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第10話・静かな決意
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終業時刻が近づく頃には、オフィスの空気が少し緩んでいた。
それでも私は、自分のデスクでずっと迷っていた。
(今、言おう。――いや、でも)
手は止まっているのに、仕事のふりをしてキーボードを叩いていた。
崇雅は、いつものように静かにデスクに向かっている。
でも、私にはわかっていた。
“何も変わらない”ように見せながら、あの人は確かに、私のために動いてくれていた。
それが業務上の配慮だったとしても――私は、その優しさに救われた。
(伝えなきゃ。ちゃんと、私の気持ちを)
深呼吸をしてから、意を決して立ち上がった。
部長席へ向かうと、崇雅はちょうど何かの資料に目を通していた。
視線を感じたのか、ふと顔を上げる。
「……少し、お時間いただけますか?」
「…ああ」
変わらない口調と無表情。
でも、歩調を私に合わせる足取りは、どこか優しかった。
誰もいない小さな会議室。
扉が閉まると、外のざわめきは一気に遠ざかる。
静かな空気の中で、私は真っすぐに彼の前に立った。
「以前、退職の意向をお伝えしましたが……」
声が少し震えた。
でも、目をそらさずに続ける。
「……やっぱり、もう少し、ここで頑張りたいです」
言い終わった瞬間、胸の奥で何かがほどけたような気がした。
崇雅は、一瞬だけ目を伏せてから、静かに頷いた。
「そうか」
たったそれだけ。
でも、その声には、確かに安堵が滲んでいた。
「人事には、何も伝えていない。君からの言葉を待つつもりだった」
驚きと、少しの呆れが混ざった息が漏れた。
「……そうだったんですね」
「簡単に辞められては困る。それだけの話だ」
言い方は素っ気ないのに、心に刺さる。
私の知らないところで、彼はずっと“引き留めて”いてくれた。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げると、崇雅はわずかに眉を寄せた。
「もう、辞めるなんて言うな」
低く、けれど確かな声だった。
その一言に、喉の奥が熱くなる。
「はい……」
それだけ返すのが精一杯だった。
外に出ると、オフィスの灯りが少しずつ消え始めていた。
世界は何も変わっていないのに、私の中だけが、静かに動いている。
“ここにいたい”と思えるようになったのは、
あの人が言葉ではなく行動で、私の気持ちに寄り添ってくれたから。
それをちゃんと伝えられたことが、何よりも大きな一歩だった。
——————
退職の意向を告げられたあの日から、
俺は――何も、していないように見せていた。
だが実際は、毎日が綱渡りだった。
人事には何も伝えていない。
退職届を出すようにも促さなかった。
今の彼女に“背中を押す言葉”など、俺は持ち合わせていない。
だから、黙って待った。
俺から無理に繋ぎ止めても意味がない。
彼女の意思で残ると決めなければ、いずれまた離れていくだけだとわかっていたから。
ただ、
“辞めないための環境”は、できる限り整えた。
無理のない業務配分。
精神的に負担となっていたクライアントの調整。
押し付けられそうな仕事は、気づいた段階で他に振った。
それを彼女が気づいていたかどうかは、わからない。
けれど、願わくば伝わっていてほしいと思った。
夕方、彼女がデスクから立ち上がったとき、俺はすぐに気づいた。
「……あの、少しお時間いただけますか」
その声音で、すべてを察した。
無理に装っているけれど、彼女の目はいつもより真っ直ぐで――
俺は、その勇気を受け止める準備をした。
会議室に入り、扉を閉める。
一拍の沈黙のあと、彼女の口から言葉が落ちた。
「……やっぱり、もう少し、ここで頑張りたいです」
その瞬間、胸の奥が静かに揺れた。
それがどれほどの決断だったか。
俺には、わかる。
自分の意思で「残りたい」と言ってくれたこと。
その言葉だけで、どれだけ報われたか――
「そうか」
それ以上、何も言葉が出てこなかった。
感情が先に動き、理性が追いつかない。
こんなにも不器用な自分を、恥ずかしいと思う余裕すらなかった。
「人事には、何も伝えていない。君からの言葉を待つつもりだった」
それだけは、どうしても伝えておきたかった。
彼女の選択を、誰よりも尊重したかった。
――ただの上司としての言い訳だったとしても。
「もう、辞めるなんて言うな」
言葉が零れたのは、気づいたときにはもう遅かった。
自分でも驚くほど、感情がこもっていた。
彼女は目を見開き、それから静かに頷いた。
「はい……」
その一言に、ようやく息ができた。
彼女はここに残る。
その事実だけで、世界が少しだけ柔らかく見えた。
けれど、
“ここに残った”という事実が、
俺の中の感情をさらに手放せなくしていくのだと――
このときは、まだ気づいていなかった。
それでも私は、自分のデスクでずっと迷っていた。
(今、言おう。――いや、でも)
手は止まっているのに、仕事のふりをしてキーボードを叩いていた。
崇雅は、いつものように静かにデスクに向かっている。
でも、私にはわかっていた。
“何も変わらない”ように見せながら、あの人は確かに、私のために動いてくれていた。
それが業務上の配慮だったとしても――私は、その優しさに救われた。
(伝えなきゃ。ちゃんと、私の気持ちを)
深呼吸をしてから、意を決して立ち上がった。
部長席へ向かうと、崇雅はちょうど何かの資料に目を通していた。
視線を感じたのか、ふと顔を上げる。
「……少し、お時間いただけますか?」
「…ああ」
変わらない口調と無表情。
でも、歩調を私に合わせる足取りは、どこか優しかった。
誰もいない小さな会議室。
扉が閉まると、外のざわめきは一気に遠ざかる。
静かな空気の中で、私は真っすぐに彼の前に立った。
「以前、退職の意向をお伝えしましたが……」
声が少し震えた。
でも、目をそらさずに続ける。
「……やっぱり、もう少し、ここで頑張りたいです」
言い終わった瞬間、胸の奥で何かがほどけたような気がした。
崇雅は、一瞬だけ目を伏せてから、静かに頷いた。
「そうか」
たったそれだけ。
でも、その声には、確かに安堵が滲んでいた。
「人事には、何も伝えていない。君からの言葉を待つつもりだった」
驚きと、少しの呆れが混ざった息が漏れた。
「……そうだったんですね」
「簡単に辞められては困る。それだけの話だ」
言い方は素っ気ないのに、心に刺さる。
私の知らないところで、彼はずっと“引き留めて”いてくれた。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げると、崇雅はわずかに眉を寄せた。
「もう、辞めるなんて言うな」
低く、けれど確かな声だった。
その一言に、喉の奥が熱くなる。
「はい……」
それだけ返すのが精一杯だった。
外に出ると、オフィスの灯りが少しずつ消え始めていた。
世界は何も変わっていないのに、私の中だけが、静かに動いている。
“ここにいたい”と思えるようになったのは、
あの人が言葉ではなく行動で、私の気持ちに寄り添ってくれたから。
それをちゃんと伝えられたことが、何よりも大きな一歩だった。
——————
退職の意向を告げられたあの日から、
俺は――何も、していないように見せていた。
だが実際は、毎日が綱渡りだった。
人事には何も伝えていない。
退職届を出すようにも促さなかった。
今の彼女に“背中を押す言葉”など、俺は持ち合わせていない。
だから、黙って待った。
俺から無理に繋ぎ止めても意味がない。
彼女の意思で残ると決めなければ、いずれまた離れていくだけだとわかっていたから。
ただ、
“辞めないための環境”は、できる限り整えた。
無理のない業務配分。
精神的に負担となっていたクライアントの調整。
押し付けられそうな仕事は、気づいた段階で他に振った。
それを彼女が気づいていたかどうかは、わからない。
けれど、願わくば伝わっていてほしいと思った。
夕方、彼女がデスクから立ち上がったとき、俺はすぐに気づいた。
「……あの、少しお時間いただけますか」
その声音で、すべてを察した。
無理に装っているけれど、彼女の目はいつもより真っ直ぐで――
俺は、その勇気を受け止める準備をした。
会議室に入り、扉を閉める。
一拍の沈黙のあと、彼女の口から言葉が落ちた。
「……やっぱり、もう少し、ここで頑張りたいです」
その瞬間、胸の奥が静かに揺れた。
それがどれほどの決断だったか。
俺には、わかる。
自分の意思で「残りたい」と言ってくれたこと。
その言葉だけで、どれだけ報われたか――
「そうか」
それ以上、何も言葉が出てこなかった。
感情が先に動き、理性が追いつかない。
こんなにも不器用な自分を、恥ずかしいと思う余裕すらなかった。
「人事には、何も伝えていない。君からの言葉を待つつもりだった」
それだけは、どうしても伝えておきたかった。
彼女の選択を、誰よりも尊重したかった。
――ただの上司としての言い訳だったとしても。
「もう、辞めるなんて言うな」
言葉が零れたのは、気づいたときにはもう遅かった。
自分でも驚くほど、感情がこもっていた。
彼女は目を見開き、それから静かに頷いた。
「はい……」
その一言に、ようやく息ができた。
彼女はここに残る。
その事実だけで、世界が少しだけ柔らかく見えた。
けれど、
“ここに残った”という事実が、
俺の中の感情をさらに手放せなくしていくのだと――
このときは、まだ気づいていなかった。
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