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第108話・その夜、すべてが崩れた
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終業時間が迫る夕方。
オフィスの空気はどこか張り詰めていて、誰もが静かにキーボードを叩いている。
澪は自席で、進行管理の書類に目を通していた。
契約まで無事に漕ぎ着けたが、ここからが本番。
初動でつまずけば、後々の工程に響く。
小さなミスも見逃さないよう、一つ一つを丁寧に確認していた、そのとき――
「……帰るぞ」
その声は、低く、そして異様なほど静かだった。
澪は思わず肩を跳ねさせ、そっと振り返る。
そこには、崇雅が立っていた。
いつも通りのスーツ姿、冷静に整った表情。
なのに、その目だけが違っていた。
燃えるような熱を孕みながら、氷のように静かで冷たい。
なにかを必死に抑え込んでいるような……そんな、異様な圧。
「……あの、まだ少しだけ作業が残っていて……」
無意識に、澪の声は控えめになっていた。
理由もないのに、胸の奥がざわついて、心臓が小さく跳ねる。
「今じゃないと、だめですか?」
懸命に言葉を探し、静かに問うたが――
崇雅は、一言も返さなかった。
ただ、無言のまま澪を見つめている。
けして乱暴ではない。
けれどその視線には、“今すぐに”という明確な圧があった。
(……なにか、怒ってる……? でも、どうして……?)
理由は思いつかない。
今日、崇雅とはほとんど顔を合わせていない。
それでも、昼過ぎからの張りつめた空気だけは、社内全体が感じ取っていた。
部下たちも気づいている。
いつもは理知的な部長が、今日はどこか異常なほど静かだったこと。
そのため、澪の隣席の同僚はこっそり囁くように呟いた。
(……頼む、帰ってくれ……)
その空気を読み取った澪は、ほんの数秒だけ視線を泳がせ、静かに息を吐いた。
「……わかりました。今、支度します」
少しだけ残念そうに、それでも笑みを作って席を立つ。
崇雅はその姿を無言で見届けると、何も言わずに踵を返し、エレベーターホールへ向かっていった。
フロアに響く足音だけが、ふたりの間を繋いでいた。
だれも、なにも言えなかった。
言える空気ではなかった。
車に乗り込んでからも、沈黙は続いた。
エンジン音と、ウィンカーの控えめな音だけが車内を満たしている。
澪は助手席で、そっと崇雅の横顔を伺った。
表情は読めない。
いつもと同じように見えるのに、どこか違っていた。
静かすぎるのだ。
呼吸すら聞こえないほどに。
「……あの」
耐えきれず、澪は口を開いた。
「なにか……怒ってますか?」
小さな声だった。
けれど、それでも空気を裂くには十分だった。
信号待ちで止まった車の中、崇雅がゆっくりと顔をこちらに向ける。
「……どうしてそう思う?」
声は落ち着いていた。
けれど、その瞳の奥には、濁った感情が滲んでいる。
「……様子が、少し……いつもと違ってたから」
「……そうか」
それきり、崇雅は視線を戻し、アクセルを踏んだ。
沈黙が戻る。
逃げ場のない空気が、また二人を包み込んだ。
帰宅後ー。
玄関のドアが閉まった、その瞬間だった。
澪は腕を引かれ、壁に押しつけられる。
「っ――」
驚きで目を見開く間もなく、強引なキスが降ってくる。
息すら奪うような、熱を孕んだキス。
「っ、ん……はっ……崇雅、さん……」
わずかに口を離した隙に名を呼ぶと、再び唇を塞がれた。
焦りと衝動、そのすべてが滲むような、深く、強いキス。
脚が、がくりと崩れる。
腰が抜けたわけではない。
けれど――支えがなければ、もう立っていられなかった。
「……っ……」
崇雅の手が、迷いなく腰に回る。
そのまま抱き上げられた身体が、ふわりと浮かび上がる。
「ちょ、ちょっと……」
抗議の声はかすれていた。
視界が揺れて、思考も追いつかない。
(………どうして……?)
答えの代わりに、崇雅の横顔が見えた。
まっすぐに前を見据えて歩くその表情は、
静かなのに、どこか切羽詰まっていて
――何かを押し殺すような目をしていた。
寝室の扉が開かれる。
重たい音が、妙に遠く響いた。
ベッドの縁まで来たところで、ようやく澪は言葉を紡ぐ。
「……ま、まだ……お風呂……」
けれど、その言葉は最後まで言いきれないまま、そっとベッドの上に降ろされる。
すぐに、触れる指先。
服の上からでもわかる、熱を帯びた掌が、迷いなく澪の肌をたどっていく。
「……待って、崇雅さん、今日は……なんか……」
「……もう限界だ」
かすれた声で、ぽつりと落とされたひと言。
その声音に宿る感情が、澪の胸を強く締めつけた。
抗う気持ちは確かにあったはずなのに、彼の手が触れるたび、意識が溶けていくようだった。
オフィスの空気はどこか張り詰めていて、誰もが静かにキーボードを叩いている。
澪は自席で、進行管理の書類に目を通していた。
契約まで無事に漕ぎ着けたが、ここからが本番。
初動でつまずけば、後々の工程に響く。
小さなミスも見逃さないよう、一つ一つを丁寧に確認していた、そのとき――
「……帰るぞ」
その声は、低く、そして異様なほど静かだった。
澪は思わず肩を跳ねさせ、そっと振り返る。
そこには、崇雅が立っていた。
いつも通りのスーツ姿、冷静に整った表情。
なのに、その目だけが違っていた。
燃えるような熱を孕みながら、氷のように静かで冷たい。
なにかを必死に抑え込んでいるような……そんな、異様な圧。
「……あの、まだ少しだけ作業が残っていて……」
無意識に、澪の声は控えめになっていた。
理由もないのに、胸の奥がざわついて、心臓が小さく跳ねる。
「今じゃないと、だめですか?」
懸命に言葉を探し、静かに問うたが――
崇雅は、一言も返さなかった。
ただ、無言のまま澪を見つめている。
けして乱暴ではない。
けれどその視線には、“今すぐに”という明確な圧があった。
(……なにか、怒ってる……? でも、どうして……?)
理由は思いつかない。
今日、崇雅とはほとんど顔を合わせていない。
それでも、昼過ぎからの張りつめた空気だけは、社内全体が感じ取っていた。
部下たちも気づいている。
いつもは理知的な部長が、今日はどこか異常なほど静かだったこと。
そのため、澪の隣席の同僚はこっそり囁くように呟いた。
(……頼む、帰ってくれ……)
その空気を読み取った澪は、ほんの数秒だけ視線を泳がせ、静かに息を吐いた。
「……わかりました。今、支度します」
少しだけ残念そうに、それでも笑みを作って席を立つ。
崇雅はその姿を無言で見届けると、何も言わずに踵を返し、エレベーターホールへ向かっていった。
フロアに響く足音だけが、ふたりの間を繋いでいた。
だれも、なにも言えなかった。
言える空気ではなかった。
車に乗り込んでからも、沈黙は続いた。
エンジン音と、ウィンカーの控えめな音だけが車内を満たしている。
澪は助手席で、そっと崇雅の横顔を伺った。
表情は読めない。
いつもと同じように見えるのに、どこか違っていた。
静かすぎるのだ。
呼吸すら聞こえないほどに。
「……あの」
耐えきれず、澪は口を開いた。
「なにか……怒ってますか?」
小さな声だった。
けれど、それでも空気を裂くには十分だった。
信号待ちで止まった車の中、崇雅がゆっくりと顔をこちらに向ける。
「……どうしてそう思う?」
声は落ち着いていた。
けれど、その瞳の奥には、濁った感情が滲んでいる。
「……様子が、少し……いつもと違ってたから」
「……そうか」
それきり、崇雅は視線を戻し、アクセルを踏んだ。
沈黙が戻る。
逃げ場のない空気が、また二人を包み込んだ。
帰宅後ー。
玄関のドアが閉まった、その瞬間だった。
澪は腕を引かれ、壁に押しつけられる。
「っ――」
驚きで目を見開く間もなく、強引なキスが降ってくる。
息すら奪うような、熱を孕んだキス。
「っ、ん……はっ……崇雅、さん……」
わずかに口を離した隙に名を呼ぶと、再び唇を塞がれた。
焦りと衝動、そのすべてが滲むような、深く、強いキス。
脚が、がくりと崩れる。
腰が抜けたわけではない。
けれど――支えがなければ、もう立っていられなかった。
「……っ……」
崇雅の手が、迷いなく腰に回る。
そのまま抱き上げられた身体が、ふわりと浮かび上がる。
「ちょ、ちょっと……」
抗議の声はかすれていた。
視界が揺れて、思考も追いつかない。
(………どうして……?)
答えの代わりに、崇雅の横顔が見えた。
まっすぐに前を見据えて歩くその表情は、
静かなのに、どこか切羽詰まっていて
――何かを押し殺すような目をしていた。
寝室の扉が開かれる。
重たい音が、妙に遠く響いた。
ベッドの縁まで来たところで、ようやく澪は言葉を紡ぐ。
「……ま、まだ……お風呂……」
けれど、その言葉は最後まで言いきれないまま、そっとベッドの上に降ろされる。
すぐに、触れる指先。
服の上からでもわかる、熱を帯びた掌が、迷いなく澪の肌をたどっていく。
「……待って、崇雅さん、今日は……なんか……」
「……もう限界だ」
かすれた声で、ぽつりと落とされたひと言。
その声音に宿る感情が、澪の胸を強く締めつけた。
抗う気持ちは確かにあったはずなのに、彼の手が触れるたび、意識が溶けていくようだった。
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