【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第114話・不安の先にある、あなたの手

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予約時間の少し前に、ふたりは産婦人科に到着した。

受付で名前を告げると、すぐに案内があり、待合室の一角で呼ばれるのを待つことに。
澪は緊張した面持ちで椅子に座り、崇雅はその手をそっと握って寄り添った。

「……俺も、一緒に診察室に入る」

澪は少し驚いた顔をしたが、すぐに「ありがとうございます」と小さく返した。

やがて名前が呼ばれ、ふたりは並んで診察室へと入る。

中には穏やかな雰囲気の女性医師が座っており、軽く会釈をすると、柔らかな声が迎えてくれた。

「こんにちは。おふたりでの来院ですね。今日はどういったご相談でしょうか?」

崇雅が、少しだけ緊張を滲ませながら口を開いた。

「昨夜……避妊に失敗してしまって。事情があって、アフターピルの処方をお願いできればと思っています。体調面の不安もあるので、診ていただけると助かります」

医師は頷きながら、カルテにメモを取りつつ、澪の方を見た。

「避妊の失敗は、昨日の夜ですね?」

「……はい」

「持病や常用薬、アレルギーなどはありますか?」

「特には、ありません」

「今現在、発熱や強い頭痛、吐き気などの症状は?」

「少し疲れてはいますが、それ以外は……大丈夫です」

医師は丁寧に問診を続け、身体に過度な負担がかかっていないかを確認し終えると、やがて優しい表情のまま説明を始めた。

「緊急避妊薬は、服用のタイミングが早ければ早いほど効果が高いです。今の時点であれば、問題なく処方可能です」

澪が小さく頷く。

「ただ、副作用として一時的な吐き気や頭痛、眠気、生理周期の乱れなどが起こることがあります。場合によっては、不正出血があることも。何か、体調の変化があればすぐに連絡してくださいね」

崇雅がすぐに口を挟んだ。

「もし何かあったときは、こちらに連絡すれば?」

「はい。電話でも大丈夫ですし、診療時間内であれば直接来ていただいても構いません」

医師はカルテに記入しながら、優しく言葉を添えた。

「では、緊急避妊薬の処方を出しておきますね。受付で処方箋を受け取ってください。お薬は、すぐ隣の薬局で受け取れます」

「……ありがとうございます」

ふたりは深く礼をして診察室をあとにし、待合室へと戻った。

名前を呼ばれ窓口へ。
処方箋が手渡され、澪は小さく会釈し、崇雅と並んでクリニックをあとにする。

外に出た瞬間、澪は静かに息をついた。
緊張の糸が、少しだけ緩んだようだった。
崇雅はそんな彼女の背をそっと支えながら、薬局へと向かった。

クリニックに隣接する薬局で、処方箋を渡し、薬剤師から服用方法や副作用についての説明を改めて受けた後、ふたりは静かに車に戻り、自宅へと帰った。


帰宅後——。

「水、持ってくる」

崇雅はすぐにキッチンへ向かい、常温のミネラルウォーターをコップに注いで戻ってきた。
澪はソファに腰掛けたまま、手元の小さな薬包を見つめていた。

「……飲みます」

「ああ。……俺はすぐ横にいる。無理はしなくていい」

差し出されたコップを受け取る澪の手が、かすかに震えているのを崇雅は見逃さなかった。

ゆっくりと深呼吸をひとつ置いてから、澪は薬を口に含み、水で流し込む。
飲み終えたあと、目を閉じて静かに息を吐いた。

コップを受け取る手が、ほんの少しだけ震えているのを崇雅は見逃さなかった。

「……大丈夫か?」

崇雅の問いに、澪は小さく頷いた。
けれどそのまま、視線を伏せて沈黙したまま。
その沈黙の奥にある感情は、言葉にせずとも崇雅に伝わっていた。

崇雅はそっと隣に腰を下ろし、澪の手を包むように握る。

「……副作用が出たら、すぐに教えてくれ。何があっても、俺が全部対応する」

「……はい、ありがとうございます」

言葉は短かったけれど、そこに込められた気遣いは痛いほど伝わっていた。

薬を服用してからしばらく、ふたりは言葉を交わさぬまま、静かに時間を過ごした。

崇雅は澪のすぐ隣に腰を下ろし、時折そっと彼女の表情をうかがいながら、何も言わずに寄り添っていた。

やがて30分ほどが経った頃、崇雅は静かに声をかけた。

「……澪、少しベッドで横になろう。今日は、身体を休めるのがいちばんだ」

立ち上がろうとしたその瞬間、澪は首を振った。

「……まだ、ここにいたいです」

その声はかすれていたけれど、はっきりとした意思がこもっていた。

「……崇雅さんの、そばにいたいです」

崇雅は、驚いたように彼女を見た。
普段なら無理をさせたくない一心で、すぐに抱き上げてでもベッドに運んだかもしれない。

けれど、今の澪の瞳は少し揺れていて。
言葉にしない不安を、精一杯押し込めているのがわかった。

「……副作用、出てきた?」

「ううん。まだ大丈夫です。でも……」

澪は少しだけ視線を落とす。

「……もしかしたら、妊娠してるかもしれない。
もしかしたら、副作用が出るかもしれないって。……考えたら、なんだか怖くなって」

言葉にしたとたん、澪の肩がふっと小さく震えた。

崇雅は何も言わずに彼女を抱き寄せ、ぎゅっと胸元に抱きしめる。

「……ごめん」

心からの、たったひと言だった。

彼女の身体にどれだけの不安と負担をかけているか。
分かっていたのに、あの夜、感情に任せてしまった。

澪は何も責めていない。
それでも、全てを澪に背負わせていることに、崇雅は堪え難い痛みを感じていた。

「……俺がちゃんとコントロールすべきだった。
なのに、自分の気持ちばかり優先して……澪に、全部押しつけた」

「……そんなふうに思ってないですよ。私も、受け入れましたから」

そう言いつつも、彼女の声はかすかに弱い。

「……でも、ちょっとだけ……不安で。
だから今は、崇雅さんのそばが、いちばん落ち着きます」

「……ずっと傍にいる。澪が安心できるまで、どこにも行かない」

崇雅はそう言って、そっと澪の髪を撫でる。
その指先は、どこまでも優しく、深い愛情を含んでいた。

少しの間、崇雅の胸に身を預けていた澪は、やがて顔を上げた。

「……ねえ、崇雅さん」

「ん?」

「……膝、貸してもらってもいいですか?」

意外そうな顔をした崇雅だったが、すぐに柔らかな笑みを浮かべて応じる。

「もちろん」

ソファに深く座り直し、膝の上をそっと示すと、澪はそこに頭を預けた。
柔らかい感触と、彼の体温。
そのどちらもが、今の澪にとって安心できる拠り所だった。

「……大丈夫か?」

「はい。すごく落ち着きます……」

小さく返したその声に、崇雅は何も言わず、優しく髪を撫で続ける。
絡まないように、子どもをあやすように――そっと、静かに。

「……澪が安心できるなら、何時間でもこうしてる」

その言葉に、澪は目を閉じたまま、ふっと微笑んだ。

しばらくして、崇雅は膝で眠りについた澪の顔を見つめながら、そっと息をついた。

(もっと、ちゃんとしないといけない)

どれだけ優しくしても、どれだけ尽くしても、
たった一度の過ちで、澪の心と身体に残るものは大きい。

――それでも。

今、彼女が自分の膝で静かに眠ってくれていることが、崇雅にとって何よりの救いだった。

彼は動かぬまま、そっとその髪を撫で続ける。
澪が目を覚ますそのときまで、ずっと、そばで。
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