【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第134話・何も変わらない毎日が、いちばんの幸せ

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結婚式から数週間が過ぎ、季節はすっかり冬の気配を帯びていた。
朝晩は肌寒くなり、澄んだ空気のなかに冷たい風が混じる。
あの日の余韻を残す暇もなく、現実は容赦なく動き続けていた。

いつものように出社した朝。
執務フロアに入ると、ひやりとした空気と打ち合わせの声が飛び交い、いつもの慌ただしさが迎えてくれる。

澪は軽く息を整え、手帳を開いて今日の予定を確認した。

「……ふう。今日も盛りだくさん」

席に着くと、すでにデスクには資料の束が山のように積まれていた。
けれど最近は、不思議とその忙しさが重荷には感じなくなっていた。

(崇雅さんがいるから……かな)

ふと視線を上げると、少し離れた席でタイピングを続ける東條部長――今は「結城崇雅」――の姿が見える。
社内では旧姓のままだが、ふたりの関係はもう「上司と部下」だけではない。

昼休みが終わるころ、崇雅がさりげなく自分の席を離れて澪のもとへやってきた。

「……昼、食べてないだろ」

そう言って差し出されたのは、コンビニの袋。

「今朝、車の中で言ってただろ? 昼はパンがいいって」

「……覚えてたんですね」

「夫だからな」

ぼそりと返されたその一言に、澪は思わず笑ってしまう。

「ありがとうございます。いただきます」

仕事中はあくまで上司と部下としての距離を守っている。
でも、こうしたささやかな気遣いがあるだけで、澪の一日はふわりとやわらかく色づくのだった。

その夜、ふたりはほぼ同じタイミングで仕事を終え、エレベーターに乗り込んだ。
静かな社内で、エレベーターの灯りだけがやわらかくふたりを照らす。

「明日の午前中は、澪の案件チェックを、俺の方で進めておく」

「……えっ?崇雅さん、明日は打ち合わせが立て込んでませんでしたか?」

「朝イチの会議がリスケになった。だから澪は他の業務を優先していい」

「……ありがとうございます。じゃあ、お礼に今日の夕飯は私が作ります。簡単なものでよければ」

「ああ。一緒に作ろう」

エレベーターの扉が開くと、ふたりは無言のまま並んで歩き出す。
人気のないエントランスを抜けて、駐車場へ向かう足取りは自然と揃っていた。

いつもの黒い車に乗り込み、シートベルトを締めながら崇雅がちらりと澪に視線を送る。

「……今日も、よく頑張ったな」

「……崇雅さんもお疲れ様でした」

「ああ」

そのやりとりに、車内は一瞬だけふわりとあたたかい空気に包まれた。

生活は忙しい。
仕事も、責任も、やらなければならないことは山ほどある。

でも——

ふたりで過ごす何気ない毎日が、今は何よりも大切で、幸せだった。


帰宅後ー。

「ただいま」

「おかえり」

玄関で交わす何気ない挨拶も、すっかりふたりの日常に馴染んでいた。
スーツの上着を脱ぎながら、崇雅がぽつりと呟く。

「今夜、何にする?」

「うーん、冷蔵庫に鶏肉ありましたよね? 照り焼きとかどうですか?」

「いいな、それ。じゃあ俺は、サラダ作る」

「はい、お願いします」

エプロン姿になって、並んでキッチンに立つ。
手際よく材料を切って、調味料を用意し、火加減を見ながら進める工程。

どちらかが主導するでもなく、ごく自然に呼吸が合っている。
特別な会話はなくても、その沈黙すら心地いい。

「……やっぱり一緒に作ると、楽しいですね」

澪がぽつりとこぼすと、崇雅はわずかに笑って言った。

「澪が楽しそうだと、俺も悪くないと思える」

「……なんか、それ照れくさいです」

「事実だ」

そんなやりとりを交わしながら、ふたりで作ったご飯は、どこか優しさがにじんでいた。
特別なごちそうじゃないけれど、今日もちゃんと“隣で食べる”ことが、何よりの幸せだった。


食後の片付けを終えると、それぞれお風呂へ。
澪はリビングに戻り、ソファに腰を下ろして濡れた髪をタオルで押さえていた。

もう、自分でドライヤーをかけるという選択肢はない。
付き合い始めた頃からずっと、崇雅が乾かしてくれていたから。

そして今夜も、それは変わらない。

「澪」

バスルームから出てきた崇雅が、濡れた前髪をかき上げながら声をかける。

澪は自然に立ち上がり、いつものように彼の前にちょこんと腰かけた。

背後からふわりとタオルをかけられ、次いで柔らかい風が髪に触れる。

ドライヤーの音の中、崇雅の指先が丁寧に髪をすくように動くたび、心地よさが広がっていく。

「……今日も、ありがとうございます」

「澪が風邪ひくと困るからな」

「……それ、いつも言ってる」

「事実だから」

どこまでも変わらない、淡々とした言い方。
でも、澪にはそれが何よりも安心できた。

どんな時も、崇雅の手つきはぶれない。
毛先の乾き具合も、地肌の温度も、ちゃんと見ている。

愛情表現の形は人それぞれだけど、彼のそれはいつだって行動で示される。
黙っていても伝わる優しさが、ここには確かにあった。

「……もうすぐ乾く」

「うん……でも、もうちょっとこのままがいいです」

「甘えたいだけだろ」

「うん。ダメですか?」

「ダメなわけない」

静かな夜。ドライヤーの音だけが控えめに響く時間に、澪の頬がほんのりと緩んでいた。


髪を乾かし終えたあと、ふたりは揃って寝室へ。

特別なことは何もない、ただの一日。
けれどそこには、確かな幸せがあった。

ベッドに入ると、自然と身体を寄せ合う。

「……不思議です。何も変わってないのに、すごく心が落ち着く」

澪がぽつりとつぶやく。

「生活は何も変わらないけど――
名前の横に“夫”とか“妻”って言葉がつくの、やっぱり嬉しいです」

崇雅は小さく笑って、澪の頭を撫でる。

「変えたくなかったんだ。澪がそばにいて、笑ってる毎日を」

「……うん。私も。変わらなくてよかったです。変わるのが怖かったから」

「でも、変わらないために、俺たちはちゃんと選んだんだ。これからも、そうやって進んでいけばいい」

澪はその言葉に、そっと目を閉じて頷いた。

「……崇雅さん」

「ん?」

「明日も、その先も、ずっとこうしていたいです」

「ああ。これからもずっと隣にいてくれ」

その声に、澪の唇が自然とほころぶ。

重ねた手のひらから伝わる体温と、変わらぬ信頼。
眠りに落ちる直前、澪は彼の胸元に顔を寄せ、小さく囁いた。

「愛しています。……これからも、ずっと」

返ってきたのは、言葉ではなく、やさしいキス。

夜の静けさに包まれながら、
ふたりは変わらない日常の中で、確かにひとつの節目を越えていた。

夫婦になっても――
変わらずに、手を取り合って生きていく。

笑い合い、支え合い、時にはすれ違いながら。
何気ない日々を、ふたりで大切に積み重ねていく。
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