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第80話・鍵を返す日
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10月初旬の土曜日。
夏の余韻を残す陽射しが眩しく、空はどこまでも高く澄んでいた。
心地よい秋晴れ――引っ越し日和だった。
澪は崇雅の車で、自分のマンションへ向かっていた。
あの夜、「そろそろ出ていこうと思う」と言った自分の一言が、
まさかこんなに早く現実になるとは思っていなかった。
「……本当に、全部やってくれてたんですね」
マンションの前で車を降りながら、澪はぽつりと呟いた。
「言っただろ。“来るだけ”でいいって」
淡々とした崇雅の声に、不思議と安心する。
マンションの前には、すでに引越し業者のトラックが待機していた。
段取りはすべて整っていた。
荷造りから大型家具の搬出、不用品の処分まですべて任せられるプラン。
澪の役割は、ただ処分するものと運び出すものを指示するだけだった。
さらに、エントランスにはスーツ姿の若い男性が所在なさげにスマホをいじっていた。
「……結城様ですね。本日はお時間ありがとうございます。
不動産会社〇〇ホーム、担当の佐久間です」
深々と頭を下げた彼は、崇雅に気づいた瞬間、わずかに固まる。
きっと事前に“東條”の名前を聞いていたのだろう。想像以上の圧に緊張が滲む。
「今日の解約、本人確認と書類だけで済むように頼んだはずだ」
「も、もちろんです。こちらが書類一式になります……」
崇雅の低く抑えた声に、佐久間は慌てて封筒を差し出した。
「……ここに名前を書けばいいんですね?」
澪が控えめに尋ねると、佐久間は勢いよく頷いた。
「は、はい。お名前と、ご捺印だけいただければ。あとは念のためご本人様確認も……」
澪はバッグから印鑑と身分証を取り出し、求められるまま書類に署名していった。
そして、鍵を開け、部屋に入る。
――かつて、澪が日々を過ごしていた空間。
(……ほんとに、今日で終わるんだ)
そんな感傷も束の間。業者を待たせるわけにはいかない。
「処分するもの、運び出すもの、ざっくりでいい。伝えてくれ」
「……はい」
完璧に整えられた段取りの中で、澪は淡々と指示を出す。
もう、この流れに抗う気も起きなかった。
(……そもそも、そういう人だ)
仕事でも、何かを決めたときの彼は容赦がない。
決断すれば、最速最短で最大の成果を上げにくる。
部屋の解約ひとつにしても、そのブレのなさは同じだった。
「このベッドと、冷蔵庫、それから洗濯機も……処分でお願いします。
あ、炊飯器と電子レンジも、向こうの家にあるので……不要です」
「了解しました」と手際よくメモを取るスタッフたち。
澪は言われるままに、いや、自分の口からではあるけれど、淡々と指示を出していく。
すでに生活に必要なものは一度運び込んでいる。
今日持ち帰るものなど、普段あまり使わない物や残っていた衣類、小物類、思い出の品くらいだった。
「こっちは段ボールにまとめて、あとで持っていく」
崇雅が静かに告げる。
それが当然のような顔をして。
「……はい、お願いします」
――何もかも、決まっている。
でも、悪い気はしなかった。
むしろ、ここまでしてくれる彼に、しっかりと大切にされている気がして。
澪の胸の奥が、ほんの少し温かくなる。
搬出が終わり、部屋の中は空っぽになった。
あれほど物で満ちていた空間が、こんなにも簡単に「何もない場所」に変わってしまうなんて。
澪は、玄関のドアを閉める前にもう一度、名残惜しそうに振り返った。
(……ありがとう)
そう心の中でだけ呟いて、静かにドアを閉めた。
崇雅が鍵を返却し、佐久間とのやり取りを終える間、澪はその隣に立ち、静かに見守っていた。
つい数ヶ月前まで自分が暮らしていた場所。
けれど、不思議と未練はなかった。
(……もう、生活の拠点は崇雅さんの家だもん)
右手を骨折してから、ずっと彼の家でお世話になっていて——
それは、言い訳など必要ないくらい自然に、日常になっていた。
けれど今——
(今日から“正式”に。私の部屋は、ない)
そのまま、崇雅と一緒にマンションの前まで出ると、引越し業者のスタッフたちが最終確認をしていた。
崇雅がさっとサインを済ませるのを、澪は黙って見守っていた。
(全部……終わったんだ)
実感が、ようやく胸の奥にじわりと染みてくる。
「……行こうか」
「はい」
崇雅の言葉に、頷く。
車に乗り込むと、助手席の窓から見慣れたマンションが遠ざかっていった。
それを見つめながら、澪は小さく深呼吸をした。
(もう、戻らない――)
その決意は、どこか心地よいものだった。
夏の余韻を残す陽射しが眩しく、空はどこまでも高く澄んでいた。
心地よい秋晴れ――引っ越し日和だった。
澪は崇雅の車で、自分のマンションへ向かっていた。
あの夜、「そろそろ出ていこうと思う」と言った自分の一言が、
まさかこんなに早く現実になるとは思っていなかった。
「……本当に、全部やってくれてたんですね」
マンションの前で車を降りながら、澪はぽつりと呟いた。
「言っただろ。“来るだけ”でいいって」
淡々とした崇雅の声に、不思議と安心する。
マンションの前には、すでに引越し業者のトラックが待機していた。
段取りはすべて整っていた。
荷造りから大型家具の搬出、不用品の処分まですべて任せられるプラン。
澪の役割は、ただ処分するものと運び出すものを指示するだけだった。
さらに、エントランスにはスーツ姿の若い男性が所在なさげにスマホをいじっていた。
「……結城様ですね。本日はお時間ありがとうございます。
不動産会社〇〇ホーム、担当の佐久間です」
深々と頭を下げた彼は、崇雅に気づいた瞬間、わずかに固まる。
きっと事前に“東條”の名前を聞いていたのだろう。想像以上の圧に緊張が滲む。
「今日の解約、本人確認と書類だけで済むように頼んだはずだ」
「も、もちろんです。こちらが書類一式になります……」
崇雅の低く抑えた声に、佐久間は慌てて封筒を差し出した。
「……ここに名前を書けばいいんですね?」
澪が控えめに尋ねると、佐久間は勢いよく頷いた。
「は、はい。お名前と、ご捺印だけいただければ。あとは念のためご本人様確認も……」
澪はバッグから印鑑と身分証を取り出し、求められるまま書類に署名していった。
そして、鍵を開け、部屋に入る。
――かつて、澪が日々を過ごしていた空間。
(……ほんとに、今日で終わるんだ)
そんな感傷も束の間。業者を待たせるわけにはいかない。
「処分するもの、運び出すもの、ざっくりでいい。伝えてくれ」
「……はい」
完璧に整えられた段取りの中で、澪は淡々と指示を出す。
もう、この流れに抗う気も起きなかった。
(……そもそも、そういう人だ)
仕事でも、何かを決めたときの彼は容赦がない。
決断すれば、最速最短で最大の成果を上げにくる。
部屋の解約ひとつにしても、そのブレのなさは同じだった。
「このベッドと、冷蔵庫、それから洗濯機も……処分でお願いします。
あ、炊飯器と電子レンジも、向こうの家にあるので……不要です」
「了解しました」と手際よくメモを取るスタッフたち。
澪は言われるままに、いや、自分の口からではあるけれど、淡々と指示を出していく。
すでに生活に必要なものは一度運び込んでいる。
今日持ち帰るものなど、普段あまり使わない物や残っていた衣類、小物類、思い出の品くらいだった。
「こっちは段ボールにまとめて、あとで持っていく」
崇雅が静かに告げる。
それが当然のような顔をして。
「……はい、お願いします」
――何もかも、決まっている。
でも、悪い気はしなかった。
むしろ、ここまでしてくれる彼に、しっかりと大切にされている気がして。
澪の胸の奥が、ほんの少し温かくなる。
搬出が終わり、部屋の中は空っぽになった。
あれほど物で満ちていた空間が、こんなにも簡単に「何もない場所」に変わってしまうなんて。
澪は、玄関のドアを閉める前にもう一度、名残惜しそうに振り返った。
(……ありがとう)
そう心の中でだけ呟いて、静かにドアを閉めた。
崇雅が鍵を返却し、佐久間とのやり取りを終える間、澪はその隣に立ち、静かに見守っていた。
つい数ヶ月前まで自分が暮らしていた場所。
けれど、不思議と未練はなかった。
(……もう、生活の拠点は崇雅さんの家だもん)
右手を骨折してから、ずっと彼の家でお世話になっていて——
それは、言い訳など必要ないくらい自然に、日常になっていた。
けれど今——
(今日から“正式”に。私の部屋は、ない)
そのまま、崇雅と一緒にマンションの前まで出ると、引越し業者のスタッフたちが最終確認をしていた。
崇雅がさっとサインを済ませるのを、澪は黙って見守っていた。
(全部……終わったんだ)
実感が、ようやく胸の奥にじわりと染みてくる。
「……行こうか」
「はい」
崇雅の言葉に、頷く。
車に乗り込むと、助手席の窓から見慣れたマンションが遠ざかっていった。
それを見つめながら、澪は小さく深呼吸をした。
(もう、戻らない――)
その決意は、どこか心地よいものだった。
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