病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第12話・ 息をしてくれるだけで

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ぼんやりとした視界に、白く滲んだ天井が映っていた。

腕には点滴の管が繋がれ、頬には酸素マスクの感触。
一定のリズムで鳴る機械音と、薬品の匂い――
それら全てが、琴葉に“また病院に戻ってきた”という現実を告げていた。

微かに瞬きしたそのとき、静かに声が落ちてくる。

「……目が、覚めましたか」

淡く穏やかな声。
視線を向けると、白衣姿の奏一がベッド脇の椅子に座っていた。

ただ静かで、ひどく疲れているように見える。
目の下の影が、長い夜を物語っていた。

琴葉は思わず目を伏せる。

「……また、助けられたんだ」

掠れた声で呟く。
乾いた喉が痛みを訴え、息を吸うたび胸の奥が軋んだ。
そのまま目を逸らし、天井を見つめる。

奏一は無言で立ち上がり、水の入ったコップを用意して差し出す。

「少しずつで構いません。喉を潤してください」

受け取ろうと伸ばした手が震え、表面の水が揺れる。
その瞬間、奏一の手がそっと琴葉の手を支えた。

奏一の手は、冷たくも、温かすぎることもなく――ただ、静かな体温を持っていた。

一口、喉を通った水が身体に沁みていく。
コップを置くと、奏一が静かに問いかけた。

「……どうして、あんなことを」

声に責める響きはない。
だからこそ、胸の奥にじわりと痛みが広がった。

「……どうしてって……」

琴葉はゆっくりとまぶたを伏せる。
何から話せばいいのかわからなかった。

「全部……嫌になったの」

「……何が、ですか」

「……この身体。何も思い通りにならない。
やりたいこともできない。出かけることも、遊ぶことも、友達を作ることも、恋も……何ひとつ、普通にできない」

乾いた声が、静かな空気に落ちる。
涙は出ない。ただ、心がすり減っていた。

「どうせ、長くは生きられないんでしょ? 
だったらせめて、好きなように生きたかった。誰にも縛られずに……自由に」

そこで言葉が詰まる。
しばらくの沈黙のあと、小さく続けた。

「……管理されて、生かされているだけって、思っちゃったの。
何のために生きてるのか、わからなくなった……」

その声は、深い諦めの色を帯びている。

奏一は、それを遮らなかった。
否定せず、逸らすこともなく、ただ静かに受け止めるように、彼女を見ていた。

「私は、あなたを責めません」

やがて口を開いたその声は、穏やかで真っ直ぐだった。

「ただ、あなたが生きている――それだけで、私は救われているんです」

その一言に、琴葉の指先が、かすかに震えた。

「あなたに、無理をさせるつもりはありません。ただ……願わくば、もう少しだけ、私のそばにいてほしい」

――あなたが、息をしているだけで、私は生きていけるから。

そう言いかけて、奏一は言葉を飲み込む。
それは、彼女に押しつけてはいけない想いだった。

だから代わりに、そっと琴葉の手の上に自分の手を重ねる。

琴葉は、なにも言わなかった。
けれど、その静かな温もりが、ほんの少しだけ、凍った胸の奥を溶かしていた。


翌日ー。
個室に移動した琴葉は、白く静かな天井を見上げながら、ゆっくりと深呼吸をしていた。

心臓の鼓動は落ち着いていて、脈拍も安定している。
ベッド脇のテーブルに置かれた朝食は、7割ほど食べ終えていた。

「今日は午前中に心エコーと心電図。あとは採血があります。検査が終わったら少しだけ歩いてみましょう」

奏一の声は、いつもと変わらず穏やかだった。

「……うん、わかった」

琴葉は短く答える。
顔色は戻りつつあったが、目の焦点はまだ少し遠い。

やがてすべての検査が終わり、病室に戻ったころ。
ドアの向こうから、控えめなノック音が響いた。

「白崎さん、お母様が来られました。ご案内してもよろしいですか?」

看護師の声に、琴葉はピクリとまつ毛を震わせた。

「あ……はい、大丈夫です……」

そう答えながらも、視線を逸らしたまま。
開いた扉の向こうに立っていたのは、緊張した面持ちの母だった。

「……琴葉」

名を呼ぶ声に、琴葉は「うん」とだけ答えたが、視線は合わせない。

母はぎこちなく部屋に入り、そして奏一に深々と頭を下げた。

「遠野先生……本当に申し訳ありませんでした。
この子が勝手なことをして倒れて……救急搬送までされて……多大なご迷惑をおかけしてしまい……」

声がかすかに震えていた。
昨夜、奏一から連絡を受けたときの衝撃がまだ抜けきっていないのだろう。

事情をすべて聞いたうえで、なおこうして頭を下げに来る母の姿は、その胸の痛みと後悔が滲んでいた。

奏一は一歩前に出て、静かに首を振る。

「いいえ……謝らないでください。
私の方こそ、信頼して任せていただいたのに、彼女の心の悲鳴に気づくことができなかった。
……医者としても、男としても、不甲斐なく思っています」

母が小さく息を呑む。
奏一の瞳は、穏やかでありながら、深い痛みを湛えていた。

「これは“予見できたこと”です。彼女の心が追い詰められていた証拠でもあります。
今はもう少しだけ、休ませてあげてください」

その言葉に、母ははっとしたように琴葉を見た。
だが、琴葉は黙ったまま、毛布の端を指先でなぞっている。

「……帰るわね。ごめんなさい。……また来るから」

それだけを残し、母はもう一度奏一に頭を下げ、静かに病室をあとにした。

ドアが閉まり、静寂が満ちる。

「……」

「……」

やがて、ベッドの上で布団を引き寄せながら、琴葉がぽつりと呟いた。

「……怒られると思ったのに」

「怒られる理由はありません。……あなたが感じていたことを、私は否定しません」

その声は、どこまでも穏やかで、静かだった。
けれどその奥に、確かな痛みが揺れているのを、琴葉は感じていた。
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