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第85話・責任と優しさのあいだで
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「……仕事のことで……聞いてもいいですか?」
澪がぽつりと呟いた瞬間、崇雅はドライヤーのスイッチを静かに切った。
「……ああ」
少し間を置いて返された声は、穏やかで、深く静かだった。
「聞く。なんでも話してみろ」
やわらかくそう告げる声に、澪はようやく息を吐くことができた。
——拒まれない。
——ちゃんと、聞いてくれる。
その安心感が、言葉を探す力になってくれる。
「……優先順位が……まだ、つけられなくて。
今日みたいな日、どれから手をつけたらいいのか……わからなくなるんです」
「……ああ」
崇雅は頷きながら、再びドライヤーのスイッチを入れた。
澪の髪を指先でやさしくすくいながら、落ち着いた声で続ける。
「まず、考えるべきは“締切”と“影響範囲”だ」
「影響範囲……?」
「たとえば、資料作成。
自分だけが見るなら多少遅れても構わないが、他人がそれを使って動くなら、後ろ全部に遅れが出る。そういうのは最優先に回す」
「……あ……」
言われてみれば、これまでも何度もそれに混乱した。
自分だけが確認するべき資料を先に回して、メンバーが動けず滞ったこともあった。
「次に“止まっている仕事を動かすために必要な作業”を優先しろ。
全体の流れを止める要因になるものが、一番のボトルネックになる」
「……わかりました……」
崇雅の声は静かで、厳しさよりも具体性に満ちていた。
澪は目を伏せながら、小さくメモを取るように頭の中で整理していく。
「あともうひとつ。
“自分じゃなくてもできる仕事”は、遠慮せず振れ」
「……それが、一番難しくて……」
「わかってる。だが、責任者は“全部やる人間”じゃない。“全部を見て判断する人間”だ」
ドライヤーが止まり、崇雅はタオルで髪の残った水分をそっと拭いながら、続けた。
「信頼して任せろ。そして、任せた以上は“確認”を忘れるな」
「……はい……」
「信頼とは、任せっぱなしにすることじゃない。
信頼してるからこそ、報告させ、共有させ、支えるんだ」
「……それって……支えるって……それで上に立つってこと、ですか」
「そうだ。支配じゃない。“支える”ための責任がある。それが上に立つ人間だ」
静かな夜のリビングに、言葉だけが深く沁みていく。
澪は自分の膝の上でそっと手を重ね、思い返す。
自分はこれまで、全部を自分ひとりでどうにかしようとしていた。
でもそれは、支えることではなかった。
ただ、こぼれないように、溢れそうな水を両手で抱えていただけだったのだ。
「……ありがとうございます」
ようやくそう言えた声は、少し震えていた。
崇雅は何も言わず、澪の髪を撫でるように整えると、そっと自分の膝に彼女の頭を預けた。
「……名前を呼んでくれたら、もっと聞いてやる」
「……っ」
思わず顔を上げかけた澪だったが、照れて目を逸らすと、小さな声で呟く。
「……崇雅さん」
「よし、じゃあ続きを聞こうか」
「……ずるいです……」
そう言いながらも、澪の頬にはようやく笑みが戻っていた。
リビングの照明は落とされ、テーブルの上に置かれた間接照明の柔らかな光が部屋をほんのりと包んでいた。
澪はソファに座ったまま、乾かされた髪を軽く整え、ふうっと小さく息を吐く。
その隣には、いつも通り崇雅が座っていた。
距離は近いのに、居心地のいい静けさがある。
ふと、澪は手のひらを見つめた。
その中に残る、今日一日のタスク、やりとり、反省、少しの達成感——
そして崇雅からもらったアドバイスや、言葉の重み。
「……なんか、少しだけ、変われた気がします」
ぽつりとこぼれた言葉に、崇雅はすぐには返さなかった。
けれど視線がそっと澪の横顔に向けられているのが、わかった。
「ちゃんと、任せようって思えたんです。少しだけですけど。
誰かを頼っても、逃げじゃないって……そう思えたのは、今日が初めてかもしれません」
崇雅はゆっくりと、澪の手を取った。
冷たいその手が、包み込まれることでじんわりと温もりを帯びていく。
「初めてなら、上出来だ」
「……でも、まだ怖いです。任せてうまくいかなかったらって思うと……」
「それも含めて、責任者の仕事だ」
崇雅の言葉は優しかった。責めるでも、諭すでもない。
ただ澪の感じている重みを、ちゃんと受け止めた上での一言だった。
「……崇雅さんって、ずるいです」
「ん?」
「ちゃんと見てくれてるし、わかってくれてるし、……いつもそうやって、
私の限界よりちょっと前で手を差し伸べてくれる」
「そう思ってくれるなら、十分だ」
少し照れたように、けれど真っ直ぐに答えるその声に、
澪はゆっくりと寄り添うように、彼の肩に頭を預けた。
「……好きです」
ようやく口にできた言葉だった。
“ありがとう”や“ごめんなさい”は何度も言ってきたけれど、
この気持ちだけは、なかなか伝えられなかった。
崇雅は何も言わず、ただ彼女の肩を静かに抱き寄せる。
言葉はなくても、十分に伝わっている。
彼がそばにいる限り、自分はもう一人じゃない。
——明日も、頑張ろう。
静かな夜、やわらかな温もりの中で、澪はそっと目を閉じた。
澪がぽつりと呟いた瞬間、崇雅はドライヤーのスイッチを静かに切った。
「……ああ」
少し間を置いて返された声は、穏やかで、深く静かだった。
「聞く。なんでも話してみろ」
やわらかくそう告げる声に、澪はようやく息を吐くことができた。
——拒まれない。
——ちゃんと、聞いてくれる。
その安心感が、言葉を探す力になってくれる。
「……優先順位が……まだ、つけられなくて。
今日みたいな日、どれから手をつけたらいいのか……わからなくなるんです」
「……ああ」
崇雅は頷きながら、再びドライヤーのスイッチを入れた。
澪の髪を指先でやさしくすくいながら、落ち着いた声で続ける。
「まず、考えるべきは“締切”と“影響範囲”だ」
「影響範囲……?」
「たとえば、資料作成。
自分だけが見るなら多少遅れても構わないが、他人がそれを使って動くなら、後ろ全部に遅れが出る。そういうのは最優先に回す」
「……あ……」
言われてみれば、これまでも何度もそれに混乱した。
自分だけが確認するべき資料を先に回して、メンバーが動けず滞ったこともあった。
「次に“止まっている仕事を動かすために必要な作業”を優先しろ。
全体の流れを止める要因になるものが、一番のボトルネックになる」
「……わかりました……」
崇雅の声は静かで、厳しさよりも具体性に満ちていた。
澪は目を伏せながら、小さくメモを取るように頭の中で整理していく。
「あともうひとつ。
“自分じゃなくてもできる仕事”は、遠慮せず振れ」
「……それが、一番難しくて……」
「わかってる。だが、責任者は“全部やる人間”じゃない。“全部を見て判断する人間”だ」
ドライヤーが止まり、崇雅はタオルで髪の残った水分をそっと拭いながら、続けた。
「信頼して任せろ。そして、任せた以上は“確認”を忘れるな」
「……はい……」
「信頼とは、任せっぱなしにすることじゃない。
信頼してるからこそ、報告させ、共有させ、支えるんだ」
「……それって……支えるって……それで上に立つってこと、ですか」
「そうだ。支配じゃない。“支える”ための責任がある。それが上に立つ人間だ」
静かな夜のリビングに、言葉だけが深く沁みていく。
澪は自分の膝の上でそっと手を重ね、思い返す。
自分はこれまで、全部を自分ひとりでどうにかしようとしていた。
でもそれは、支えることではなかった。
ただ、こぼれないように、溢れそうな水を両手で抱えていただけだったのだ。
「……ありがとうございます」
ようやくそう言えた声は、少し震えていた。
崇雅は何も言わず、澪の髪を撫でるように整えると、そっと自分の膝に彼女の頭を預けた。
「……名前を呼んでくれたら、もっと聞いてやる」
「……っ」
思わず顔を上げかけた澪だったが、照れて目を逸らすと、小さな声で呟く。
「……崇雅さん」
「よし、じゃあ続きを聞こうか」
「……ずるいです……」
そう言いながらも、澪の頬にはようやく笑みが戻っていた。
リビングの照明は落とされ、テーブルの上に置かれた間接照明の柔らかな光が部屋をほんのりと包んでいた。
澪はソファに座ったまま、乾かされた髪を軽く整え、ふうっと小さく息を吐く。
その隣には、いつも通り崇雅が座っていた。
距離は近いのに、居心地のいい静けさがある。
ふと、澪は手のひらを見つめた。
その中に残る、今日一日のタスク、やりとり、反省、少しの達成感——
そして崇雅からもらったアドバイスや、言葉の重み。
「……なんか、少しだけ、変われた気がします」
ぽつりとこぼれた言葉に、崇雅はすぐには返さなかった。
けれど視線がそっと澪の横顔に向けられているのが、わかった。
「ちゃんと、任せようって思えたんです。少しだけですけど。
誰かを頼っても、逃げじゃないって……そう思えたのは、今日が初めてかもしれません」
崇雅はゆっくりと、澪の手を取った。
冷たいその手が、包み込まれることでじんわりと温もりを帯びていく。
「初めてなら、上出来だ」
「……でも、まだ怖いです。任せてうまくいかなかったらって思うと……」
「それも含めて、責任者の仕事だ」
崇雅の言葉は優しかった。責めるでも、諭すでもない。
ただ澪の感じている重みを、ちゃんと受け止めた上での一言だった。
「……崇雅さんって、ずるいです」
「ん?」
「ちゃんと見てくれてるし、わかってくれてるし、……いつもそうやって、
私の限界よりちょっと前で手を差し伸べてくれる」
「そう思ってくれるなら、十分だ」
少し照れたように、けれど真っ直ぐに答えるその声に、
澪はゆっくりと寄り添うように、彼の肩に頭を預けた。
「……好きです」
ようやく口にできた言葉だった。
“ありがとう”や“ごめんなさい”は何度も言ってきたけれど、
この気持ちだけは、なかなか伝えられなかった。
崇雅は何も言わず、ただ彼女の肩を静かに抱き寄せる。
言葉はなくても、十分に伝わっている。
彼がそばにいる限り、自分はもう一人じゃない。
——明日も、頑張ろう。
静かな夜、やわらかな温もりの中で、澪はそっと目を閉じた。
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