【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第107話・俺の知らない君が、そこにいた

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デスクに戻ってからも、崇雅の脳裏には、澪の笑顔が焼きついて離れなかった。

澪が、他の男と――自分以外の誰かと、あんなふうに笑う顔が。

「お疲れ様です、戻りました。……資料、ここに」

「……ああ」

部下の報告にも、崇雅は表情を変えず、最低限の返答だけを返す。

資料に目を通しながらも、文字は頭に入ってこない。

いつも通りに振る舞っているつもりだったが、部署の空気は微かに冷えていた。
数度、温度が下がったような、張りつめた静けさを――部下たちは敏感に察していた。

そのとき、内線が鳴る。

「東條です」

《お疲れさまです、西岡です。F社との件、無事に契約までまとまりました。書類関係も、こちらで手配済みです》

「……そうか」

ひとことだけ返して、通話を切る。
その手が、パソコンのキーボードに戻る。

けれど、文字を打つ手はすぐに止まり、視線は画面をすり抜けて、虚空をさまよう。

(俺は……何をやっている)

心のどこかで、自嘲気味にそう呟いた。

澪が、誰と笑っていようと、何をしていようと、信じていればいい。
彼女はそんな軽い女ではないし、学生時代の旧友と再会して笑顔を見せることが、何の罪になるというのか。

そう、理屈ではわかっている。

それでも――。

(なぜ、俺は……あんな顔を、見たくなかったと思っているんだ)

心の奥底から、黒く鈍い感情が這い上がってくる。
重く、湿った独占欲が、じくじくと胸を蝕んでいた。


その頃。
オフィスに戻ってきた澪は、ランチの余韻を残したまま、頬をほんのり赤らめていた。
旧友との楽しかった時間が、彼女の表情にやわらかい色を添えている。

「あ、結城ちゃん。おかえりなさい」

「お疲れさまです。ただいま戻りました」

澪がペコリと頭を下げると、隣のデスクの先輩が声をかけてきた。

「さっき、外で一緒にいた人ってクライアントさん?」

「……あ、はい。F社の担当の方で」

「すごく仲よさそうに見えたけど……知り合いとか?」

「えっと……大学時代に、同じサークルだった人なんです。びっくりしました」

「へえ~、そんな偶然あるんだね!」

「本当に。向こうが先に気づいてくれたんですけど……私、全然思い出せなくて」

そう言って、澪は少し照れたように笑う。

「でも名前を聞いて、あっ、って。昔のこと、いろいろ思い出しちゃって……」

「なんか青春って感じだね。懐かしいってなるよね~」

「はい。つい、話し込んじゃって……でも、ちゃんと1時間は守って戻りました」

「大丈夫だよ。結城ちゃんがリラックスしてるの、珍しくてちょっと安心したかも」

「あ……ありがとうございます」

澪は小さく笑って、ペットボトルの水に口をつけた。


その会話の背後で――
通りかかった崇雅の足が、一瞬止まる。
通路を歩いていた崇雅の耳に、澪の柔らかい声がふと届いた。

「……大学時代に、同じサークルだった人なんです。びっくりしました」

また旧友との話。
楽しそうに笑う、その声。
それは、職場での彼女からはあまり聞かれない、素の響きだった。

言葉の端々から、ほんの少し素の澪に戻っているのがわかる。
職場では見せない空気感。
自分の前では――あまり見たことのない緩んだ笑顔。

(……楽しそうだな)

それは、決して咎めるような感情ではなかった。
ただ、胸の奥が静かに熱を帯びる。

彼女が楽しそうに旧友の話をしている。
それだけのことだ。
恋愛感情があるわけではない。わかっている。わかっているのに――

(“俺には、あんな声を向けたことがあったか?”)

そう思った瞬間、また、何かが鈍く軋んだ。

彼女は、自分には敬語を崩さない。
ある程度、気を張って、距離を保っているように見える。
それが、他の誰かの前では、自然と緩んでいる。

“自分の知らない澪”を目の当たりにして、
届かない時間、過去の記憶に、心をかき乱される。

(大学時代のサークル……)

彼女がかつて、誰と、どんな関係で、どんな時間を過ごしていたのか。
その全てを知ることはできない。

それが、たまらなく悔しいと思ってしまった。

(……悪いことをしているわけじゃない)
(仕事の合間の、ただの雑談だ)

そう頭では理解しながら、崇雅はその場を離れた。
表情は変えず、足取りもそのままに。

だが、その瞳の奥には、いつもの冷静さとは異なる色が宿っていた。
静かに、けれど着実に広がる、澪だけに向けて燃え上がる黒い炎が。
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