112 / 168
第107話・俺の知らない君が、そこにいた
しおりを挟む
デスクに戻ってからも、崇雅の脳裏には、澪の笑顔が焼きついて離れなかった。
澪が、他の男と――自分以外の誰かと、あんなふうに笑う顔が。
「お疲れ様です、戻りました。……資料、ここに」
「……ああ」
部下の報告にも、崇雅は表情を変えず、最低限の返答だけを返す。
資料に目を通しながらも、文字は頭に入ってこない。
いつも通りに振る舞っているつもりだったが、部署の空気は微かに冷えていた。
数度、温度が下がったような、張りつめた静けさを――部下たちは敏感に察していた。
そのとき、内線が鳴る。
「東條です」
《お疲れさまです、西岡です。F社との件、無事に契約までまとまりました。書類関係も、こちらで手配済みです》
「……そうか」
ひとことだけ返して、通話を切る。
その手が、パソコンのキーボードに戻る。
けれど、文字を打つ手はすぐに止まり、視線は画面をすり抜けて、虚空をさまよう。
(俺は……何をやっている)
心のどこかで、自嘲気味にそう呟いた。
澪が、誰と笑っていようと、何をしていようと、信じていればいい。
彼女はそんな軽い女ではないし、学生時代の旧友と再会して笑顔を見せることが、何の罪になるというのか。
そう、理屈ではわかっている。
それでも――。
(なぜ、俺は……あんな顔を、見たくなかったと思っているんだ)
心の奥底から、黒く鈍い感情が這い上がってくる。
重く、湿った独占欲が、じくじくと胸を蝕んでいた。
その頃。
オフィスに戻ってきた澪は、ランチの余韻を残したまま、頬をほんのり赤らめていた。
旧友との楽しかった時間が、彼女の表情にやわらかい色を添えている。
「あ、結城ちゃん。おかえりなさい」
「お疲れさまです。ただいま戻りました」
澪がペコリと頭を下げると、隣のデスクの先輩が声をかけてきた。
「さっき、外で一緒にいた人ってクライアントさん?」
「……あ、はい。F社の担当の方で」
「すごく仲よさそうに見えたけど……知り合いとか?」
「えっと……大学時代に、同じサークルだった人なんです。びっくりしました」
「へえ~、そんな偶然あるんだね!」
「本当に。向こうが先に気づいてくれたんですけど……私、全然思い出せなくて」
そう言って、澪は少し照れたように笑う。
「でも名前を聞いて、あっ、って。昔のこと、いろいろ思い出しちゃって……」
「なんか青春って感じだね。懐かしいってなるよね~」
「はい。つい、話し込んじゃって……でも、ちゃんと1時間は守って戻りました」
「大丈夫だよ。結城ちゃんがリラックスしてるの、珍しくてちょっと安心したかも」
「あ……ありがとうございます」
澪は小さく笑って、ペットボトルの水に口をつけた。
その会話の背後で――
通りかかった崇雅の足が、一瞬止まる。
通路を歩いていた崇雅の耳に、澪の柔らかい声がふと届いた。
「……大学時代に、同じサークルだった人なんです。びっくりしました」
また旧友との話。
楽しそうに笑う、その声。
それは、職場での彼女からはあまり聞かれない、素の響きだった。
言葉の端々から、ほんの少し素の澪に戻っているのがわかる。
職場では見せない空気感。
自分の前では――あまり見たことのない緩んだ笑顔。
(……楽しそうだな)
それは、決して咎めるような感情ではなかった。
ただ、胸の奥が静かに熱を帯びる。
彼女が楽しそうに旧友の話をしている。
それだけのことだ。
恋愛感情があるわけではない。わかっている。わかっているのに――
(“俺には、あんな声を向けたことがあったか?”)
そう思った瞬間、また、何かが鈍く軋んだ。
彼女は、自分には敬語を崩さない。
ある程度、気を張って、距離を保っているように見える。
それが、他の誰かの前では、自然と緩んでいる。
“自分の知らない澪”を目の当たりにして、
届かない時間、過去の記憶に、心をかき乱される。
(大学時代のサークル……)
彼女がかつて、誰と、どんな関係で、どんな時間を過ごしていたのか。
その全てを知ることはできない。
それが、たまらなく悔しいと思ってしまった。
(……悪いことをしているわけじゃない)
(仕事の合間の、ただの雑談だ)
そう頭では理解しながら、崇雅はその場を離れた。
表情は変えず、足取りもそのままに。
だが、その瞳の奥には、いつもの冷静さとは異なる色が宿っていた。
静かに、けれど着実に広がる、澪だけに向けて燃え上がる黒い炎が。
澪が、他の男と――自分以外の誰かと、あんなふうに笑う顔が。
「お疲れ様です、戻りました。……資料、ここに」
「……ああ」
部下の報告にも、崇雅は表情を変えず、最低限の返答だけを返す。
資料に目を通しながらも、文字は頭に入ってこない。
いつも通りに振る舞っているつもりだったが、部署の空気は微かに冷えていた。
数度、温度が下がったような、張りつめた静けさを――部下たちは敏感に察していた。
そのとき、内線が鳴る。
「東條です」
《お疲れさまです、西岡です。F社との件、無事に契約までまとまりました。書類関係も、こちらで手配済みです》
「……そうか」
ひとことだけ返して、通話を切る。
その手が、パソコンのキーボードに戻る。
けれど、文字を打つ手はすぐに止まり、視線は画面をすり抜けて、虚空をさまよう。
(俺は……何をやっている)
心のどこかで、自嘲気味にそう呟いた。
澪が、誰と笑っていようと、何をしていようと、信じていればいい。
彼女はそんな軽い女ではないし、学生時代の旧友と再会して笑顔を見せることが、何の罪になるというのか。
そう、理屈ではわかっている。
それでも――。
(なぜ、俺は……あんな顔を、見たくなかったと思っているんだ)
心の奥底から、黒く鈍い感情が這い上がってくる。
重く、湿った独占欲が、じくじくと胸を蝕んでいた。
その頃。
オフィスに戻ってきた澪は、ランチの余韻を残したまま、頬をほんのり赤らめていた。
旧友との楽しかった時間が、彼女の表情にやわらかい色を添えている。
「あ、結城ちゃん。おかえりなさい」
「お疲れさまです。ただいま戻りました」
澪がペコリと頭を下げると、隣のデスクの先輩が声をかけてきた。
「さっき、外で一緒にいた人ってクライアントさん?」
「……あ、はい。F社の担当の方で」
「すごく仲よさそうに見えたけど……知り合いとか?」
「えっと……大学時代に、同じサークルだった人なんです。びっくりしました」
「へえ~、そんな偶然あるんだね!」
「本当に。向こうが先に気づいてくれたんですけど……私、全然思い出せなくて」
そう言って、澪は少し照れたように笑う。
「でも名前を聞いて、あっ、って。昔のこと、いろいろ思い出しちゃって……」
「なんか青春って感じだね。懐かしいってなるよね~」
「はい。つい、話し込んじゃって……でも、ちゃんと1時間は守って戻りました」
「大丈夫だよ。結城ちゃんがリラックスしてるの、珍しくてちょっと安心したかも」
「あ……ありがとうございます」
澪は小さく笑って、ペットボトルの水に口をつけた。
その会話の背後で――
通りかかった崇雅の足が、一瞬止まる。
通路を歩いていた崇雅の耳に、澪の柔らかい声がふと届いた。
「……大学時代に、同じサークルだった人なんです。びっくりしました」
また旧友との話。
楽しそうに笑う、その声。
それは、職場での彼女からはあまり聞かれない、素の響きだった。
言葉の端々から、ほんの少し素の澪に戻っているのがわかる。
職場では見せない空気感。
自分の前では――あまり見たことのない緩んだ笑顔。
(……楽しそうだな)
それは、決して咎めるような感情ではなかった。
ただ、胸の奥が静かに熱を帯びる。
彼女が楽しそうに旧友の話をしている。
それだけのことだ。
恋愛感情があるわけではない。わかっている。わかっているのに――
(“俺には、あんな声を向けたことがあったか?”)
そう思った瞬間、また、何かが鈍く軋んだ。
彼女は、自分には敬語を崩さない。
ある程度、気を張って、距離を保っているように見える。
それが、他の誰かの前では、自然と緩んでいる。
“自分の知らない澪”を目の当たりにして、
届かない時間、過去の記憶に、心をかき乱される。
(大学時代のサークル……)
彼女がかつて、誰と、どんな関係で、どんな時間を過ごしていたのか。
その全てを知ることはできない。
それが、たまらなく悔しいと思ってしまった。
(……悪いことをしているわけじゃない)
(仕事の合間の、ただの雑談だ)
そう頭では理解しながら、崇雅はその場を離れた。
表情は変えず、足取りもそのままに。
だが、その瞳の奥には、いつもの冷静さとは異なる色が宿っていた。
静かに、けれど着実に広がる、澪だけに向けて燃え上がる黒い炎が。
110
あなたにおすすめの小説
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―
七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。
彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』
実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。
ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。
口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。
「また来る」
そう言い残して去った彼。
しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。
「俺専属の嬢になって欲しい」
ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。
突然の取引提案に戸惑う優美。
しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。
恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。
立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。
冷徹社長の「契約」シンデレラ~一夜の過ちから始まる溺愛ルート!? 嘘つきな私と不器用な御曹司のオフィスラブ~
藤森瑠璃香
恋愛
派遣社員の桜井美月は、ある夜、会社の懇親会で泥酔し、翌朝目覚めると隣には「氷の彫刻」と恐れられる若き社長・一条蓮がいた。まさかの一夜の過ち(実際には何もなかったが、美月は勘違い)に青ざめる美月に、蓮は「責任は取る。だがこれは恋愛ではない、契約だ」と、彼の抱えるある事情のため、期間限定で恋人のフリをするよう持ちかける。破格の報酬と蓮の真剣な様子に、美月は契約を受け入れる。
定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました
藤森瑠璃香
恋愛
「お先に失礼しまーす!」がモットーの私、中堅社員の結城志穂。
そんな私の天敵は、仕事の鬼で社内では氷の王子と恐れられる完璧美男子・一条部長だ。
ある夜、忘れ物を取りに戻ったオフィスで、デスクで倒れるように眠る部長を発見してしまう。差し入れた温かいスープを、彼は疲れ切った顔で、でも少しだけ嬉しそうに飲んでくれた。
その日を境に、誰もいないオフィスでの「秘密の夜食」が始まった。
仕事では見せない、少しだけ抜けた素顔、美味しそうにご飯を食べる姿、ふとした時に見せる優しい笑顔。
会社での厳しい上司と、二人きりの時の可愛い人。そのギャップを知ってしまったら、もう、ただの上司だなんて思えない。
これは、美味しいご飯から始まる、少し大人で、甘くて温かいオフィスラブ。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)
久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。
しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。
「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」
――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。
なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……?
溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。
王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ!
*全28話完結
*辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。
*他誌にも掲載中です。
その卵焼き俺にも食わせろ!―ワンナイトラブから逃げたはずなのに、契約で縛られてました!?―
鷹槻れん
恋愛
新沼 晴永(にいぬま はるなが/36)は俺様上司として恐れられる鬼課長。
そんな彼に毎日のように振り回されるのが、犬猿の仲(だと彼女が勝手に思っている)部下の小笹 瑠璃香(こざさ るりか/28)だ。
飲み会の夜、酔ってふにゃふにゃになった瑠璃香を晴永がまんまと持ち帰り――翌朝待っていたのはワンナイトの証拠と契約結婚の書類!?
晴永には逃げようとする瑠璃香を逃がすつもりはないらしい!?
笑いと誤解と契約の、ドタバタラブコメディ!
○表紙絵は市瀬雪さんに依頼しました♥(作品シェア以外での無断転載など固くお断りします)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる