80 / 168
第78話・逃がさない
しおりを挟む
お盆休みが明けてからというもの、時間はあっという間に過ぎていった。
あの数日間の静けさが嘘だったかのように、オフィスはすぐさま怒涛の日常へと戻り、
澪も崇雅も、それぞれの立場で、それぞれの責任を抱えて、朝から晩まで働き続けていた。
気づけば、季節は夏から秋へと変わっていた。
そして、ふと気づく。
(あれ? もう9月も終わる……?)
その夜も、ふたりは変わらず一緒に帰宅し、夕食と風呂を済ませたあと――
崇雅はデスクに向かいノートパソコンを開き、澪はソファに座って白湯を口にしていた。
ぼんやりと湯気を眺めながら、澪はふと思い返す。
(……右手、完治してから……どのくらい経ったんだろう)
ギプスが取れて、サポーターも外れて、リハビリも終えて――
日常生活には、もう何の支障もない。
(…もう……ひと月以上……?)
その瞬間、澪の背中に小さな冷たいものが走った。
(あれ?……私、まだ崇雅さんの家に……)
“右手が治るまで”という約束でお世話になっていたはずが、
気づけばもう、当たり前のように一緒に暮らしている。
(……これって、さすがに……ずるずる居座ってるだけなのでは……)
罪悪感と焦りがこみ上げてきて、澪はカップをそっとテーブルに置くと、ゆっくりと立ち上がった。
その動きに崇雅が即座に反応する。
「……どうした?」
「……あの、少し……話があって」
「……話?」
「あの、ごめんなさい…その……そろそろ、自宅に戻ろうかと……思ってて」
言い終えると、沈黙が落ちた。
そして次の瞬間、視界がふわりと揺れ――気づけば、澪は崇雅の膝の上に座らされていた。
「っ、え!? な、なんで……!」
「その話、ここで聞こうか」
逃げられないように抱き込まれた腕。
崇雅の表情は落ち着いていたが、その眼差しは、明らかに――逃がす気などなかった
「……急に、どうしてそう思った?」
穏やかに問われ、澪は戸惑いながらもぽつりと口を開く。
「……右手も完治してるし、もともと“治るまで”っていう約束だったので……」
「他には?」
「……私、ずっと甘えてばかりで、迷惑かけてるなって……」
「なるほど」
崇雅は頷いた。
けれど腕の力はゆるまず、むしろ少しだけ強くなる。
「……それで、出ていくって?」
「……え?」
「できる限り、澪の意志は尊重したい。
……だが」
その声色が、静かに熱を帯びていく。
「澪がこの家にいて、俺が嫌がったことなんて一度でもあったか?」
「……それは……ないですけど」
「澪がここにいることを、俺が望んでるって……知らなかったか?」
「知ってます……けど」
「だったら何も問題ない。
完治したことも、甘えてることも関係ない。――俺は、澪と一緒にいたい」
その真っ直ぐな声に、澪の胸がぎゅっと締めつけられる。
「……でも、なんか……一方的に甘えてる気がして……」
「それは前からだ。今更気にしなくていい」
「……でも……私、すごく不器用で。
毎日ボロボロで……仕事だって、手が回らなくなることもあるし……。
崇雅さんだって忙しいのに、私の分までフォローしてくれて……」
声がだんだん小さくなる。
「家のことも、食事も、全部……崇雅さんがやってくれてますし…
これって、私が重荷になってるってことなんじゃないかって……
……だったら、自宅に戻れば……少しは、崇雅さんの負担が減るんじゃないかと思って……」
言い終えたあと、俯いた澪の頭に、崇雅の手がそっと添えられた。
「……澪。俺の負担とは? 何だ?」
「……だって……私、なんにもできてないから……」
「できてる。ちゃんと、前に進んでる」
「……」
「澪は一人でやろうとしすぎる。だから苦しくなる。
俺が支えてるのは、負担でも何でもない。
……むしろ、そうやって甘えてくれる方が、安心できる」
「……でも……」
「仕事だって生活だって、全部俺がやってるように見えるなら、それは“俺がそうしたい”だけだ。
頼られるのが嫌なら、最初からやらない」
その言葉に、澪は目を見開いた。
「俺は澪が無理をして倒れるのが一番嫌だ。
だから、それを防ぐためならなんだってする。
俺のやってることは、全部俺の意思だ。澪のせいじゃない」
「……」
「むしろ、“迷惑をかけたくない”からと出て行かれる方が、よっぽどストレスだ」
「っ……」
それでもまだ迷いのある瞳を見て、崇雅は一度ゆっくり息を吐き、淡々とした声で言い切った。
「……それでも、“出て行く”と言うなら」
ぐっと腰にまわした腕の力が増す。
「“これからもここで一緒に暮らす”と言うまで、ここから降ろさない」
「えっ、崇雅さん……?」
「言わないなら、今夜中ずっとこのままだ。俺は構わない」
「……む、無茶苦茶です……」
「最初に言い出したのは澪だろう。俺は真剣に止めてるだけだ」
顔を真っ赤にしながら、澪は口をもごもごと動かし、ようやく言葉をこぼす。
「……これからも……ここで、一緒に暮らします」
その瞬間、崇雅の腕がやわらかく澪を引き寄せ、
静かに唇を重ねた。
「それでいい。ずっとここにいろ。…もう逃がさない」
耳元に落ちたその囁きは、甘く、深く、でもどこか狂おしいほどで――
澪は、ただそっと目を閉じるしかなかった。
あの数日間の静けさが嘘だったかのように、オフィスはすぐさま怒涛の日常へと戻り、
澪も崇雅も、それぞれの立場で、それぞれの責任を抱えて、朝から晩まで働き続けていた。
気づけば、季節は夏から秋へと変わっていた。
そして、ふと気づく。
(あれ? もう9月も終わる……?)
その夜も、ふたりは変わらず一緒に帰宅し、夕食と風呂を済ませたあと――
崇雅はデスクに向かいノートパソコンを開き、澪はソファに座って白湯を口にしていた。
ぼんやりと湯気を眺めながら、澪はふと思い返す。
(……右手、完治してから……どのくらい経ったんだろう)
ギプスが取れて、サポーターも外れて、リハビリも終えて――
日常生活には、もう何の支障もない。
(…もう……ひと月以上……?)
その瞬間、澪の背中に小さな冷たいものが走った。
(あれ?……私、まだ崇雅さんの家に……)
“右手が治るまで”という約束でお世話になっていたはずが、
気づけばもう、当たり前のように一緒に暮らしている。
(……これって、さすがに……ずるずる居座ってるだけなのでは……)
罪悪感と焦りがこみ上げてきて、澪はカップをそっとテーブルに置くと、ゆっくりと立ち上がった。
その動きに崇雅が即座に反応する。
「……どうした?」
「……あの、少し……話があって」
「……話?」
「あの、ごめんなさい…その……そろそろ、自宅に戻ろうかと……思ってて」
言い終えると、沈黙が落ちた。
そして次の瞬間、視界がふわりと揺れ――気づけば、澪は崇雅の膝の上に座らされていた。
「っ、え!? な、なんで……!」
「その話、ここで聞こうか」
逃げられないように抱き込まれた腕。
崇雅の表情は落ち着いていたが、その眼差しは、明らかに――逃がす気などなかった
「……急に、どうしてそう思った?」
穏やかに問われ、澪は戸惑いながらもぽつりと口を開く。
「……右手も完治してるし、もともと“治るまで”っていう約束だったので……」
「他には?」
「……私、ずっと甘えてばかりで、迷惑かけてるなって……」
「なるほど」
崇雅は頷いた。
けれど腕の力はゆるまず、むしろ少しだけ強くなる。
「……それで、出ていくって?」
「……え?」
「できる限り、澪の意志は尊重したい。
……だが」
その声色が、静かに熱を帯びていく。
「澪がこの家にいて、俺が嫌がったことなんて一度でもあったか?」
「……それは……ないですけど」
「澪がここにいることを、俺が望んでるって……知らなかったか?」
「知ってます……けど」
「だったら何も問題ない。
完治したことも、甘えてることも関係ない。――俺は、澪と一緒にいたい」
その真っ直ぐな声に、澪の胸がぎゅっと締めつけられる。
「……でも、なんか……一方的に甘えてる気がして……」
「それは前からだ。今更気にしなくていい」
「……でも……私、すごく不器用で。
毎日ボロボロで……仕事だって、手が回らなくなることもあるし……。
崇雅さんだって忙しいのに、私の分までフォローしてくれて……」
声がだんだん小さくなる。
「家のことも、食事も、全部……崇雅さんがやってくれてますし…
これって、私が重荷になってるってことなんじゃないかって……
……だったら、自宅に戻れば……少しは、崇雅さんの負担が減るんじゃないかと思って……」
言い終えたあと、俯いた澪の頭に、崇雅の手がそっと添えられた。
「……澪。俺の負担とは? 何だ?」
「……だって……私、なんにもできてないから……」
「できてる。ちゃんと、前に進んでる」
「……」
「澪は一人でやろうとしすぎる。だから苦しくなる。
俺が支えてるのは、負担でも何でもない。
……むしろ、そうやって甘えてくれる方が、安心できる」
「……でも……」
「仕事だって生活だって、全部俺がやってるように見えるなら、それは“俺がそうしたい”だけだ。
頼られるのが嫌なら、最初からやらない」
その言葉に、澪は目を見開いた。
「俺は澪が無理をして倒れるのが一番嫌だ。
だから、それを防ぐためならなんだってする。
俺のやってることは、全部俺の意思だ。澪のせいじゃない」
「……」
「むしろ、“迷惑をかけたくない”からと出て行かれる方が、よっぽどストレスだ」
「っ……」
それでもまだ迷いのある瞳を見て、崇雅は一度ゆっくり息を吐き、淡々とした声で言い切った。
「……それでも、“出て行く”と言うなら」
ぐっと腰にまわした腕の力が増す。
「“これからもここで一緒に暮らす”と言うまで、ここから降ろさない」
「えっ、崇雅さん……?」
「言わないなら、今夜中ずっとこのままだ。俺は構わない」
「……む、無茶苦茶です……」
「最初に言い出したのは澪だろう。俺は真剣に止めてるだけだ」
顔を真っ赤にしながら、澪は口をもごもごと動かし、ようやく言葉をこぼす。
「……これからも……ここで、一緒に暮らします」
その瞬間、崇雅の腕がやわらかく澪を引き寄せ、
静かに唇を重ねた。
「それでいい。ずっとここにいろ。…もう逃がさない」
耳元に落ちたその囁きは、甘く、深く、でもどこか狂おしいほどで――
澪は、ただそっと目を閉じるしかなかった。
151
あなたにおすすめの小説
【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―
七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。
彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』
実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。
ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。
口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。
「また来る」
そう言い残して去った彼。
しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。
「俺専属の嬢になって欲しい」
ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。
突然の取引提案に戸惑う優美。
しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。
恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。
立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)
久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。
しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。
「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」
――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。
なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……?
溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。
王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ!
*全28話完結
*辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。
*他誌にも掲載中です。
契約結婚のはずなのに、冷徹なはずのエリート上司が甘く迫ってくるんですが!? ~結婚願望ゼロの私が、なぜか愛されすぎて逃げられません~
猪木洋平@【コミカライズ連載中】
恋愛
「俺と結婚しろ」
突然のプロポーズ――いや、契約結婚の提案だった。
冷静沈着で完璧主義、社内でも一目置かれるエリート課長・九条玲司。そんな彼と私は、ただの上司と部下。恋愛感情なんて一切ない……はずだった。
仕事一筋で恋愛に興味なし。過去の傷から、結婚なんて煩わしいものだと決めつけていた私。なのに、九条課長が提示した「条件」に耳を傾けるうちに、その提案が単なる取引とは思えなくなっていく。
「お前を、誰にも渡すつもりはない」
冷たい声で言われたその言葉が、胸をざわつかせる。
これは合理的な選択? それとも、避けられない運命の始まり?
割り切ったはずの契約は、次第に二人の境界線を曖昧にし、心を絡め取っていく――。
不器用なエリート上司と、恋を信じられない女。
これは、"ありえないはずの結婚"から始まる、予測不能なラブストーリー。
苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」
母に紹介され、なにかの間違いだと思った。
だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。
それだけでもかなりな不安案件なのに。
私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。
「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」
なーんて義父になる人が言い出して。
結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。
前途多難な同居生活。
相変わらず専務はなに考えているかわからない。
……かと思えば。
「兄妹ならするだろ、これくらい」
当たり前のように落とされる、額へのキス。
いったい、どうなってんのー!?
三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
*****
千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
*****
表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
再会した御曹司は 最愛の秘書を独占溺愛する
猫とろ
恋愛
あらすじ
青樹紗凪(あおきさな)二十五歳。大手美容院『akai』クリニックの秘書という仕事にやりがいを感じていたが、赤井社長から大人の関係を求められて紗凪は断る。
しかしあらぬ噂を立てられ『akai』を退社。
次の仕事を探すものの、うまく行かず悩む日々。
そんなとき。知り合いのお爺さんから秘書の仕事を紹介され、二つ返事で飛びつく紗凪。
その仕事場なんと大手老舗化粧品会社『キセイ堂』 しかもかつて紗凪の同級生で、罰ゲームで告白してきた黄瀬薫(きせかおる)がいた。
しかも黄瀬薫は若き社長になっており、その黄瀬社長の秘書に紗凪は再就職することになった。
お互いの過去は触れず、ビジネスライクに勤める紗凪だが、黄瀬社長は紗凪を忘れてないようで!?
社長×秘書×お仕事も頑張る✨
溺愛じれじれ物語りです!
不埒な一級建築士と一夜を過ごしたら、溺愛が待っていました
入海月子
恋愛
有本瑞希
仕事に燃える設計士 27歳
×
黒瀬諒
飄々として軽い一級建築士 35歳
女たらしと嫌厭していた黒瀬と一緒に働くことになった瑞希。
彼の言動は軽いけど、腕は確かで、真摯な仕事ぶりに惹かれていく。
ある日、同僚のミスが発覚して――。
【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!
satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。
働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。
早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。
そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。
大丈夫なのかなぁ?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる