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第90話・ひとりで頑張らない日
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11月、C社案件は本格的に“修羅場”に突入した。
崇雅の予想通り、火を噴くような忙しさだった。
毎朝の打ち合わせ、次々に飛び込むタスク、
深夜に及ぶ確認作業、そして突発の修正依頼。
そのすべてが澪の肩にのしかかり、
日々のスケジュールは、すでにキャパシティを大きく超えていた。
——それでも、澪は立ち止まらなかった。
以前の彼女なら、
「迷惑をかけたくない」「自分でやらなきゃ」と、
ぎりぎりまでひとりで抱え込んでいたはず。
けれど今は違う。
限界が近づく前に、崇雅の顔が思い浮かぶ。
「……部長、少し、相談してもいいですか?」
そう声をかけるようになった。
彼のアドバイスを受け止め、必要なときは「お願いできますか」と頼ることもできるようになった。
それは澪にとって、大きな変化だった。
「よし。週末、一緒に片付けよう」
「俺が横にいるほうが、澪は集中できるだろ」
——そんな風に崇雅が言ってくれたから。
澪は、休日の仕事でさえも“ひとりで頑張らない選択”を取れるようになった。
そして、迎えた週末。
休日の朝。
朝の空気はひんやりと澄んでいたが、
部屋の中には淡い陽の光と、淹れたてのコーヒーの香りが漂っていた。
リビングのテーブルに並べたそれぞれのノートパソコン。
崇雅は画面を見つめながら、軽くメモを取っていた。
隣では澪が肩を丸め、何度も唇を結び直しながら資料の確認をしている。
「……ここのスケジュール調整、もう一回見直したほうがいいかも」
ぽつりと漏れた澪の言葉に、崇雅がすぐに手を止める。
「どこだ」
「えっと……この工程です。次のクライアントチェックまでに、どうしてもここ詰めないと」
画面を見せると、崇雅は軽く頷き、澪のパソコンに身を寄せた。
「送ってみろ。俺が叩く。澪は工程全体を俯瞰しろ」
「……ありがとうございます。助かります」
自然な連携。
以前なら、自分ひとりで抱えていたであろう悩みを、
今はこうして崇雅に頼れるようになっていた。
——いや、頼らされていると言うべきかもしれない。
彼のほうが先回りして手を伸ばしてくるから。
3時間ほど無言で並んで作業が続いたのち、
崇雅がふと手を止めて、立ち上がった。
「休憩入れるぞ。今日は、あんパンとカフェラテ」
「……崇雅さん、やさしい」
思わず出た言葉に、崇雅は振り返りもせずに答える。
「今さらだろ」
キッチンへ向かう背中は変わらず静かで、
けれど、澪の胸の奥がほんのりと温かくなる。
(……甘やかされてるな、私)
そう思いながら澪は画面を閉じ、深く息を吐いた。
彼がいるから、まだ頑張れる。
そう、心から思えた。
午後も淡々と時間が過ぎていった。
仕事の進捗は悪くない。
澪の手元で滞っていた工程も、崇雅の補助が入ることで一気に整い、
澪自身も「やらなきゃ」「終わらせなきゃ」という焦りより、
「できる」「進められる」という前向きな意識が持てていた。
(……やっぱり、崇雅さんってすごいな)
ふと隣を見ると、崇雅はノートパソコンを閉じて、静かに立ち上がった。
「ひと段落ついたな。飯にするぞ」
「え……あ、でも私、まだ全部は終わってなくて……」
「だから“ひと段落”って言ったんだ。食べて、休んで、それからでも遅くない」
強引でも、乱暴でもない。
けれど、逆らえないような静かな口調に、澪は素直に頷いた。
(……ずるい、こういうとこ)
内心でつぶやきながら、澪も席を立つ。
ほどなくして、テーブルには
炊き込みご飯と味噌汁、鶏の照り焼きに煮物、小鉢。
「……これ、崇雅さんが作ったんですか?」
「料理するの、俺しかいないだろ」
崇雅が作った料理を見つめながら、澪はぽつりと呟いた。
「……少し前まで、私も作ってたんですけどね。お弁当も持って行ってたし……」
「ああ。律儀だと思っていた」
「……でも最近は、もう、何も考えられなくて。時間もないし、気持ちにも余裕がなくて」
「だから俺がやってる。それだけだ」
「……ありがとうございます」
口元を緩めながら箸を渡してくる姿に、
澪の胸の奥に、じんわりとした熱が広がっていく。
「いただきます」
小さく手を合わせて一口運ぶと、
香ばしいご飯の風味と、鶏肉のやわらかさが沁みる。
「……おいしいです」
崇雅は、澪の言葉に頷き、静かに箸を動かしていた。
夕食後、軽く片付けを済ませたあとも、
ふたりはしばらく無言で、それぞれの画面に向かっていた。
気がつけば、時計はもう22時を回っている。
澪がパソコンを閉じると、
崇雅は待っていたかのように、告げる。
「今日は、ここまでにしろ」
「……はい。崇雅さんは?」
「俺は、もう少し。澪はよく頑張った」
「……ありがとうございます」
立ち上がって、澪はふと崇雅を見つめた。
「……すごく、助かりました。今日」
「当然だ」
「……嬉しかったです。すごく、心強くて……」
ぽつりと零れた澪の言葉に、崇雅がようやくパソコンから視線を外す。
そして、静かに立ち上がると、澪の髪に指を通しながら撫でた。
「よく頑張ったな」
その一言に、澪の目元がわずかに緩む。
「……頑張れたのは、崇雅さんがそばにいてくれたからです」
崇雅は何も言わず、そっとその額に唇を落とした。
それは恋人としての、静かな労い。
その夜、澪はいつもより少し早くベッドに入り、
崇雅はそばのソファでパソコンに向かい、仕事を続けた。
ときおり寝返りを打つ気配に目を向けながら、
彼は思う。
——この忙しさは、まだしばらく続く。
けれどこの日々を乗り越えた先に、
もっと強くなった澪が、今と変わらず、自分の隣にいるのだと。
崇雅の予想通り、火を噴くような忙しさだった。
毎朝の打ち合わせ、次々に飛び込むタスク、
深夜に及ぶ確認作業、そして突発の修正依頼。
そのすべてが澪の肩にのしかかり、
日々のスケジュールは、すでにキャパシティを大きく超えていた。
——それでも、澪は立ち止まらなかった。
以前の彼女なら、
「迷惑をかけたくない」「自分でやらなきゃ」と、
ぎりぎりまでひとりで抱え込んでいたはず。
けれど今は違う。
限界が近づく前に、崇雅の顔が思い浮かぶ。
「……部長、少し、相談してもいいですか?」
そう声をかけるようになった。
彼のアドバイスを受け止め、必要なときは「お願いできますか」と頼ることもできるようになった。
それは澪にとって、大きな変化だった。
「よし。週末、一緒に片付けよう」
「俺が横にいるほうが、澪は集中できるだろ」
——そんな風に崇雅が言ってくれたから。
澪は、休日の仕事でさえも“ひとりで頑張らない選択”を取れるようになった。
そして、迎えた週末。
休日の朝。
朝の空気はひんやりと澄んでいたが、
部屋の中には淡い陽の光と、淹れたてのコーヒーの香りが漂っていた。
リビングのテーブルに並べたそれぞれのノートパソコン。
崇雅は画面を見つめながら、軽くメモを取っていた。
隣では澪が肩を丸め、何度も唇を結び直しながら資料の確認をしている。
「……ここのスケジュール調整、もう一回見直したほうがいいかも」
ぽつりと漏れた澪の言葉に、崇雅がすぐに手を止める。
「どこだ」
「えっと……この工程です。次のクライアントチェックまでに、どうしてもここ詰めないと」
画面を見せると、崇雅は軽く頷き、澪のパソコンに身を寄せた。
「送ってみろ。俺が叩く。澪は工程全体を俯瞰しろ」
「……ありがとうございます。助かります」
自然な連携。
以前なら、自分ひとりで抱えていたであろう悩みを、
今はこうして崇雅に頼れるようになっていた。
——いや、頼らされていると言うべきかもしれない。
彼のほうが先回りして手を伸ばしてくるから。
3時間ほど無言で並んで作業が続いたのち、
崇雅がふと手を止めて、立ち上がった。
「休憩入れるぞ。今日は、あんパンとカフェラテ」
「……崇雅さん、やさしい」
思わず出た言葉に、崇雅は振り返りもせずに答える。
「今さらだろ」
キッチンへ向かう背中は変わらず静かで、
けれど、澪の胸の奥がほんのりと温かくなる。
(……甘やかされてるな、私)
そう思いながら澪は画面を閉じ、深く息を吐いた。
彼がいるから、まだ頑張れる。
そう、心から思えた。
午後も淡々と時間が過ぎていった。
仕事の進捗は悪くない。
澪の手元で滞っていた工程も、崇雅の補助が入ることで一気に整い、
澪自身も「やらなきゃ」「終わらせなきゃ」という焦りより、
「できる」「進められる」という前向きな意識が持てていた。
(……やっぱり、崇雅さんってすごいな)
ふと隣を見ると、崇雅はノートパソコンを閉じて、静かに立ち上がった。
「ひと段落ついたな。飯にするぞ」
「え……あ、でも私、まだ全部は終わってなくて……」
「だから“ひと段落”って言ったんだ。食べて、休んで、それからでも遅くない」
強引でも、乱暴でもない。
けれど、逆らえないような静かな口調に、澪は素直に頷いた。
(……ずるい、こういうとこ)
内心でつぶやきながら、澪も席を立つ。
ほどなくして、テーブルには
炊き込みご飯と味噌汁、鶏の照り焼きに煮物、小鉢。
「……これ、崇雅さんが作ったんですか?」
「料理するの、俺しかいないだろ」
崇雅が作った料理を見つめながら、澪はぽつりと呟いた。
「……少し前まで、私も作ってたんですけどね。お弁当も持って行ってたし……」
「ああ。律儀だと思っていた」
「……でも最近は、もう、何も考えられなくて。時間もないし、気持ちにも余裕がなくて」
「だから俺がやってる。それだけだ」
「……ありがとうございます」
口元を緩めながら箸を渡してくる姿に、
澪の胸の奥に、じんわりとした熱が広がっていく。
「いただきます」
小さく手を合わせて一口運ぶと、
香ばしいご飯の風味と、鶏肉のやわらかさが沁みる。
「……おいしいです」
崇雅は、澪の言葉に頷き、静かに箸を動かしていた。
夕食後、軽く片付けを済ませたあとも、
ふたりはしばらく無言で、それぞれの画面に向かっていた。
気がつけば、時計はもう22時を回っている。
澪がパソコンを閉じると、
崇雅は待っていたかのように、告げる。
「今日は、ここまでにしろ」
「……はい。崇雅さんは?」
「俺は、もう少し。澪はよく頑張った」
「……ありがとうございます」
立ち上がって、澪はふと崇雅を見つめた。
「……すごく、助かりました。今日」
「当然だ」
「……嬉しかったです。すごく、心強くて……」
ぽつりと零れた澪の言葉に、崇雅がようやくパソコンから視線を外す。
そして、静かに立ち上がると、澪の髪に指を通しながら撫でた。
「よく頑張ったな」
その一言に、澪の目元がわずかに緩む。
「……頑張れたのは、崇雅さんがそばにいてくれたからです」
崇雅は何も言わず、そっとその額に唇を落とした。
それは恋人としての、静かな労い。
その夜、澪はいつもより少し早くベッドに入り、
崇雅はそばのソファでパソコンに向かい、仕事を続けた。
ときおり寝返りを打つ気配に目を向けながら、
彼は思う。
——この忙しさは、まだしばらく続く。
けれどこの日々を乗り越えた先に、
もっと強くなった澪が、今と変わらず、自分の隣にいるのだと。
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