【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第78話・逃がさない

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お盆休みが明けてからというもの、時間はあっという間に過ぎていった。

あの数日間の静けさが嘘だったかのように、オフィスはすぐさま怒涛の日常へと戻り、
澪も崇雅も、それぞれの立場で、それぞれの責任を抱えて、朝から晩まで働き続けていた。

気づけば、季節は夏から秋へと変わっていた。

そして、ふと気づく。
(あれ? もう9月も終わる……?)

その夜も、ふたりは変わらず一緒に帰宅し、夕食と風呂を済ませたあと――
崇雅はデスクに向かいノートパソコンを開き、澪はソファに座って白湯を口にしていた。

ぼんやりと湯気を眺めながら、澪はふと思い返す。

(……右手、完治してから……どのくらい経ったんだろう)

ギプスが取れて、サポーターも外れて、リハビリも終えて――
日常生活には、もう何の支障もない。

(…もう……ひと月以上……?)

その瞬間、澪の背中に小さな冷たいものが走った。

(あれ?……私、まだ崇雅さんの家に……)

“右手が治るまで”という約束でお世話になっていたはずが、
気づけばもう、当たり前のように一緒に暮らしている。

(……これって、さすがに……ずるずる居座ってるだけなのでは……)

罪悪感と焦りがこみ上げてきて、澪はカップをそっとテーブルに置くと、ゆっくりと立ち上がった。

その動きに崇雅が即座に反応する。

「……どうした?」

「……あの、少し……話があって」

「……話?」

「あの、ごめんなさい…その……そろそろ、自宅に戻ろうかと……思ってて」

言い終えると、沈黙が落ちた。
そして次の瞬間、視界がふわりと揺れ――気づけば、澪は崇雅の膝の上に座らされていた。

「っ、え!? な、なんで……!」

「その話、ここで聞こうか」

逃げられないように抱き込まれた腕。
崇雅の表情は落ち着いていたが、その眼差しは、明らかに――逃がす気などなかった

「……急に、どうしてそう思った?」

穏やかに問われ、澪は戸惑いながらもぽつりと口を開く。

「……右手も完治してるし、もともと“治るまで”っていう約束だったので……」

「他には?」

「……私、ずっと甘えてばかりで、迷惑かけてるなって……」

「なるほど」

崇雅は頷いた。
けれど腕の力はゆるまず、むしろ少しだけ強くなる。

「……それで、出ていくって?」

「……え?」

「できる限り、澪の意志は尊重したい。
……だが」

その声色が、静かに熱を帯びていく。

「澪がこの家にいて、俺が嫌がったことなんて一度でもあったか?」

「……それは……ないですけど」

「澪がここにいることを、俺が望んでるって……知らなかったか?」

「知ってます……けど」

「だったら何も問題ない。
完治したことも、甘えてることも関係ない。――俺は、澪と一緒にいたい」

その真っ直ぐな声に、澪の胸がぎゅっと締めつけられる。

「……でも、なんか……一方的に甘えてる気がして……」

「それは前からだ。今更気にしなくていい」

「……でも……私、すごく不器用で。
毎日ボロボロで……仕事だって、手が回らなくなることもあるし……。
崇雅さんだって忙しいのに、私の分までフォローしてくれて……」

声がだんだん小さくなる。

「家のことも、食事も、全部……崇雅さんがやってくれてますし…
これって、私が重荷になってるってことなんじゃないかって……
……だったら、自宅に戻れば……少しは、崇雅さんの負担が減るんじゃないかと思って……」

言い終えたあと、俯いた澪の頭に、崇雅の手がそっと添えられた。

「……澪。俺の負担とは? 何だ?」

「……だって……私、なんにもできてないから……」

「できてる。ちゃんと、前に進んでる」

「……」

「澪は一人でやろうとしすぎる。だから苦しくなる。
俺が支えてるのは、負担でも何でもない。
……むしろ、そうやって甘えてくれる方が、安心できる」

「……でも……」

「仕事だって生活だって、全部俺がやってるように見えるなら、それは“俺がそうしたい”だけだ。
頼られるのが嫌なら、最初からやらない」

その言葉に、澪は目を見開いた。

「俺は澪が無理をして倒れるのが一番嫌だ。
だから、それを防ぐためならなんだってする。
俺のやってることは、全部俺の意思だ。澪のせいじゃない」

「……」

「むしろ、“迷惑をかけたくない”からと出て行かれる方が、よっぽどストレスだ」

「っ……」

それでもまだ迷いのある瞳を見て、崇雅は一度ゆっくり息を吐き、淡々とした声で言い切った。

「……それでも、“出て行く”と言うなら」

ぐっと腰にまわした腕の力が増す。

「“これからもここで一緒に暮らす”と言うまで、ここから降ろさない」

「えっ、崇雅さん……?」

「言わないなら、今夜中ずっとこのままだ。俺は構わない」

「……む、無茶苦茶です……」

「最初に言い出したのは澪だろう。俺は真剣に止めてるだけだ」

顔を真っ赤にしながら、澪は口をもごもごと動かし、ようやく言葉をこぼす。

「……これからも……ここで、一緒に暮らします」

その瞬間、崇雅の腕がやわらかく澪を引き寄せ、
静かに唇を重ねた。

「それでいい。ずっとここにいろ。…もう逃がさない」

耳元に落ちたその囁きは、甘く、深く、でもどこか狂おしいほどで――
澪は、ただそっと目を閉じるしかなかった。
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