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37. 渇いた心
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その日は休日だった。
厚手のカーテンの隙間から光の帯が差し込み、さわやかに朝を告げる。こんな日は小鳥のさえずりが目覚ましがわりだ。
アンジェリカは、淡いピンクのネグリジェのまま階段を下りた。
「おはよう、アンジェリカ」
レイチェルはミルクティーを入れながら、にこやかに笑いかけた。
「お父さんは?」
アンジェリカは広いダイニングを見渡しながら、椅子に座った。
「用があるって、少し前に出かけたわよ」
レイチェルはカップを載せたソーサーを、アンジェリカの前に差し出した。アンジェリカはそれを手に取り、ミルクティーを口に運んだ。ほっとする香りと温かさ。頬を緩ませ、ふぅと小さく息をついた。
レイチェルは隣に腰を下ろしながら、その様子を愛おしそうに見つめた。それから少し身を乗り出し、彼女を覗き込んで口を開いた。
「ね、アルティナさんが久しぶりにあなたに会いたがっているの」
「王妃様が?」
そう聞き返したが、たいして驚いた様子でもなかった。レイチェルが王妃アルティナの付き人をしていることもあり、彼女は小さい頃からよく王宮へ遊びに行っていた。だが、アカデミーに入学してからは、ほとんどアルティナとも会っていない。
「一緒に行かない? 小さな王子様も待っているわ」
暗い気持ちさえ吹き飛ばすような、レイチェルの明るい声と笑顔。
この人が私のお母さんで良かった――。
そんな思いが、アンジェリカの胸にじわりと広がった。
サイファはひとりバルタスの家へ来ていた。門前で立ち止まり、屋敷の二階を見上げてみる。だがもうそこからは、偽装結界も、通常の結界も感じられなかった。
扉の前まで進み、呼び鈴を鳴らす。奥で重みのある音が鳴り響いた。やがて軽い足音が聞こえ、扉が開いた。
「おじさま、来てくださって嬉しいわ」
中から飛び出してきたユールベルが、サイファに抱きついた。ノースリーブの白いワンピースが風を受け、ふわりと丸みを作る。
「何度も訪ねてくれていたのに、いつもあの人が追い返してしまってごめんなさい。もう来てもらえないかと思っていたわ」
そう言うと、サイファの胸に頬を押し当て、目を閉じた。サイファは彼女の頭を軽くなでると、少し離れて立っているバルタスに会釈した。ユールベルはそれに気がつくと、冷たく固いまなざしをバルタスに流した。彼の顔には疲労の色が浮かんでいた。
「行きましょう」
ユールベルは再びサイファに向き直ると、彼の手を取り、軽い足取りで応接間へと駆けて行った。そして二人掛けのソファにサイファを座らせると、彼女もその隣に腰を下ろした。体半分をサイファに向け、甘えるように寄りかかる。サイファはよけることも突き返すこともせずに、自然なままでそこにいた。
「おじさま、コーヒーと紅茶、どちらがいい?」
「紅茶をお願いするよ」
サイファはユールベルの顔を見て、にっこり笑いかけた。ユールベルも微かに笑顔を返した。だが、それはほんの一瞬のことだった。すぐにいつもの無表情に戻った。
「バルタス、紅茶ふたつ」
召使いにでも言うかのような命令口調。それでもバルタスは何の反論もせず、黙って奥へと姿を消した。大きな背中には何の威厳もない。仕事中とは別人のようだった。
「ユールベル」
「なあに、おじさま」
ユールベルは体を伸ばし、サイファに顔を近づけた。サイファはユールベルの瞳を見つめて、真剣な表情になった。
「私たちのことを恨んではいないのかい?」
その言葉を聞くと、ユールベルはぱちくりと瞬きをした。
「恨むだなんて」
彼女は細い腕をたどたどしく伸ばす。ぎこちなくサイファの首へとまわし引き寄せると、彼の肩に顔をうずめた。そして、彼の耳もとでささやくように言った。
「あれは事故だったのよ」
サイファは複雑な面持ちで、彼女のゆるやかに流れるブロンドを見つめていた。
バルタスが無言で戻ってきた。カタカタと小刻みな音を鳴らしながら、カップがふたつ乗せられたプレートを、慣れない手つきで運ぶ。
ユールベルはサイファから離れ、向かいのソファに座り直した。
上品で繊細な花柄のカップとソーサーを、それに似つかわしくない大きな手でふたりに差し出す。
ユールベルは冷めた目で、その様子を眺めていた。
「終わったら出ていって」
驚くほど冷たい声だった。
バルタスは背中を丸めて立ち上がった。無愛想なままサイファに会釈をすると、プレートを小わきに抱えて応接間をあとにした。
サイファはカップに手を伸ばそうとした。だが、ユールベルはそれを遮るように、横からサイファに抱きついた。
「私、おじさまのピアノが聴きたい」
サイファはにっこり笑って答えた。ユールベルもつられてわずかに笑顔になった。
「おじさまこっち」
サイファの手を引っ張り、部屋の隅に置いてあるアップライトピアノへと誘う。彼女の軽い足どりから、浮かれているさまが見てとれた。
ユールベルが黒塗りの椅子を引くと、サイファはそこに腰を下ろした。鍵盤の蓋を開け、音と感触を確かめるように軽く鳴らしてみる。だが、その手はすぐに止まった。
「ユールベル、このピアノ、調律が出来ていないよ」
サイファはユールベルを振り返る。ユールベルは少しの間、動きを止めていたが、やがて扉の方へ走っていった。
「バルタス、どういうこと? 調律が出来ていないって」
部屋の外に向かって大きめの声で問いつめる。
バルタスはすぐに戸口に姿を現わした。彼はユールベルを静かに見下ろして言った。
「ピアノは七年間一度も触っていない」
次の瞬間、ユールベルの平手打ちがとんだ。細腕を思いきり伸ばし、背伸びをしての平手打ち。たいした威力はないだろう。それでも、サイファを驚かせるには十分だった。それでも彼は動じた様子は見せなかった。
「道具さえ貸していただければ、私が調律しますよ」
サイファは立ち上がり、バルタスに声をかけた。
「道具もない」
バルタスはにべもない返事をした。
「最低」
ユールベルは冷たく彼を見上げた。
「それでは来週、私が道具持参でうかがいますよ」
サイファはバルタスににっこり笑いかけた。
「おじさまにそんなことさせられない。バルタス、調律師を呼んでおいて」
その命令を残し、ユールベルはサイファのもとへ戻っていった。そして再びサイファの背中に手をまわし抱きついた。
「ごめんなさい。ピアノはまた今度聴かせてくださる?」
「もちろんだよ」
サイファは優しくユールベルの頭をなでた。
ユールベルはサイファから少しも離れようとはしなかった。ソファに座った彼の膝に頭をのせ、彼の脚を指でたどり、その感触を確かめていく。
「おじさまが私のお父さまだったら良かったのに」
ユールベルはポツリともらした。サイファから彼女の表情は見えなかった。横顔には長い金髪が無造作にかかり、さらに包帯が邪魔をしていた。
「私、アンジェリカがうらやましくて仕方がない」
再び彼女はポツリと言った。
「君も知っているだろう、あの子の立場は」
「でもアンジェリカにはおじさまがいる。私には何もない」
彼女のあらわになった細い肩が、ほんの少し揺れた。
「そういえば、アンジェリカ。私のことをすっかり忘れていたわ。寂しかった……」
サイファの顔がけわしくなった。だが、それは一瞬。すぐに元の表情に戻った。ユールベルの頭に優しく手を置き、もう片方の手で彼女の顔にかかった髪をそっとかきあげる。
「申しわけない。あれはあの子にとっては辛すぎる過去なんだ。勝手を言うようだが……そっとしておいてほしい」
ユールベルはだるそうに体を起こし、サイファの膝の上に、横向きに座った。体をねじり、彼の首に腕をまわすと、額が付きそうな距離でまっすぐ見つめた。
「彼女だけずるい」
そう言ったあと、サイファを引き寄せ、頬と頬を触れ合わせた。
「でも、おじさまがそういうなら、私はそうするわ」
「ありがとう」
サイファは彼女の華奢な背中に手をまわした。
「さて、私はそろそろおいとまするよ」
サイファの膝の上に身を投げ出しまどろんでいたユールベルは、驚いて身を起こした。
「そんな、行かないで。ずっとここにいて」
彼に顔を突きつけ懇願する。サイファはにっこり微笑んだ。
「そういうわけにはいかないよ」
彼の右手がユールベルの頬を包み込んだ。
「また来るから」
そう言うと、サイファは立ち上がった。だが、その右手をユールベルがつかむ。すがりつくような右の瞳。
「また来るから」
サイファは同じ言葉を繰り返し、にっこりと笑った。ユールベルの手から力が抜け、サイファの手はするりと抜けた。
サイファは少し歩くと振り返った。
「その目、一度きちんと診てもらった方がいい。今度、ラウルのところへ行っておいで」
それだけ言うと、今度は立ち止まらずに部屋を出ていった。
玄関でバルタスが扉を開け待ちかまえていた。
「すっかり迷惑をかけてしまった」
気力のない低い声。彼が疲れ切っていることは明らかだった。
「いいえ。こちらこそお邪魔いたしました」
サイファは会釈をして外へと出た。まだずいぶん明るく、日没までは時間があるようだ。風もなく穏やかで静かな空に、小鳥が弧を描いて飛んでいった。
「……あまりあの子の言うことを信用しない方がいい」
バルタスは声をひそめてそう言うと、間髪入れずに扉を閉めた。
サイファはしばらく扉を見つめていた。それから顔を上げ二階を見上げた。窓にはすべて暗色のカーテンが掛けられていた。
「おかえりなさい!」
扉の開く音を聞きつけ、アンジェリカが二階から駆け下りてきた。
「ただいま、アンジェリカ」
サイファは優しい笑顔を見せた、
「今日は何をしていたんだい?」
「王妃様と王子様に会ってきたわ」
アンジェリカは嬉しそうに軽いステップを踏みながら、サイファの横に並んだ。だが、その途端、彼女の顔から笑みが消えた。とまどい、怯えたようにうつむき、体をこわばらせる。
「アンジェリカ?」
「ううん、なんでもない」
彼女は首を横に振りながらそう答え、小走りで二階へ戻っていった。
「お帰りなさい」
今度はレイチェルが笑顔で迎えた。
「あら? アンジェリカが降りて来なかった?」
「降りてきてたんだが……。また戻っていったよ」
「そう。王子様のお相手で疲れたのかしら」
レイチェルは首をかしげた。
ふたりは奥の書斎に場所を移した。扉には内側から鍵をかけた。それからテーブルを挟み、向かい合わせに座った。
「それで、どうだったの? 彼女」
レイチェルが静かに尋ねた。
「アンジェリカをどうこうする気はなさそうに見えた。だが……」
サイファは机にひじをつき、口元で両手を組むと、わずかに目を伏せた。
「バルタスには信用するなと言われたよ」
レイチェルは少し身を乗り出して、サイファを覗き込む。
「サイファは大丈夫だと思ったのでしょう?」
「自信はない。嘘を言っているようには見えなかった。ただ……」
彼は言葉を切った。そして、少しの間をおいて続けた。
「彼女の精神状態はまともとはいいがたいからな」
「そうでしょうね」
レイチェルは顔を曇らせた。
「やはりしばらく様子を見るしかないだろう」
サイファはそう言ったきり口をつぐんだ。レイチェルも同じく暗い表情で目を伏せた。重い空気がふたりにまとわりつき、動きを封じているかのようだった。
「ラウルにも言っておかなければな」
サイファは唐突に切り出した。
「え?」
レイチェルは顔を上げた。サイファもゆっくりと顔を上げ、彼女と視線を合わせた。
「ラウルにも関わりがあることだろう、多少はね」
「そう、ね」
「ユールベルには言っておいた。ラウルに目を診てもらうようにとね。それが吉と出るか凶と出るかはわからないが、もしかしたら……」
レイチェルの表情に、ふいに陰が落ちた。
「心配かい?」
サイファは優しい笑顔で尋ねた。レイチェルは目を伏せ、ぽつりと言った。
「そんなこと、聞かないで」
「そうだね」
サイファは彼女の頭にそっと手を置いた。
レイチェルは、突然はっとして目を見開いた。自分の頭を撫でているサイファの手を取り、袖口を鼻に近づけた。
「サイファ、この甘い匂い……」
彼女は悲しげにそう言うと、小さくため息をついた。
「彼女の匂いが移ったのね」
サイファは焦ったように匂いを嗅いだ。だが、自分ではよくわからなかった。困惑した顔をレイチェルに向ける。
「君にはわかるのか?」
「ええ、自分では気がつきにくいのかしら」
「アンジェリカが急に二階へ戻っていったのはこれが原因、ということか」
サイファは自分のしでかした大きな失敗に顔をしかめた。後悔を隠すことなく、その表情にあわらにする。
「思い出してはいないと思うが……」
彼は祈るように両手を組んだ。
「でも、匂いとそれに結びついた感情というものは、なかなか切り離せないものだわ。こういうことが続けば、もしかしたら記憶もよみがえってしまうかもしれない」
少し沈んだ声で、レイチェルは冷静に述べた。
サイファは立ち上がった。
「シャワーを浴びてくる」
そう言うと、扉へ向かって歩き出した。
「サイファ」
レイチェルは憂いを含んだ瞳を向け、気遣わしげに呼びかけた。サイファはドアノブに手をかけたまま、顔だけ振り返り、にっこりと笑ってみせた。いつもとなんら変わることのない笑顔。だが、レイチェルはその裏に隠された自嘲と自責を見逃さなかった。いたたまれなさに、思わず立ち上がり駆け出した。そして、後ろから彼をぎゅっと抱きしめた。
サイファは突然のことに驚いたが、その表情はすぐに和らいだ。愛おしげに、彼女の手の上に、自分の手を重ねた。
サイファはふいに幼い日々を思い出した。自分が落ち込んでいたときは、何も言わずとも、いつも彼女はこうやって抱きしめてくれた。どんなに表面を取り繕っても、彼女だけは本当の自分を見透かしていた。彼女がいるからこそ、自分を見失わずにいられる――そんな気さえしていた。
「ありがとう」
そう言った彼の声は、とても穏やかであたたかかった。
厚手のカーテンの隙間から光の帯が差し込み、さわやかに朝を告げる。こんな日は小鳥のさえずりが目覚ましがわりだ。
アンジェリカは、淡いピンクのネグリジェのまま階段を下りた。
「おはよう、アンジェリカ」
レイチェルはミルクティーを入れながら、にこやかに笑いかけた。
「お父さんは?」
アンジェリカは広いダイニングを見渡しながら、椅子に座った。
「用があるって、少し前に出かけたわよ」
レイチェルはカップを載せたソーサーを、アンジェリカの前に差し出した。アンジェリカはそれを手に取り、ミルクティーを口に運んだ。ほっとする香りと温かさ。頬を緩ませ、ふぅと小さく息をついた。
レイチェルは隣に腰を下ろしながら、その様子を愛おしそうに見つめた。それから少し身を乗り出し、彼女を覗き込んで口を開いた。
「ね、アルティナさんが久しぶりにあなたに会いたがっているの」
「王妃様が?」
そう聞き返したが、たいして驚いた様子でもなかった。レイチェルが王妃アルティナの付き人をしていることもあり、彼女は小さい頃からよく王宮へ遊びに行っていた。だが、アカデミーに入学してからは、ほとんどアルティナとも会っていない。
「一緒に行かない? 小さな王子様も待っているわ」
暗い気持ちさえ吹き飛ばすような、レイチェルの明るい声と笑顔。
この人が私のお母さんで良かった――。
そんな思いが、アンジェリカの胸にじわりと広がった。
サイファはひとりバルタスの家へ来ていた。門前で立ち止まり、屋敷の二階を見上げてみる。だがもうそこからは、偽装結界も、通常の結界も感じられなかった。
扉の前まで進み、呼び鈴を鳴らす。奥で重みのある音が鳴り響いた。やがて軽い足音が聞こえ、扉が開いた。
「おじさま、来てくださって嬉しいわ」
中から飛び出してきたユールベルが、サイファに抱きついた。ノースリーブの白いワンピースが風を受け、ふわりと丸みを作る。
「何度も訪ねてくれていたのに、いつもあの人が追い返してしまってごめんなさい。もう来てもらえないかと思っていたわ」
そう言うと、サイファの胸に頬を押し当て、目を閉じた。サイファは彼女の頭を軽くなでると、少し離れて立っているバルタスに会釈した。ユールベルはそれに気がつくと、冷たく固いまなざしをバルタスに流した。彼の顔には疲労の色が浮かんでいた。
「行きましょう」
ユールベルは再びサイファに向き直ると、彼の手を取り、軽い足取りで応接間へと駆けて行った。そして二人掛けのソファにサイファを座らせると、彼女もその隣に腰を下ろした。体半分をサイファに向け、甘えるように寄りかかる。サイファはよけることも突き返すこともせずに、自然なままでそこにいた。
「おじさま、コーヒーと紅茶、どちらがいい?」
「紅茶をお願いするよ」
サイファはユールベルの顔を見て、にっこり笑いかけた。ユールベルも微かに笑顔を返した。だが、それはほんの一瞬のことだった。すぐにいつもの無表情に戻った。
「バルタス、紅茶ふたつ」
召使いにでも言うかのような命令口調。それでもバルタスは何の反論もせず、黙って奥へと姿を消した。大きな背中には何の威厳もない。仕事中とは別人のようだった。
「ユールベル」
「なあに、おじさま」
ユールベルは体を伸ばし、サイファに顔を近づけた。サイファはユールベルの瞳を見つめて、真剣な表情になった。
「私たちのことを恨んではいないのかい?」
その言葉を聞くと、ユールベルはぱちくりと瞬きをした。
「恨むだなんて」
彼女は細い腕をたどたどしく伸ばす。ぎこちなくサイファの首へとまわし引き寄せると、彼の肩に顔をうずめた。そして、彼の耳もとでささやくように言った。
「あれは事故だったのよ」
サイファは複雑な面持ちで、彼女のゆるやかに流れるブロンドを見つめていた。
バルタスが無言で戻ってきた。カタカタと小刻みな音を鳴らしながら、カップがふたつ乗せられたプレートを、慣れない手つきで運ぶ。
ユールベルはサイファから離れ、向かいのソファに座り直した。
上品で繊細な花柄のカップとソーサーを、それに似つかわしくない大きな手でふたりに差し出す。
ユールベルは冷めた目で、その様子を眺めていた。
「終わったら出ていって」
驚くほど冷たい声だった。
バルタスは背中を丸めて立ち上がった。無愛想なままサイファに会釈をすると、プレートを小わきに抱えて応接間をあとにした。
サイファはカップに手を伸ばそうとした。だが、ユールベルはそれを遮るように、横からサイファに抱きついた。
「私、おじさまのピアノが聴きたい」
サイファはにっこり笑って答えた。ユールベルもつられてわずかに笑顔になった。
「おじさまこっち」
サイファの手を引っ張り、部屋の隅に置いてあるアップライトピアノへと誘う。彼女の軽い足どりから、浮かれているさまが見てとれた。
ユールベルが黒塗りの椅子を引くと、サイファはそこに腰を下ろした。鍵盤の蓋を開け、音と感触を確かめるように軽く鳴らしてみる。だが、その手はすぐに止まった。
「ユールベル、このピアノ、調律が出来ていないよ」
サイファはユールベルを振り返る。ユールベルは少しの間、動きを止めていたが、やがて扉の方へ走っていった。
「バルタス、どういうこと? 調律が出来ていないって」
部屋の外に向かって大きめの声で問いつめる。
バルタスはすぐに戸口に姿を現わした。彼はユールベルを静かに見下ろして言った。
「ピアノは七年間一度も触っていない」
次の瞬間、ユールベルの平手打ちがとんだ。細腕を思いきり伸ばし、背伸びをしての平手打ち。たいした威力はないだろう。それでも、サイファを驚かせるには十分だった。それでも彼は動じた様子は見せなかった。
「道具さえ貸していただければ、私が調律しますよ」
サイファは立ち上がり、バルタスに声をかけた。
「道具もない」
バルタスはにべもない返事をした。
「最低」
ユールベルは冷たく彼を見上げた。
「それでは来週、私が道具持参でうかがいますよ」
サイファはバルタスににっこり笑いかけた。
「おじさまにそんなことさせられない。バルタス、調律師を呼んでおいて」
その命令を残し、ユールベルはサイファのもとへ戻っていった。そして再びサイファの背中に手をまわし抱きついた。
「ごめんなさい。ピアノはまた今度聴かせてくださる?」
「もちろんだよ」
サイファは優しくユールベルの頭をなでた。
ユールベルはサイファから少しも離れようとはしなかった。ソファに座った彼の膝に頭をのせ、彼の脚を指でたどり、その感触を確かめていく。
「おじさまが私のお父さまだったら良かったのに」
ユールベルはポツリともらした。サイファから彼女の表情は見えなかった。横顔には長い金髪が無造作にかかり、さらに包帯が邪魔をしていた。
「私、アンジェリカがうらやましくて仕方がない」
再び彼女はポツリと言った。
「君も知っているだろう、あの子の立場は」
「でもアンジェリカにはおじさまがいる。私には何もない」
彼女のあらわになった細い肩が、ほんの少し揺れた。
「そういえば、アンジェリカ。私のことをすっかり忘れていたわ。寂しかった……」
サイファの顔がけわしくなった。だが、それは一瞬。すぐに元の表情に戻った。ユールベルの頭に優しく手を置き、もう片方の手で彼女の顔にかかった髪をそっとかきあげる。
「申しわけない。あれはあの子にとっては辛すぎる過去なんだ。勝手を言うようだが……そっとしておいてほしい」
ユールベルはだるそうに体を起こし、サイファの膝の上に、横向きに座った。体をねじり、彼の首に腕をまわすと、額が付きそうな距離でまっすぐ見つめた。
「彼女だけずるい」
そう言ったあと、サイファを引き寄せ、頬と頬を触れ合わせた。
「でも、おじさまがそういうなら、私はそうするわ」
「ありがとう」
サイファは彼女の華奢な背中に手をまわした。
「さて、私はそろそろおいとまするよ」
サイファの膝の上に身を投げ出しまどろんでいたユールベルは、驚いて身を起こした。
「そんな、行かないで。ずっとここにいて」
彼に顔を突きつけ懇願する。サイファはにっこり微笑んだ。
「そういうわけにはいかないよ」
彼の右手がユールベルの頬を包み込んだ。
「また来るから」
そう言うと、サイファは立ち上がった。だが、その右手をユールベルがつかむ。すがりつくような右の瞳。
「また来るから」
サイファは同じ言葉を繰り返し、にっこりと笑った。ユールベルの手から力が抜け、サイファの手はするりと抜けた。
サイファは少し歩くと振り返った。
「その目、一度きちんと診てもらった方がいい。今度、ラウルのところへ行っておいで」
それだけ言うと、今度は立ち止まらずに部屋を出ていった。
玄関でバルタスが扉を開け待ちかまえていた。
「すっかり迷惑をかけてしまった」
気力のない低い声。彼が疲れ切っていることは明らかだった。
「いいえ。こちらこそお邪魔いたしました」
サイファは会釈をして外へと出た。まだずいぶん明るく、日没までは時間があるようだ。風もなく穏やかで静かな空に、小鳥が弧を描いて飛んでいった。
「……あまりあの子の言うことを信用しない方がいい」
バルタスは声をひそめてそう言うと、間髪入れずに扉を閉めた。
サイファはしばらく扉を見つめていた。それから顔を上げ二階を見上げた。窓にはすべて暗色のカーテンが掛けられていた。
「おかえりなさい!」
扉の開く音を聞きつけ、アンジェリカが二階から駆け下りてきた。
「ただいま、アンジェリカ」
サイファは優しい笑顔を見せた、
「今日は何をしていたんだい?」
「王妃様と王子様に会ってきたわ」
アンジェリカは嬉しそうに軽いステップを踏みながら、サイファの横に並んだ。だが、その途端、彼女の顔から笑みが消えた。とまどい、怯えたようにうつむき、体をこわばらせる。
「アンジェリカ?」
「ううん、なんでもない」
彼女は首を横に振りながらそう答え、小走りで二階へ戻っていった。
「お帰りなさい」
今度はレイチェルが笑顔で迎えた。
「あら? アンジェリカが降りて来なかった?」
「降りてきてたんだが……。また戻っていったよ」
「そう。王子様のお相手で疲れたのかしら」
レイチェルは首をかしげた。
ふたりは奥の書斎に場所を移した。扉には内側から鍵をかけた。それからテーブルを挟み、向かい合わせに座った。
「それで、どうだったの? 彼女」
レイチェルが静かに尋ねた。
「アンジェリカをどうこうする気はなさそうに見えた。だが……」
サイファは机にひじをつき、口元で両手を組むと、わずかに目を伏せた。
「バルタスには信用するなと言われたよ」
レイチェルは少し身を乗り出して、サイファを覗き込む。
「サイファは大丈夫だと思ったのでしょう?」
「自信はない。嘘を言っているようには見えなかった。ただ……」
彼は言葉を切った。そして、少しの間をおいて続けた。
「彼女の精神状態はまともとはいいがたいからな」
「そうでしょうね」
レイチェルは顔を曇らせた。
「やはりしばらく様子を見るしかないだろう」
サイファはそう言ったきり口をつぐんだ。レイチェルも同じく暗い表情で目を伏せた。重い空気がふたりにまとわりつき、動きを封じているかのようだった。
「ラウルにも言っておかなければな」
サイファは唐突に切り出した。
「え?」
レイチェルは顔を上げた。サイファもゆっくりと顔を上げ、彼女と視線を合わせた。
「ラウルにも関わりがあることだろう、多少はね」
「そう、ね」
「ユールベルには言っておいた。ラウルに目を診てもらうようにとね。それが吉と出るか凶と出るかはわからないが、もしかしたら……」
レイチェルの表情に、ふいに陰が落ちた。
「心配かい?」
サイファは優しい笑顔で尋ねた。レイチェルは目を伏せ、ぽつりと言った。
「そんなこと、聞かないで」
「そうだね」
サイファは彼女の頭にそっと手を置いた。
レイチェルは、突然はっとして目を見開いた。自分の頭を撫でているサイファの手を取り、袖口を鼻に近づけた。
「サイファ、この甘い匂い……」
彼女は悲しげにそう言うと、小さくため息をついた。
「彼女の匂いが移ったのね」
サイファは焦ったように匂いを嗅いだ。だが、自分ではよくわからなかった。困惑した顔をレイチェルに向ける。
「君にはわかるのか?」
「ええ、自分では気がつきにくいのかしら」
「アンジェリカが急に二階へ戻っていったのはこれが原因、ということか」
サイファは自分のしでかした大きな失敗に顔をしかめた。後悔を隠すことなく、その表情にあわらにする。
「思い出してはいないと思うが……」
彼は祈るように両手を組んだ。
「でも、匂いとそれに結びついた感情というものは、なかなか切り離せないものだわ。こういうことが続けば、もしかしたら記憶もよみがえってしまうかもしれない」
少し沈んだ声で、レイチェルは冷静に述べた。
サイファは立ち上がった。
「シャワーを浴びてくる」
そう言うと、扉へ向かって歩き出した。
「サイファ」
レイチェルは憂いを含んだ瞳を向け、気遣わしげに呼びかけた。サイファはドアノブに手をかけたまま、顔だけ振り返り、にっこりと笑ってみせた。いつもとなんら変わることのない笑顔。だが、レイチェルはその裏に隠された自嘲と自責を見逃さなかった。いたたまれなさに、思わず立ち上がり駆け出した。そして、後ろから彼をぎゅっと抱きしめた。
サイファは突然のことに驚いたが、その表情はすぐに和らいだ。愛おしげに、彼女の手の上に、自分の手を重ねた。
サイファはふいに幼い日々を思い出した。自分が落ち込んでいたときは、何も言わずとも、いつも彼女はこうやって抱きしめてくれた。どんなに表面を取り繕っても、彼女だけは本当の自分を見透かしていた。彼女がいるからこそ、自分を見失わずにいられる――そんな気さえしていた。
「ありがとう」
そう言った彼の声は、とても穏やかであたたかかった。
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だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
わたくしがお父様に疎まれている?いいえ、目に入れても痛くない程溺愛されております。
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王国貴族院の卒業記念パーティーの場で、大公家の令嬢ルクレツィア・アーヴェントは王太子エドワードから突然の婚約破棄を告げられる。
父であるアーヴェント大公に疎まれている――
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【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
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たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
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リリーには幼い頃に決められた王子の婚約者がいたが、その婚約者の誕生日パーティーで婚約者はミーネと入場し挨拶して歩きファーストダンスまで踊る始末。国王と王妃に謝られ、贈り物も準備されていると宥められるが、その贈り物のドレスまでミーネが着ていた。リリーは怒ってワインボトルを持ち、美しいドレスをワイン色に染め上げるが、ミーネもリリーのドレスの裾を踏みつけ、ワインボトルからボトボトと頭から濡らされた。相手は子爵令嬢、リリーは伯爵令嬢、位の違いに国王も黙ってはいられない。婚約者はそれでも、リリーの肩を持たず、リリーは国王に婚約破棄をして欲しいと直訴する。それ受け入れられ、リリーは清々した。婚約破棄が完全に決まった後、リリーは深夜に家を飛び出し笛を吹く。会いたかったビエントに会えた。過ごすうちもっと好きになる。必死で練習した飛行魔法とささやかな攻撃魔法を身につけ、リリーは今度は自分からビエントに会いに行こうと家出をして旅を始めた。旅の途中の魔物の森で魔物に襲われ、リリーは自分の未熟さに気付き、国営の騎士団に入り、魔物狩りを始めた。最終目的はダンジョンの攻略。悪役令嬢と魔物退治、ダンジョン攻略等を混ぜてみました。メインはリリーが王妃になるまでのシンデレラストーリーです。
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