39 / 168
第37話・“恋人として”怒られた夜
しおりを挟む
診察室の中は、白く静かで、機械の音が淡々と響いていた。
澪は崇雅に付き添われながら椅子に腰かけ、
医師の問いかけに答えていく。
「喉の腫れ、ひどいですね。咳は?痰は出てますか?」
「……咳は少しだけ……痰は、あまり……」
「熱は38度台の後半。おそらく、ウイルス性の急性上気道炎ですね。しっかり休養を取らないと長引きます」
医師の言葉に、澪は少し俯く。
「……でも、仕事が立て込んでいて……明日も……」
「少なくとも明日は休んだほうがいいでしょう。高熱のまま仕事に行けば、重症化するリスクもあります」
「……」
言い淀んだ澪の横で、崇雅が一歩前に出る。
「診断書をお願いします。本人は明日、会社を休ませます」
医師は頷き、手際よく処方箋とともに診断書を準備する。
澪は何も言わなかった。
言えなかった。
その声音に、逆らえる余地がなかった。
診察室を出て薬局に寄り、処方薬を受け取ったあと、
車に戻った時点で時刻は20時近くとなっていた。
車内に乗り込んだ直後、崇雅はドアを閉め、深く息を吐いた。
「……正直、怒ってる」
その低い声に、澪の指がぴくりと動く。
「……ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃない。……倒れるまで気づかせなかったことに、腹が立ってる」
「……っ」
「澪が無理をするのはわかってた。
だが、それを黙って“平気なふり”で押し通されたら、俺は気づけない」
言葉の一つひとつは冷静なのに、
どこか滲むのは焦りと、怖さと、悔しさだった。
——守りたかったのに、守れなかった。
その事実に、崇雅自身が苦しんでいることが、澪には痛いほど伝わってきた。
「……怖かったんです」
澪は小さな声で、静かに言った。
「……仕事、うまくいってたから。迷惑かけたくなくて、崇雅さんに……失望されたくなくて」
「そんなことで俺の気持ちは揺がない」
「……でも、私、自信なかったんです。役に立ててるのか、ずっと……」
「——役に立ってないどころか、今日の澪がいなかったら、プロジェクトは潰れてた」
「……」
「だが、澪が倒れたら、同じことだ」
崇雅は、ゆっくりとハンドルに手を添えた。
「……今日だけは、恋人として怒る。だから黙って聞いていろ」
その言葉には、いつもの理性だけではない、揺るぎない感情が宿っていた。
澪を責める言葉なのに、そこにあるのは“怒り”じゃない。
ただただ、崩れていく澪を守れなかったことへの悔しさと、
もう二度とそんな思いをしたくないという、必死な願いだった。
澪は、黙って頷いた。
優しさに守られすぎるのが怖くて。
でも、本気で怒ってくれる人がいるということが、
こんなにも心を温かくするなんて——知らなかった。
やがて車が動き出し、しばらくの沈黙のあと、信号待ちのタイミングで、澪はそっと口を開いた。
「……ありがとうございました。私、もう大丈夫なので……駅まで送ってもらえれば」
助手席に座ったまま、そう言った澪に、
運転席の崇雅は一度だけ前を見たまま静かに答えた。
「熱もあって悪化してるのに、ひとりにするわけないだろう」
「でも……」
「うちに来い。ベッドは貸す。しっかり休め」
そう言ってナビを操作する手に、迷いはなかった。
澪はそれ以上何も言えず、小さく頷いた。
崇雅の家に行くのは、これが初めてだった。
マンションに着くと、オートロックの扉を開けて中に入る。
エレベーターで上階へ。
整然とした無駄のない空間に、澪は少しだけ緊張した。
「……きれいにしてるんですね」
「最低限な。……ソファに座ってろ」
澪がソファに腰を下ろすと、崇雅は寝室へ消えた。
数分後、戻ってきた彼の手には、Tシャツとスウェットのセット。
「これ、着替え。スーツのままよりマシだ」
「……えっ、これ……」
「俺のでサイズは合わないだろうが、楽な方がいい」
そう言って澪の膝に置かれた服は、
いつもの崇雅の香りがほのかに残っていて、
手に取るだけで、胸が少しだけあたたかくなった。
「……ありがとうございます」
澪はそっと立ち上がり、洗面所を借りて着替える。
袖は長く、裾も大きめでブカブカだけど、
柔らかくて、安心できる匂いがした。
(……すごく落ち着く)
着替えを終えてリビングに戻ると、
崇雅がキッチンで何かを温めていた。
「ソファで横になってろ。薬は食事のあとだ」
「……はい」
澪は言われたまま、ソファでブランケットをかけて横になる。
熱でまだ身体はだるいはずなのに、
心だけが妙に静かだった。
(ちゃんと、守ってくれてる)
そんな確かな感覚が、今の澪には一番の薬だった。
澪は崇雅に付き添われながら椅子に腰かけ、
医師の問いかけに答えていく。
「喉の腫れ、ひどいですね。咳は?痰は出てますか?」
「……咳は少しだけ……痰は、あまり……」
「熱は38度台の後半。おそらく、ウイルス性の急性上気道炎ですね。しっかり休養を取らないと長引きます」
医師の言葉に、澪は少し俯く。
「……でも、仕事が立て込んでいて……明日も……」
「少なくとも明日は休んだほうがいいでしょう。高熱のまま仕事に行けば、重症化するリスクもあります」
「……」
言い淀んだ澪の横で、崇雅が一歩前に出る。
「診断書をお願いします。本人は明日、会社を休ませます」
医師は頷き、手際よく処方箋とともに診断書を準備する。
澪は何も言わなかった。
言えなかった。
その声音に、逆らえる余地がなかった。
診察室を出て薬局に寄り、処方薬を受け取ったあと、
車に戻った時点で時刻は20時近くとなっていた。
車内に乗り込んだ直後、崇雅はドアを閉め、深く息を吐いた。
「……正直、怒ってる」
その低い声に、澪の指がぴくりと動く。
「……ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃない。……倒れるまで気づかせなかったことに、腹が立ってる」
「……っ」
「澪が無理をするのはわかってた。
だが、それを黙って“平気なふり”で押し通されたら、俺は気づけない」
言葉の一つひとつは冷静なのに、
どこか滲むのは焦りと、怖さと、悔しさだった。
——守りたかったのに、守れなかった。
その事実に、崇雅自身が苦しんでいることが、澪には痛いほど伝わってきた。
「……怖かったんです」
澪は小さな声で、静かに言った。
「……仕事、うまくいってたから。迷惑かけたくなくて、崇雅さんに……失望されたくなくて」
「そんなことで俺の気持ちは揺がない」
「……でも、私、自信なかったんです。役に立ててるのか、ずっと……」
「——役に立ってないどころか、今日の澪がいなかったら、プロジェクトは潰れてた」
「……」
「だが、澪が倒れたら、同じことだ」
崇雅は、ゆっくりとハンドルに手を添えた。
「……今日だけは、恋人として怒る。だから黙って聞いていろ」
その言葉には、いつもの理性だけではない、揺るぎない感情が宿っていた。
澪を責める言葉なのに、そこにあるのは“怒り”じゃない。
ただただ、崩れていく澪を守れなかったことへの悔しさと、
もう二度とそんな思いをしたくないという、必死な願いだった。
澪は、黙って頷いた。
優しさに守られすぎるのが怖くて。
でも、本気で怒ってくれる人がいるということが、
こんなにも心を温かくするなんて——知らなかった。
やがて車が動き出し、しばらくの沈黙のあと、信号待ちのタイミングで、澪はそっと口を開いた。
「……ありがとうございました。私、もう大丈夫なので……駅まで送ってもらえれば」
助手席に座ったまま、そう言った澪に、
運転席の崇雅は一度だけ前を見たまま静かに答えた。
「熱もあって悪化してるのに、ひとりにするわけないだろう」
「でも……」
「うちに来い。ベッドは貸す。しっかり休め」
そう言ってナビを操作する手に、迷いはなかった。
澪はそれ以上何も言えず、小さく頷いた。
崇雅の家に行くのは、これが初めてだった。
マンションに着くと、オートロックの扉を開けて中に入る。
エレベーターで上階へ。
整然とした無駄のない空間に、澪は少しだけ緊張した。
「……きれいにしてるんですね」
「最低限な。……ソファに座ってろ」
澪がソファに腰を下ろすと、崇雅は寝室へ消えた。
数分後、戻ってきた彼の手には、Tシャツとスウェットのセット。
「これ、着替え。スーツのままよりマシだ」
「……えっ、これ……」
「俺のでサイズは合わないだろうが、楽な方がいい」
そう言って澪の膝に置かれた服は、
いつもの崇雅の香りがほのかに残っていて、
手に取るだけで、胸が少しだけあたたかくなった。
「……ありがとうございます」
澪はそっと立ち上がり、洗面所を借りて着替える。
袖は長く、裾も大きめでブカブカだけど、
柔らかくて、安心できる匂いがした。
(……すごく落ち着く)
着替えを終えてリビングに戻ると、
崇雅がキッチンで何かを温めていた。
「ソファで横になってろ。薬は食事のあとだ」
「……はい」
澪は言われたまま、ソファでブランケットをかけて横になる。
熱でまだ身体はだるいはずなのに、
心だけが妙に静かだった。
(ちゃんと、守ってくれてる)
そんな確かな感覚が、今の澪には一番の薬だった。
120
あなたにおすすめの小説
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―
七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。
彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』
実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。
ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。
口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。
「また来る」
そう言い残して去った彼。
しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。
「俺専属の嬢になって欲しい」
ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。
突然の取引提案に戸惑う優美。
しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。
恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。
立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。
冷徹社長の「契約」シンデレラ~一夜の過ちから始まる溺愛ルート!? 嘘つきな私と不器用な御曹司のオフィスラブ~
藤森瑠璃香
恋愛
派遣社員の桜井美月は、ある夜、会社の懇親会で泥酔し、翌朝目覚めると隣には「氷の彫刻」と恐れられる若き社長・一条蓮がいた。まさかの一夜の過ち(実際には何もなかったが、美月は勘違い)に青ざめる美月に、蓮は「責任は取る。だがこれは恋愛ではない、契約だ」と、彼の抱えるある事情のため、期間限定で恋人のフリをするよう持ちかける。破格の報酬と蓮の真剣な様子に、美月は契約を受け入れる。
定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました
藤森瑠璃香
恋愛
「お先に失礼しまーす!」がモットーの私、中堅社員の結城志穂。
そんな私の天敵は、仕事の鬼で社内では氷の王子と恐れられる完璧美男子・一条部長だ。
ある夜、忘れ物を取りに戻ったオフィスで、デスクで倒れるように眠る部長を発見してしまう。差し入れた温かいスープを、彼は疲れ切った顔で、でも少しだけ嬉しそうに飲んでくれた。
その日を境に、誰もいないオフィスでの「秘密の夜食」が始まった。
仕事では見せない、少しだけ抜けた素顔、美味しそうにご飯を食べる姿、ふとした時に見せる優しい笑顔。
会社での厳しい上司と、二人きりの時の可愛い人。そのギャップを知ってしまったら、もう、ただの上司だなんて思えない。
これは、美味しいご飯から始まる、少し大人で、甘くて温かいオフィスラブ。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)
久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。
しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。
「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」
――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。
なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……?
溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。
王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ!
*全28話完結
*辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。
*他誌にも掲載中です。
その卵焼き俺にも食わせろ!―ワンナイトラブから逃げたはずなのに、契約で縛られてました!?―
鷹槻れん
恋愛
新沼 晴永(にいぬま はるなが/36)は俺様上司として恐れられる鬼課長。
そんな彼に毎日のように振り回されるのが、犬猿の仲(だと彼女が勝手に思っている)部下の小笹 瑠璃香(こざさ るりか/28)だ。
飲み会の夜、酔ってふにゃふにゃになった瑠璃香を晴永がまんまと持ち帰り――翌朝待っていたのはワンナイトの証拠と契約結婚の書類!?
晴永には逃げようとする瑠璃香を逃がすつもりはないらしい!?
笑いと誤解と契約の、ドタバタラブコメディ!
○表紙絵は市瀬雪さんに依頼しました♥(作品シェア以外での無断転載など固くお断りします)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる