【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第60話・逃がさない、優しさで

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マンションに戻ると、崇雅は無言で靴を脱ぎ、そのままバスルームへ向かう。
静かに湯温を確かめ、給湯のボタンを押すと、湯が張られる音が室内に満ちていった。

リビングに戻ってきた崇雅は、澪の前で立ち止まり、真っすぐ見下ろして言う。

「脱げ」

「……え?」

「スーツ。その右手じゃ無理だろ」

言葉はぶっきらぼうだったが、そこに戸惑いはなかった。
崇雅は澪の前にしゃがみ込み、ジャケットのボタンに手をかける。
澪は咄嗟に抵抗しようとしたが、崇雅は澪の視線を逃がさずに言う。

「もう目を離さない。……澪が、逃げないように」

低く静かなその声に、澪の動きが止まる。
優しさだけではない。
確かにそこには、崇雅の“執着”があった。

ブラウスのボタンをひとつずつ外しながら、固定された右腕を慎重に袖口から抜く。
その手付きは無駄がなく冷静で、なのに肌に触れるたび、澪の呼吸が浅くなる。

「今日の服は、俺のと一緒にクリーニングに出しておく」

そう言って、脱がせたスーツを丁寧に畳み、袋に入れていく。
その手際の良さが、かえって心をざわつかせた。

「右腕は濡らさないように処理しよう。……風呂は俺も一緒に入る」

「……えっ」

驚いた声に、崇雅は表情を変えずに言った。

「必要だろ。片手じゃうまく洗えないし、湯船でもバランスを崩す。
それに……目を離したくない」

その最後の一言に、澪は押し黙ったまま、小さく頷く。
拒む理由なんて、もうどこにもなかった。

崇雅は再びバスルームに行き、固定部分を保護するカバーを取り出して、右腕に丁寧に装着していく。

「大丈夫。濡らさない。……俺に任せろ」

いつもと同じ、低く落ち着いた声。
けれど、そこには確かに澪だけに向けられた優しさが滲んでいた。

やがて、湯の音が止まる。

崇雅はバスルームのドアを開け、澪の腰にそっと手を添えた。

「行こう」


湯気の立ちこめるバスルーム。
静かに響くシャワーの音が、肌と心にしみ込んでいく。

崇雅は黙ったまま、澪の背中にそっと手を伸ばし、優しく泡を滑らせていく。
無駄な動きは一切ない。
ただ、必要な動作だけを丁寧に、確実にこなしていく。

澪も何も言わなかった。
口を開けば、何かが壊れてしまいそうで、ただ静かに俯いたまま。

右腕は防水カバーで覆われている。
その存在が、自分の“無力さ”を現実として突きつけてくるようだった。

(……ひとりで、ちゃんとやっていけるって思ってたのに)

そう思った瞬間、崇雅の指先が泡を流すように首筋をなぞる。
わずかに肩が跳ねたが、崇雅は何も言わず、動作を止めなかった。

やがて、湯船に並んで腰を下ろす。
浴槽の中、肌がかすかに触れ合う距離。

それでも崇雅は、一度も視線を逸らさなかった。

沈黙のまま、しばらく湯に浸かっていたとき、
ふいに、ぽつりと声が落ちた。

「……もう、ひとりにしない」

問いかけでも、宣言でもない。
ただ、静かに“そこにある事実“のように響いた。

澪はそっと顔を上げる。
意味をすぐに理解できたわけじゃない。
それでも、胸の奥に何かが触れて、小さく瞬きするしかなかった。

崇雅はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、澪の側にいて、ぬるんだ湯の中に、沈黙を共有していた。


バスルームを出たあとは、崇雅に手伝われながら着替えを済ませた。
湯上がりの身体にエアコンの冷気が心地よく、ふわりとした脱力感に包まれる。

「澪、こっちへ」

促されるままソファに座ると、崇雅が後ろに回り、ドライヤーを手に取る。

風を当てる角度にも、手の添え方にも、無駄がない。
澪の髪がゆっくり乾いていくにつれ、張りつめていた緊張が少しづつほぐれていく。

(どうして……こんなに優しいの)

甘やかされて、愛されているとわかっていたのに、逃げたくなる気持ちの方が勝っていた自分が、情けなくなる。

やがて髪を乾かし終えると、崇雅はすっと立ち上がった。

「晩飯は、今日はもう簡単に済ませよう」

夕食は、あらかじめ小さく切られたチキンと野菜のスープ煮、やわらかく炊かれた雑穀ごはん。
どれもスプーンひとつで食べやすく、澪の左手だけでもこぼさず口に運べるよう配慮されていた。

「……これなら、食べられます」

ほっとしたように澪が呟くと、崇雅は黙って小さく頷いた。

「……おいしいです」

ぽつりと漏らしたその言葉に、崇雅は少しだけ眉を動かしたが、それ以上は何も言わなかった。


食後の片付けを終えると、リビングはいつもの静けさを取り戻す。
だが、その空気には確かに“何かが変わった”余韻があった。

崇雅は、自分のマグカップを持って、澪の隣に腰を下ろす。
けれどすぐには何も言わず、ただ澪を見つめていた。

視線が交わる。
澪はすぐに逸らしたくなったけど、逃げなかった。

(きちんと、話さなきゃいけない)

どこかで、そう思っていた。
だから、先に口を開いたのは——澪の方だった。

「……あのときのメッセージ、読んでくれましたよね」

その言葉に、崇雅の目が細められた。
静かに、深く——確かに感情の波が揺れた。

「……ああ」

短く頷いた彼の声が、いつになく低く、重かった。
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