日は頑張ったのよ」
母が少し照れたように笑うと、父が頷く。
「母の味だな。久しぶりだろう、琴葉」
「……うん、美味しそう」
まだ少しぎこちないけれど、自然と笑みがこぼれる。
「遠野先生のお口に合うかわかりませんが……よろしければ、どうぞ」
「ありがとうございます。どれもとても美味しそうですね」
奏一は、箸を丁寧に取り、静かに口をつける。
その所作ひとつひとつが丁寧で、琴葉は隣に座っているその姿をぼんやりと見ていた。
少しして、母が琴葉に尋ねる。
「どう?味、変じゃない?」
琴葉はわずかに眉を上げてから、箸を動かした。
「ううん。おいしいよ。このスープも好きな味」
「そう、よかった」
和やかなやり取りがあって、また静かに食事が進む。
ふと、父が奏一に目を向ける。
「先生……娘はご迷惑をおかけしていませんか?」
この言葉に、琴葉の手が一瞬止まりかけた。
しかし奏一は、いつもと変わらぬ穏やかな声で返す。
「ご心配には及びません。琴葉さんは、無理のない範囲でしっかりと日々を過ごされています。
必要な休息も取れていますし、食事もきちんと摂れています。体調は安定していますよ。
私も、できるかぎりのサポートをさせていただいています」
父も母も、どこかほっとしたように表情を和らげた。
「……この子なりに、前を向こうとしてるんですね」
「はい。それが何よりも大切なことだと思っています」
湯気は立たないけれど、温かい会話が続く。
いつもの自宅とは違う空気のなかで、琴葉は黙々と箸を進めた。
いつもなら、母の言葉に何かしら身構えてしまうのに。
今日は不思議と、それがなかった。
奏一がそばにいてくれる――
その事実を自覚した瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
「ごちそうさまでした。どれも本当に美味しかったです」
奏一がそう言って箸を置くと、母はどこか安堵したように微笑む。
「先生のお口に合ってよかったです」
「……私も、もう食べ終わった」
琴葉も空になった皿を見下ろし、小さく息を吐く。
気を張っていたのだと、今さらながら気づいた。
「先生、荷物、取りに行ってきてもいい?」
「ええ、もちろん。持って帰りたいものがあれば、遠慮なくどうぞ」
何気ない言葉なのに、その声が少しだけ優しく響いて、琴葉の胸に残った。
「……うん、じゃあちょっと行ってくる」
立ち上がり、廊下を抜けて、久しぶりの自分の部屋へ向かう。
ドアを開けると、そこは以前のままだった。
整えられたベッド、壁にかけられたカレンダー。
使っていた勉強机と、本棚。
「……変わってないんだ」
漏れた声は、とても小さかった。
昔は、ここが自分の世界のすべてだった。
外出することも叶わず、ベッドと机の往復だけの日々。
それでも、大事にしていた空間だった――はずなのに。
今は、少しだけ遠く感じる。
琴葉は、ゆっくりとクローゼットを開ける。
お気に入りだったけれど、持ち出す機会のなかったワンピースや、読みかけの小説。
少し迷ってから、それらをトートバッグに入れた。
「……ここに帰る、って感じがしない」
思わず、ぽつりと呟く。
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今、自分が帰るべき場所は――
荷物をまとめ、深く息を吐いた。
なんとなく、さっきより心が軽くなっている気がした。
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