【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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エピローグ

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入籍から約1年ー。
最近――どうも、体がだるい。

平日も、休日も。
朝起きるのがつらくて、まぶたの重さを引きずったまま、時計を見ては慌てて支度をしていた。

最初は、気温のせいかと思った。
春の終わり。朝晩はまだ少し肌寒い。
けれど、なんとなく食欲も落ちていて、昼食を抜いた日もあった。
なんでもないようで、どこか引っかかる。
そんな違和感。

「……風邪かな?」

寝坊した休日の朝。
ぼんやりとした思考の中で、そんな言葉がふと唇から漏れた。

キッチンには、すでに崇雅が立っていた。
平日も休日も関係なく、朝は彼のほうが早い。

気がつけばいつも、珈琲の香りとトーストの焼ける匂いが部屋に広がっていた。

「おはよう」

振り返った崇雅が、湯気の立つマグを差し出してくる。
ミルク多めのカフェオレ。
澪の好みに合わせた、彼の定番の一杯。

「おはようございます…
コーヒーも…朝ご飯も、もうできてるんですね」

「ああ。サラダと目玉焼き、パンも焼いてある。すぐ食べられるが…」

「すごい……ありがとうございます……」

そう言いながら椅子に腰を下ろした澪は、マグをそっと置き、額に手を当てた。

……寝起きにしては、少し重い。
喉元には、ほんのりと吐き気に似た感覚が残っていた。

そんな澪の様子を、崇雅は見逃さない。

「……澪、最近、ずっと体調悪そうだな」

その言葉に、澪ははっと顔を上げる。
彼は真剣な目で、まっすぐにこちらを見ていた。

「もしかして……
澪、生理きているか?」

「――えっ」

心臓が跳ねた。

たしかに、最後に来たのはいつだったか。
仕事が忙しくて、ちゃんと覚えていないけど――

(……先月…今月も来てない……?)

そんなはずない、と思いながらも。
頭の中で、いくつかの出来事がつながっていく。
だるさ、眠気、食欲不振、軽い吐き気、そして……生理の遅れ。

「………もしかして……」

呟いた澪に、崇雅はそっと椅子を引いて隣に座る。
そして、ごく自然に彼女の手を取った。

「検査、してみよう。もし違ってたらそれでいい。でも、もし……」

静かな声に、澪はこくりと小さくうなずいた。
どこか現実味のなかった体の不調が、急に輪郭を持ちはじめた瞬間だった。


朝食は、目の前にあるのに手がつけられなかった。
白湯をすするだけで、胸の奥がむかついてくる。

「……ごめんなさい、ちょっと……ソファで横になってもいいですか?」

「ああ。無理するな」

崇雅はすぐに立ち上がり、澪の背を支えるようにしてリビングのソファへ。
ブランケットを肩に掛けると、澪は眉をひそめたまま静かに目を閉じた。

しばらくして――
崇雅は、上着を手に玄関に向かった。

「ちょっと薬局、行ってくる」

「……はい。ありがとうございます……」

どれだけ言葉を尽くしても、不安は拭えない。
でも、もし本当にそうだったら――。

澪は静かに目を閉じ、胸の奥でざわつく鼓動をやり過ごした。


玄関の扉が開く音で、澪はうっすらと目を開けた。
かすかに聞こえるビニール袋の音。
戻ってきた崇雅の気配。

「澪、起きられるか?」

「……はい、少しなら」

ゆっくりと上半身を起こすと、崇雅が無言でひとつの箱を手渡してきた。
白とピンクのパッケージ。――妊娠検査薬。

澪は息を呑み、少し揺れる瞳でそれを受け取った。

「……行ってきます」

「ここにいる。何があっても、大丈夫だ」

その言葉に背中を押されるように、澪は静かに立ち上がり、トイレへと向かった。


数分後。
静かな足取りで、澪がリビングへ戻ってくる。
その手には、検査薬が握られていた。

無言で、崇雅の前に座る。

「……陽性、でした」

ぽつりと、告げたその声は、どこか震えていた。
リビングの空気が静まり返る。

小さな表示。
たったそれだけのものが、未来の輪郭を描き出す。

澪は、信じられないというように、それを両手で包み込んでいた。

「……澪」

崇雅が、ゆっくりと、まるで壊れ物に触れるような手つきで、澪をそっと引き寄せる。

その腕の中に入った瞬間、心がほどけた。

澪の額が、彼の胸に触れる。
静かな鼓動が、確かにそこにあった。

「ありがとう」

囁くように、けれどしっかりと届く声。
澪の背を、崇雅の大きな手が優しく包む。

澪はそっと目を閉じた。

涙は出なかった。
それでも、胸に広がっていくぬくもりは、言葉以上に確かだった。

「……私のほうこそ、ありがとうございます。
崇雅さんがそばにいてくれて……本当によかった」

震える指先が、彼の胸元に触れる。
その温もりが、未来の証のようだった。

「なんだかまだ夢みたいですけど……
でも――嬉しい、です」

顔を上げた澪の頬に、崇雅がそっと手を添える。
その瞳には、迷いはなかった。

「これからは三人だな」

「……はい、そうですね」

言葉を交わすたびに、心が近づいていく。


新しい日々は、まだ始まったばかり。
だけど、確かに今、ここに――
未来への希望が、やさしく息づいている。

小さな命とともに、ふたりの時間が、ゆっくりと、しあわせに満ちていく。

――そして、これからも。


ー完ー
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