【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第92話・灯りを落とした夜に

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「ただいま…」

「お疲れ。玄関、閉めてくる」

ふたり並んで部屋に入ると、空調の優しいぬくもりと、炊き立てのご飯の香りがふわりと迎えてくれる。

コートを脱ぐと、崇雅が自然に手を伸ばし、澪の腕からそれを受け取ってくれる。
その何気ない仕草に、ふっと肩の力が抜けて、小さく息を吐いた。

「少し待ってろ。食事の準備、すぐ終わるから」

キッチンへ向かう彼の背中を見送りながら、澪は寝室へと歩を進める。

着替えを済ませて髪を整え、いつものようにリビングへ戻った澪は――
ダイニングの光景に、思わず立ち止まった。

そこには、控えめながらも丁寧に整えられた食卓が広がっていた。
白身魚の幽庵焼き、小さな土鍋には湯豆腐。
炊き込みご飯と、色とりどりの野菜を添えたお浸し。
どれも胃にやさしく、遅い時間でも負担にならないよう工夫されている。
そして、その横には、ふたり分の小さなショートケーキ。

(崇雅さん……ちゃんと、覚えててくれてたんだ)

崇雅はあえて何も言わなかった。
プレゼントも特別な飾りもない。
でも、さりげなく用意されたこの食卓が、彼なりの“贈りもの”なのだと澪は感じた。

「できたぞ」

キッチンから戻ってきた崇雅が、澪の前に小皿をそっと置く。

「そんなにじっと見て……何か足りなかったか?」

「……いえ。あの……すごく、うれしくて」

そう答えると、澪は俯き、指先をそっと重ねた。
クリスマスを一緒に過ごせるだけでも、十分だと思っていた。
でも、崇雅がちゃんと“今日”を大切にしてくれていたことが、なによりも心に沁みた。

「いただきます……っ」

少し震えた声で箸を取る澪を見つめながら、崇雅は穏やかに微笑んだ。

「いただきます」

何気ない日常に溶け込んだ、静かなクリスマスの夜。
けれど、澪にとってはそれが、どんなプレゼントよりも、温かくて――かけがえのない時間だった。


そして食後、片づけをしながらふいに崇雅が言った。

「週末に、外でディナーの予約をしてある。だから今日は軽くした」

「……ありがとうございます。でも、十分すぎるくらい特別です」

(崇雅さん、本当に、優しい)

その想いを、ちゃんと伝えたいのに――
言葉になる前に、澪の瞳がほんのりと潤んでいた。


お風呂を終えた澪は、リビングで崇雅に髪を乾かしてもらいながら、落ち着かない気持ちを抱えていた。

(……今日、崇雅さんは、ちゃんとクリスマスの準備をしてくれてたのに)

料理も、雰囲気も、すべてが“さりげなく”でありながら、澪のために整えられたものだった。
その気遣いが胸に沁みて、温かさとともに、少しの申し訳なさも混じる。

(私からは……何も返せてない)

ふと、澪の指先が胸元のネックレスに触れた。
以前、崇雅からもらった小さな一粒ダイヤのネックレス。
“目印”だと言ってくれた、彼の大切な想い。

(……だったら、今夜は)

崇雅が入浴を終えた頃、澪はソファにブランケットをかけて腰掛けていた。
濡れた髪を軽くタオルで押さえながらリビングに戻ってきた崇雅は、その様子に一瞬だけ目を細め、隣に静かに腰を下ろす。

部屋には、時計の針の音だけが響いていた。

「……崇雅さん」

ぽつりと、澪が声を落とす。
その響きに、崇雅がそっと顔を向けた。

「……甘えても、いいですか?」

そう言って、澪はそっと目を伏せる。
ほんのり赤く染まった頬が、わずかに震えていた。

崇雅はふっと息を吐き、ゆるやかに笑った。

「もちろん」

その腕が伸びてきて、澪の肩を優しく引き寄せる。
触れた瞬間、澪の身体から、緊張がふわりとほどけていった。

「澪からなんて、珍しいな」

「……あの、今日は……クリスマスイブなので……」

澪の声は震えていたが、その中には確かな想いが込められていた。
崇雅はその想いを受け取るように、優しく唇を重ねる。

「……嬉しいよ、澪」

灯りを落としたリビングで、ふたりは寄り添い、温もりを分け合う。
言葉では足りないものが、ぬくもりひとつで、すっと伝わっていく。

崇雅の腕の中、澪はそっと身体を預けた。

その空気のまま、崇雅は澪を抱き上げ、寝室へと歩く。

「……ベッド、行こうか」

小さく頷いた澪の頬は、ほんのり赤いまま。
肩に寄りかかってくる彼女の身体はどこか緊張していて、それがまた、今夜が特別なのだと物語っていた。

寝室に入ると、すでにベッドの脇には薄明かりが灯されていた。
崇雅がそっとベッドに澪を下ろし、彼女の隣に腰を下ろす。

「さっきの、澪からの“甘えてもいい?”って……あれ、すごく嬉しかった」

「……う、うれしかったなら、よかったです……」

視線を逸らす澪に、崇雅はくすりと笑った。

「俺からばかりじゃなく、澪から来てくれるの、ほんとに、たまらなく嬉しい」

澪は何も言えず、ただ頬を染めたままうつむいている。
けれど次の瞬間、崇雅の指が澪の顎に触れ、優しく顔を上げさせた。

「澪、顔、隠すな」

「……は、恥ずかしいんです……っ」

「俺のものなんだから、ちゃんと見せて」

そう言って、今度は深く、長いキスを落とす。
触れるだけだった唇が、少しずつ熱を帯び、澪の心をさらっていく。

吐息が重なるたび、部屋の温度が静かに上がっていく。

澪はぎこちなくも、自分から崇雅の胸元に手を伸ばす。
何かを返したくて、彼の温もりに触れたくて。
その小さな動きすら、崇雅にとっては何よりのプレゼントだった。

「……澪」

名前を呼ぶ声が、いつもより深くて、優しくて。
ふたりは静かに、確かめるように、何度も寄り添う。

心も、身体も、すべてを重ねる夜。
初めてのクリスマスは、ふたりだけの秘密の灯りの中で、静かに更けていった――
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