【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第113話・“いつか”を信じられるように

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しばらくの沈黙のあと、澪はふっと小さく息を吐いた。

「……私……子どもがほしくないわけじゃないんです」

ぽつりと落とされたその言葉は、ほんのわずかに震えていた。

「でも……もう少し、今のままでいたいなって、思ってて……」

視線はまだ、崇雅には向いていない。
宙を見つめたままの瞳が、迷いの色を帯びて揺れている。

「やっと、仕事でも少しずつ認められるようになって……任せてもらえる案件も増えてきて……。まだ足りないって思うところもあるけど、もっと頑張りたいって、そう思ってたから……」

澪はゆっくりと言葉を重ねていく。

「だから、今……もし本当にそうなってたらって考えると、やっぱり……不安になります」

そう言って顔を上げた澪の瞳には、正直な気持ちがそのまま滲んでいた。

「……崇雅さんのことは、大好きです。
ちゃんと未来のことも考えてるし、いつか――って、思ってます。
でも、今は……もうちょっとだけ、自分で自分を誇れるようになってから、迎えたかった、です」

言い終えると、澪はそっと視線を落とした。

泣いているわけではなかった。
けれど、胸の奥に詰まっていた思いをすべて吐き出すような、そんな決意が感じられた。

崇雅はしばらく黙ったまま、ただ澪を見つめていた。
そして、静かに息をつく。

「……そう思うのは、当然だ」

声は優しく、どこまでも柔らかだった。

「澪は、今までもずっと全力で頑張ってきた。その努力を見てきた俺だからこそ……無理に何かを背負わせるなんて、絶対にしたくない」

彼は少し身を乗り出して、澪の手の上に、自分の手を重ねた。

「もしそうなってしまっても、俺は絶対に逃げない。でも……まずは、澪の不安をひとつずつ減らしていく。
そのためなら、俺はなんでもする。
だから……今日、ちゃんと病院に行こう」

そう言った崇雅の目は、どこまでも真っ直ぐだった。

「……澪を守りたい。そのために、ちゃんと向き合いたい」

その言葉に、澪の心はじんわりと温かさに包まれていく。

何もかもひとりで抱え込まなくていい。
この人がいてくれる限り――私はもう、ひとりじゃない。

「……ありがとうございます」

そう呟いた澪の声は、少しかすれていた。
けれどその顔には、微かに安堵の笑みが浮かんでいた。

崇雅はスマートフォンに視線を落とすと、手早く何かを入力する。
入力が終わると彼は、静かに口を開いた。

「15時に予約取れた。すぐ近くの産婦人科だ。車で5分もかからない」

「……わかりました」

澪は素直にうなずいた。
朝よりも体は少し楽になってきている。
気持ちの面でも、崇雅と話せたことで、ほんの少しだけ落ち着けた。

「行く前に……その、お風呂に入りたいです」

その申し出に、崇雅はすぐにうなずいた。

「準備する。湯温はいつもよりぬるめにしておくが、長く浸からなくてもいい。……無理はしないで」

「……はい」

彼はすぐに動き出し、バスルームへ向かう。
ぬるめに設定した湯を張り、床には滑り止めマットを敷き、タオルと着替えも整える。
その合間にも、リビングの澪の様子を何度も気にかけていた。

準備が整う頃、澪はゆっくりとソファから立ち上がり、自分の足でバスルームへ向かってくる。

「一緒に行こう。倒れたら大変だ」

「……すみません、ありがとうございます」

崇雅はすぐに隣に立ち、片腕で澪の腰を支えるようにしながら、一緒に歩く。
澪は少しだけ照れたように目を伏せて、それでも黙って彼に寄り添った。

「入ってる間、リビングには行かない。すぐ近くにいるから、何かあったら呼べ」

「……はい。ありがとうございます」

澪はバスルームの扉を閉める前に、そっと振り返った。

「髪、乾かすの……お願いしてもいいですか?」

崇雅は短くうなずいた。

「もちろん」

扉が閉まると、しばらくして微かな水音が響き始めた。

一人きりの浴室で、澪はそっと湯船に体を沈める。
ぬるめのお湯がじんわりと肌に沁みて、自然と息が漏れた。

昨夜のことが思い出される。
けれど、悲しいだけではなかった。

崇雅の言葉も、行動も、全部ひっくるめて――それでもこの人と一緒にいたいと、今は心から思える。

体に残る疲れを湯に溶かすように、澪はしばらく静かに目を閉じていた。


数十分後、バスルームから上がった澪は、濡れた髪をタオルで押さえながら崇雅とリビングへ戻ってきた。

「無理してないか?」

「……大丈夫です」

「こっち。座って」

崇雅に促され、ソファにもたれるように腰を下ろす。
崇雅はタオルを取り替え、ドライヤーのスイッチを入れた。

温かな風と、丁寧に髪をすくう指先。
その優しさに包まれながら、澪はぽつりとこぼす。

「……本当に、優しいですね」

思わずこぼれた言葉に、崇雅は少しだけ手を止めて、視線を逸らすように微笑んだ。

「当然のことをしてるだけだ」

ドライヤーを終えると、澪は用意された服に着替える。
柔らかな素材のカットソーとロングスカート――どれも、体調を気遣って選ばれたものだった。

身支度が整い、出発の準備を進めるふたり。
時計の針は、すでに14時半を指していた。
予約の時間まで、あと少し。

車に乗り込むと、崇雅がハンドル越しに澪を見つめる。

「体調、大丈夫か?」

「はい。……大丈夫です」

エンジンがかかり、車は静かに動き出す。

信号待ちで止まった時、ふと、どちらからともなく手を伸ばし、指先が絡まった。

言葉よりも深く、想いを伝えるには、それで十分だった。

午後のやわらかな陽射しの中――
ふたりを乗せた車は、静かに産婦人科へと向かっていった。
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