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第11話・自由を選んだ、その先で
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時計の針が20時を回った頃。
奏一が病院へ戻ってから、まだ1時間も経っていなかった。
静まり返った部屋の扉が、そっと開く。
出ていく少女の手には、小さなバッグ。
その中に入れたのは、財布と保険証だけ。
――スマートフォンは置いてきた。
位置情報が追跡されるのが分かっていたから。
夜風が頬を撫でる。
湿気を含んだ初夏の空気は重たいはずなのに、不思議と心地よかった。
(……やっと、外に出られた)
バス停へ向かう道。
街灯の淡い光が足元を照らす。
息を吸うたびに胸が高鳴った。
誰にも見つからない。
誰にも止められない。
ただそれだけで、胸の奥が少しずつ軽くなっていく。
(少しだけでいい。自分の足で、歩きたい)
バスが来る。
静かな車内の窓際に座り、流れていく街を見つめる。
ネオンの光がガラスに滲んで、夢の中のようだった。
誰かに連れて行かれるのではなく、自分の意思で動いている。
その事実が、どんな薬よりも心を軽くした。
終点の2つ手前で降りる。
夜の繁華街は、昼とは違う顔をしていた。
笑い声、音楽、甘い匂い。
それらがすべて、眩しくて、愛おしかった。
(こういう夜、ずっと憧れてた)
立ち止まることさえ惜しくて、ただ歩いた。
何かを買うわけでもなく、どこかに立ち寄るわけでもなく。
“誰の許可もいらない時間”の中を、ひとりで歩いている。
それだけで十分だった。
――けれど、自由は長くは続かなかった。
夜気がじわりと重くなり、息を吸うたびに胸の奥が軋んだ。
胸の奥がざわつき、心臓の鼓動が速まる。
体の内側で、何かがずれていくような感覚。
(……あれ? ちょっと、苦しい……?)
立ち止まって、深呼吸をしようとしても、うまく吸えない。
湿った空気が肺を押し返す。
足取りが乱れ、視界が揺れた。
(………薬…)
――持っていない。
最近は奏一に管理を任せていた。
スマホも、ない。
助けを呼ぶ手段は、何ひとつなかった。
「っ……は……ぁ……ぅ、くるし……っ……」
声にならない息が喉を擦る。
額の汗が頬を伝い、指先から力が抜けていく。
それでも数歩、足を前に出した。
どうしても、もう少しだけ“自分の自由”を歩きたかった。
けれど、身体は限界を越えていた。
膝が折れ、視界が暗く沈む。
雑踏の中。
誰かが驚いた声を上げる。
「ちょっと、大丈夫!? 誰か、救急車!」
そして――琴葉の意識は、ふっと闇の中へと沈んでいった。
「患者、女性19歳。路上で意識喪失。呼吸浅く、心拍低下。
先天性心疾患あり。ヘルプマークに主治医名と病院記載――搬送先、指定病院です。お願いします」
無線の声が病院に届いた瞬間、当直室の奏一はペンを止めた。
聞き慣れた名が呼ばれる。
「……白崎琴葉、ですか」
胸の奥で何かが軋む。
それでも、すぐに声を整えた。
「受け入れます。ICUを確保。前回データを出してください」
白衣を翻し、救急搬入口へ駆ける。
ストレッチャーが滑り込む音、消毒液の匂い、モニターの警告音。
そのすべてが、やけに遠くに聞こえた。
酸素マスク越しに見える彼女の顔は、驚くほど白い。
細い指先は冷たく、胸の動きはかすかに上下しているだけ。
「バイタルは?」
「心拍60台。血圧下降傾向。SpO₂82です」
奏一の表情がわずかに歪む。
けれど、すぐに医者の顔に戻る。
「アドレナリンを。酸素流量も少しずつ上げてください。
血ガス結果を見て、必要ならCPAP導入を」
声は冷静で、手は震えなかった。
けれど、心の奥では確かに血の気が引いていくのを感じていた。
それでも、目の前の命を必死に“守る”ことだけに集中する。
それが今の彼にできる、唯一のことだった。
処置が終わり、琴葉はICUへと移された。
心拍は持ち直したものの、意識は戻らない。
モニターの音が、静寂の中で律動を刻む。
夜更け、誰もいないICU。
奏一は、眠る彼女のそばに腰を下ろした。
細い指先に、自分の手をそっと重ねる。
冷たさは薄れ、かすかな熱が戻ってきていた。
「……馬鹿ですね、あなたは……」
責める声でもなく、怒りでもない。
ほとんど祈るような、かすかな響きだった。
「君を守りたいと思っていました。それだけが、私の正しさだと信じていた」
静かに息を吐く。
「けれど気づけば――君が嫌がっていた、ご両親と同じことをしていたんですね」
口にした瞬間、胸の奥に重たいものが沈む。
「危ないから、心配だからと、君の世界を狭めてしまった。
それが愛情だと思っていたのに……結果は、これです」
分かっていた。
分かっていたのに、守ることを優先して、何も与えてあげられなかった。
指先に力が入る。
それでも彼女は眠ったままだ。
「……お願いですから、もう勝手に消えようとしないでください」
そう囁いた声は、ひどくかすれていた。
モニターの電子音だけが、彼の沈黙を代わりに埋めていた。
奏一が病院へ戻ってから、まだ1時間も経っていなかった。
静まり返った部屋の扉が、そっと開く。
出ていく少女の手には、小さなバッグ。
その中に入れたのは、財布と保険証だけ。
――スマートフォンは置いてきた。
位置情報が追跡されるのが分かっていたから。
夜風が頬を撫でる。
湿気を含んだ初夏の空気は重たいはずなのに、不思議と心地よかった。
(……やっと、外に出られた)
バス停へ向かう道。
街灯の淡い光が足元を照らす。
息を吸うたびに胸が高鳴った。
誰にも見つからない。
誰にも止められない。
ただそれだけで、胸の奥が少しずつ軽くなっていく。
(少しだけでいい。自分の足で、歩きたい)
バスが来る。
静かな車内の窓際に座り、流れていく街を見つめる。
ネオンの光がガラスに滲んで、夢の中のようだった。
誰かに連れて行かれるのではなく、自分の意思で動いている。
その事実が、どんな薬よりも心を軽くした。
終点の2つ手前で降りる。
夜の繁華街は、昼とは違う顔をしていた。
笑い声、音楽、甘い匂い。
それらがすべて、眩しくて、愛おしかった。
(こういう夜、ずっと憧れてた)
立ち止まることさえ惜しくて、ただ歩いた。
何かを買うわけでもなく、どこかに立ち寄るわけでもなく。
“誰の許可もいらない時間”の中を、ひとりで歩いている。
それだけで十分だった。
――けれど、自由は長くは続かなかった。
夜気がじわりと重くなり、息を吸うたびに胸の奥が軋んだ。
胸の奥がざわつき、心臓の鼓動が速まる。
体の内側で、何かがずれていくような感覚。
(……あれ? ちょっと、苦しい……?)
立ち止まって、深呼吸をしようとしても、うまく吸えない。
湿った空気が肺を押し返す。
足取りが乱れ、視界が揺れた。
(………薬…)
――持っていない。
最近は奏一に管理を任せていた。
スマホも、ない。
助けを呼ぶ手段は、何ひとつなかった。
「っ……は……ぁ……ぅ、くるし……っ……」
声にならない息が喉を擦る。
額の汗が頬を伝い、指先から力が抜けていく。
それでも数歩、足を前に出した。
どうしても、もう少しだけ“自分の自由”を歩きたかった。
けれど、身体は限界を越えていた。
膝が折れ、視界が暗く沈む。
雑踏の中。
誰かが驚いた声を上げる。
「ちょっと、大丈夫!? 誰か、救急車!」
そして――琴葉の意識は、ふっと闇の中へと沈んでいった。
「患者、女性19歳。路上で意識喪失。呼吸浅く、心拍低下。
先天性心疾患あり。ヘルプマークに主治医名と病院記載――搬送先、指定病院です。お願いします」
無線の声が病院に届いた瞬間、当直室の奏一はペンを止めた。
聞き慣れた名が呼ばれる。
「……白崎琴葉、ですか」
胸の奥で何かが軋む。
それでも、すぐに声を整えた。
「受け入れます。ICUを確保。前回データを出してください」
白衣を翻し、救急搬入口へ駆ける。
ストレッチャーが滑り込む音、消毒液の匂い、モニターの警告音。
そのすべてが、やけに遠くに聞こえた。
酸素マスク越しに見える彼女の顔は、驚くほど白い。
細い指先は冷たく、胸の動きはかすかに上下しているだけ。
「バイタルは?」
「心拍60台。血圧下降傾向。SpO₂82です」
奏一の表情がわずかに歪む。
けれど、すぐに医者の顔に戻る。
「アドレナリンを。酸素流量も少しずつ上げてください。
血ガス結果を見て、必要ならCPAP導入を」
声は冷静で、手は震えなかった。
けれど、心の奥では確かに血の気が引いていくのを感じていた。
それでも、目の前の命を必死に“守る”ことだけに集中する。
それが今の彼にできる、唯一のことだった。
処置が終わり、琴葉はICUへと移された。
心拍は持ち直したものの、意識は戻らない。
モニターの音が、静寂の中で律動を刻む。
夜更け、誰もいないICU。
奏一は、眠る彼女のそばに腰を下ろした。
細い指先に、自分の手をそっと重ねる。
冷たさは薄れ、かすかな熱が戻ってきていた。
「……馬鹿ですね、あなたは……」
責める声でもなく、怒りでもない。
ほとんど祈るような、かすかな響きだった。
「君を守りたいと思っていました。それだけが、私の正しさだと信じていた」
静かに息を吐く。
「けれど気づけば――君が嫌がっていた、ご両親と同じことをしていたんですね」
口にした瞬間、胸の奥に重たいものが沈む。
「危ないから、心配だからと、君の世界を狭めてしまった。
それが愛情だと思っていたのに……結果は、これです」
分かっていた。
分かっていたのに、守ることを優先して、何も与えてあげられなかった。
指先に力が入る。
それでも彼女は眠ったままだ。
「……お願いですから、もう勝手に消えようとしないでください」
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モニターの電子音だけが、彼の沈黙を代わりに埋めていた。
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