【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第124話・心を殺して、生きてきた

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崇雅が一礼し、落ち着いた声で挨拶をする。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。結婚のご挨拶に伺いました」

その言葉を受け、澪も深く頭を下げた。

「結城澪と申します。本日は、お忙しい中お時間を頂戴し、ありがとうございます」

彼女の声はやや硬く、それでも誠実さがにじむ丁寧な口調だった。

しかし、応接間の空気は張りつめていた。

父・東條社長は無表情のまま、腕を組んで椅子に深く腰掛けている。
母はその隣でうつむいたまま、視線を上げようとしない。
唯一、崇徳だけが穏やかな表情でふたりに視線を向けていた。

しばしの沈黙ののち、父は低く、威圧的に口を開いた。

「……結婚、か」

声は抑えていたが、明らかに怒気を孕んでいる。

「お前たちの“付き合い”については把握していた。だが……まさか本気だったとはな」

視線は崇雅を貫いたまま、次の瞬間、冷たい刃のように澪へと移る。

「——調べさせてもらった。お前の“相手”についてな」

その言葉に、澪の肩がわずかに震える。
崇雅は彼女の手をそっと握るが、その様子を見た父は鼻で笑った。

「母子家庭育ち、地方の公立高校から国立大学。父親は不在。妹はすでに嫁ぎ、家系としての基盤もなければ、社会的影響力もない。——君に何がある? 何をもって“東條の嫁”を名乗るつもりだ?」

淡々とした口調でありながら、言葉のひとつひとつが澪を切り裂くようだった。

「君の育った環境に“品”はない。学歴を並べようが、身なりを整えようが、所詮は庶民の出。——東條の名を名乗るには、あまりに軽すぎる」

空気が凍りつく。
しかし父の言葉は止まらない。

「——それとも、崇雅。お前はそういう女が好みだったのか? 育ちが悪く、地に足もつかず、媚びへつらうしか取り柄のない女に」

澪の顔から血の気が引いていく。

「……くだらない。——情に流されて人生を棒に振るとは、愚か者の極みだな」

次に放たれた矛先は、崇雅自身だった。

「お前には期待していなかったが、まさかここまで“見る目がない”とはな。
会社を任せる以前の問題だ。女一人、まともに選べない男が、何を背負えるというんだ」

澪と崇雅の全てを否定する父の言葉に、応接間の空気が更に凍りついた。

澪は、絞り出すような呼吸だけで必死に姿勢を保っている。
その手はかすかに震えていた。

だが、崇雅自身は何一つ動揺していなかった。
父に否定されるのは、慣れきっていたからだ。

幼い頃からそうだった。
褒められた記憶などない。
何をしても兄と比べられ、「劣っている」「出来損ない」「東條の名を汚すな」と罵られてきた。

母は父に逆らえず、優秀な兄に付きっきり。
そんな家庭の中で、崇雅はただ感情を殺し、最低限言われたことだけをこなすようになった。
——期待することを、やめたのだ。

今さら何を言われようと、心は傷つかない。

しかし——

(澪を、俺の妻になる人間を、傷つけるのは許さない)

ゆっくりと、崇雅は顔を上げた。

「——もういいだろう」

低く、しかしはっきり通る声で、崇雅が口を開いた。

「あなたが俺をどう評価しようと構いません。
けれど、彼女を貶めるのは——やめていただきたい」

父の眉がわずかに動く。

「澪が“東條の嫁“にふさわしくないと言うのなら、それでいい。
俺は——彼女を東條の嫁にするつもりはありません」

一瞬、空気が止まった。

「……俺が、結城家に婿入りします」

沈黙。
父も、母も、崇徳さえも、その言葉の意味を一瞬で理解できずにいた。

「……お…前…な、にを……?」

父がようやく絞り出すように声を発した。

「婿入り、だと……? お前が、その女の姓を名乗ると……!?」

「ええ」

崇雅は一歩も退かず、まっすぐ父を見据えた。

「俺は澪と結婚したい。それがすべてです。
東條の名前がそれを阻むなら、そんなものは要りません」

「ふざけるな……!恩を仇で返すのか……!」

父の怒りが一気に膨れ上がった。

「誰がここまで育ててやったと思っている!? どれだけ金と時間をかけてきたかわかっているのか!? 
お前は崇徳と比べて常に劣っていた。家の名に泥を塗り続けてきたくせに、何を今さら——!」

「ええ、言われた通りに生きてきました。
感情を捨て、心を殺して、最低限の義務だけを果たしてきた。
でも今、ようやく“守りたい人”を見つけたんです。
彼女です。俺は、澪を守ります」

「……勝手にしろ!」

父は怒鳴り声を響かせ、椅子を蹴るようにして立ち上がる。

「お前のような息子は、もういらん!二度とこの家の敷居を跨ぐな!」

怒りに満ちた足音とともに、父は応接間を出て行った。
母は一瞬だけ澪を見つめ、何も言わずその後を追う。

——ドアが閉まり、静寂が落ちる。

残された応接間には、崇雅と澪、そして崇徳の3人。
重苦しい空気の中で、澪の指先はまだ、微かに震えていた。
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