【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第98話・買い物リストと、ささやかな幸せ

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朝――と言っても、時計の針はすでに9時を回っていた。
カーテンの隙間から差し込む陽の光が、ふわりとベッドの上を照らしている。

その光をまぶた越しに感じながら、澪はゆっくりとまばたきを繰り返し、少しずつ意識を浮かせていった。

(……お休み、だ)

仕事のことを考えなくていい朝。
出勤時間を気にせずにいられる、そんな朝は本当に久しぶりだった。

隣では崇雅が目を閉じたまま、静かに寝息を立てている。
けれどその腕はしっかりと澪の腰に回されていて、微かに力がこもっていた。

「……もう起きてますよね?」

澪がそう小さく声をかけると、崇雅は目を開け、澪を見下ろすようにして小さく笑った。

「……おはよう。顔色よさそうだな」

「はい。ちゃんと寝られたから……。崇雅さんも、ちゃんと眠れました?」

「ああ、澪が隣にいるから」

そのさらりとした返答に、澪の顔がじんわりと熱を帯びる。
どうしてこの人は、こんなにも自然に甘いことを言ってのけるのだろう。

「……じゃあ、そろそろ起きて朝ごはんの準備を……」

体を起こそうとする澪を、崇雅の腕が引き戻した。

「もう少し……。せっかくの休みなんだから、あと10分だけ」

「……わかりました。でも本当に10分ですよ?」

「ああ、10分」

(たぶん、10分じゃ済まないんだろうけど)

そう思いながらも、澪はおとなしくその腕の中で目を閉じた。
ベッドの中のぬくもりと、崇雅の体温に包まれて、心までぽかぽかと満たされていく。


結局、ベッドを出たのは10分どころか30分後だった。

軽く身支度を整えたあと、崇雅は手際よく朝食を用意し、ふたりでテーブルにつく。

「……今日は、食材の買い出しですよね?」

「ああ。冷蔵庫、ほぼ空だ。年末年始はどこも混むし、必要なものは今日中に」

「わかりました。おせちっぽいものも少し買っておきましょうか。全部作るのは大変だから……時間のかかる黒豆とか、あと伊達巻とか」

「そうだな。作りたいのがあれば教えてくれ。俺が作る」

「……もう、そうやってすぐ甘やかすんだから」

「事実を言ってるだけだ」


朝食を終えたふたりは、洗い物を手分けして済ませたあと、手持ちの食材や日用品を確認しながら簡単な買い物リストを作った。

普段は崇雅がまとめて用意していることが多いが、今日は年末年始の特別な準備も兼ねて、澪も率先して加わる。

「スーパーのあと、ちょっと寄り道してもいいですか?」

「どこか行きたいとこでも?」

「えっと……お花屋さんに。玄関に飾るお正月の小さいアレンジを見てみたくて」

「……わかった。そういうの、澪がいる家って感じがして好きだ」

さらっと言ってのける崇雅に、澪は耳まで赤くなりながらも頷いた。

準備を終え、ふたりで玄関を出る。
エレベーターの中、ふいに崇雅がぽつりとつぶやいた。

「……今年も、あと少しだな」

「そうですね。……でも、こうして一緒に過ごせる年末は初めてだから、すごく特別な感じがします」

崇雅は何も言わず、ただ澪の手を静かに取った。
エレベーターが1階に着くまで、その手を優しく包み込むように握っていた。


午前中のうちに、スーパーと商店街で必要なものを買いそろえる。

大晦日と正月用の食材を少しだけ、あとはいつものように、ふたりで食べたいもの。
澪が選んだ小さな南天のアレンジも、帰宅後すぐに玄関へ飾られた。

午後は、買ってきた野菜の下処理をしたり、読書をしたり、互いに好きなことをして静かに過ごす。
一緒にいるのが日常になった今、特別な会話がなくても不思議と居心地がいい。

夕方。
早めに風呂を済ませたあと、あたたかい部屋着に着替えてリビングのソファに並んで座る。
穏やかに流れる空気の中で、澪がぽつりと呟いた。

「……今日は、落ち着いた一日でしたね」

澪がぽつりと呟くと、崇雅はグラスをテーブルに戻し、隣にいる彼女をそっと抱き寄せた。

「明日も明後日も、その先も、ずっとこうやって過ごしたい」

「……甘やかしすぎですよ、崇雅さん」

「甘やかしてるんじゃない。そうしたいだけだ」

真っすぐな言葉に、澪は返す言葉を見つけられなかった。
けれど、胸の奥に広がっていくやわらかな安心感が、自然と表情をゆるませる。

そっと崇雅の胸元に頬を預けると、その体温に包まれるように心が安らいでいく。

テレビからは年末特番の賑やかな音が流れていたけれど、
それよりも心地よく響いていたのは、ふたりだけの静かなぬくもりだった。
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