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38. 仕組まれた孤独
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「見えるようになる見込みはないな」
ラウルは新しい包帯をユールベルに巻きつけながら、淡々と診察結果を述べた。
「そう」
彼女は無表情に返事をした。
ラウルは包帯を巻き終わると椅子に座り、正面から彼女と視線を合わせた。互いに無言で見つめ合い、目をそらそうとしない。沈黙が続く。
「……何か、言いたいことでもあるの?」
先に口を開いたのはユールベルだった。
「あなたのことは嫌いだわ。その目……。すべてを見透かされているみたい」
「見透かされて困ることでもあるのか」
ユールベルの表情がわずかに険しくなった。
「あなたにもあるんじゃないの? 秘密の多いひと……」
そう言いながらゆっくりと立ち上がり、横からラウルの膝の上へ腰を下ろした。彼の首に手をまわし、ぐいと顔を近づける。息の触れ合う距離で、ふたりは互いの瞳をまっすぐに見つめた。
ユールベルは腕に力を入れ、体を伸ばすと、ふいにラウルと軽く唇を触れ合わせた。
「私のことは嫌いではなかったのか」
ラウルに驚いた様子はなかった。声に少しの乱れもなかった。
「大嫌いよ」
ユールベルは手の甲で唇を拭いつつ、ラウルの膝から降りた。そして、少し走って足を止めると、包帯で隠れていない側から顔半分だけ振り返った。
「……あなたは?」
「さあな」
ラウルは彼女に背を向けたまま、感情なく言った。
ユールベルはしばらく彼の後ろ姿を見つめていた。しかし、それ以上なにも言わず、静かに部屋をあとにした。
昼休みの終わりを告げるベルが鳴った。
「あ、鳴っちゃったわ」
「おい、早くしろよ!」
ジークはもたつくリックを急かした。
「ごめん!」
リックはあたふたと準備をして立ち上がった。そして、三人そろって教室から廊下へバタバタと飛び出した。
「午後からは図書室だ。早く行け」
突如、背後から降りかかる低い声。ジークは顔をしかめた。その声を聞くだけで無条件に腹が立った。
「今から行こうとしてんだよ!」
反抗心をむき出しにして、わめきながら振り返った。だがその瞬間、ラウルは三人の間をすり抜け、颯爽と通り過ぎていった。
「くっそ、本当に頭にくるヤツだぜ」
ジークは苦々しげに顔をしかめた。
その横で、アンジェリカは呆然とラウルの後ろ姿を目で追っていた。息をすることも、瞬きをすることも忘れているかのようだった。
彼女のただならぬ様子に気がついたのはリックだった。
「アンジェリカ、どうしたの?」
なるべく刺激をしないよう優しく声を掛けた。
「え、あ……別にどうもしてないわ。急がなきゃ」
アンジェリカは我にかえると、小さな声でそう言った。そして、その場から逃げるように、慌てて早足で歩き始めた。
ジークとリックは目を見合わせ、怪訝に首を傾げた。
――また、あの匂い……どうして?
アンジェリカは息が詰まりそうだった。胸の鼓動が次第に早くなった。不安でたまらなかった。今の自分の表情をふたりに見せないよう早足で歩き続けた。
その後のアンジェリカは、ずっとうわの空だった。ラウルが何かを言っても、まるで耳に届いていない。本をパラパラめくっても、内容はまったく頭に入っていない。
「アンジェリカ、帰らないの?」
リックが覗き込んで声を掛けた。ジークはその横で腕を組んで立っていた。
アンジェリカははっとしてあたりを見た。気がつかないうちに授業時間が終わっていたようだった。まわりがざわついていることに、そのときようやく気がついた。
「あ……帰るわ」
そう言って立ち上がろうとしたアンジェリカの肩に、リックはそっと手をのせた。そして穏やかに微笑みかけた。
「いいよ、座ってて。本は僕が返してくるから」
「ごめんなさい。……ありがとう」
奥の本棚へ向かっていく背中に、アンジェリカはとまどいがちに感謝の言葉を送った。
残されたジークとアンジェリカの間には、どことなく気まずい空気が流れていた。ふたりとも無言のまま、リックが帰ってくるのを待った。
「一年のかわいい子、なんていったっけ。あの包帯の」
「ああ、確かユールベルとかいう名前だったな」
隣の机での会話が、聞くともなしに耳に入ってきた。話しているのはクラスメイトたちだった。授業が終わり、そのまま雑談に興じているようだった。
「出よう」
ジークは身をかがめ、アンジェリカに耳打ちした。しかし、アンジェリカはそれには反応を示さなかった。ユールベルのうわさ話から耳が離せなかったのだ。
「そうそう、その子と担任が昼休みに並んで歩いてるのを見たんだよ」
「担任って、ラウル?」
アンジェリカは立ち上がり、唐突にその会話に割って入った。
「おい!」
ジークは慌てて止めようとしたが、アンジェリカは無視して隣の机へと駆けていった。
会話をしていた三人は驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔になり、手招きをして彼女を迎え入れた。
「そうだよ。王宮の方に行ったから、ラウルの医務室に行ったんじゃないかな」
黒髪の少年が、アンジェリカに席を譲りながら答えた。その後ろから、茶髪の少年が身を乗り出してきた。
「そういえば君もアイツと親しいようだけど、ラグランジェ家ってみんなそうなのか?」
「……そんなことはない、けど」
アンジェリカは目を伏せ、言葉を濁した。
「な、ユールベルってどんな子なんだ?」
今度は反対側の少年が身を乗り出し、浮かれた声で尋ねた。
「俺も気になる、それ。すごい不思議な感じの子だよな」
「あの包帯も気にならないか?」
「おまえ包帯好きだよなぁ」
三人はアンジェリカをほったらかし、興奮ぎみにユールベルのことで盛り上がった。アンジェリカは逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、立ち上がるきっかけをつかめないでいた。
ふいに彼女の腕が、後ろから引っ張られた。
「帰るぞ」
ジークは低い声でぶっきらぼうに言った。
アンジェリカはそんな彼を見て、ほっとしたように表情を緩めた。彼女は腕を引かれるまま椅子を降りた。そのとき――。
「ジーク! 金髪の女の子が外で待ってるぜ!」
戸口からクラスメイトが大声でジークを呼んだ。図書室にいたほとんどが声の方に振り向いた。大声で呼んだ彼は、いたずらっぽく白い歯を見せて笑っている。ジークをからかうためにわざと大声で言ったのだろう。開かれた扉の向こうに、金髪と白いワンピースの後ろ姿がちらりとのぞいた。
「ジーク! 今のユールベルだろ?!」
「おまえら知り合いなのか?」
「紹介してくれよ、ていうか、もしかしておまえら……」
ジークはアンジェリカの腕をつかんだまま動きを止めていた。
――どうすればいいんだ。
野次馬連中はどうでもよかった。ただ、アンジェリカのことだけが心配だった。ここで誤解されるくらいなら、初めから本当のことを話しておけばよかった。そう強く後悔した。
アンジェリカは表情を隠すかのように、深くうつむいた。
「待ってろよ。すぐに戻ってくるから」
ジークはアンジェリカの腕を放した。
「いいな、待ってろよ」
彼女に言い聞かせるように念を押すと、ジークは走って出ていった。
だが、アンジェリカはジークの言葉に従わなかった。彼の姿が見えなくなると、乱暴に鞄をつかみ、反対側の扉から出ていった。長い廊下を駆け抜け、角を曲がったところで足を止めた。窓に手をつき、肩で大きく息をする。ガラス越しのずっと先に、ジークと彼に寄り添うユールベルの姿が小さく見えた。
――あの甘い匂い……。ユールベル、だったの?
アンジェリカの熱い吐息でガラスは白く曇った。そして、ふたりの姿はその霞に掻き消され見えなくなった。
ジークは野次馬に睨みをきかせながら、図書室に戻った。ユールベルの方は特に何もなかった。ただ会いたかったというだけだった。彼女が何を考えているのか、ジークにはさっぱりわからなかった。
ジークはアンジェリカがいたはずの場所に戻った。だが、そこに彼女の姿はなかった。代わりにリックが腕組みをして立っていた。
「……アンジェリカは?」
嫌な予感を胸いっぱいに膨らませながら、ジークはおそるおそる尋ねた。
「出ていったらしいよ」
リックはそっけなく答えた。
「あのバカ……待ってろって言ったのに」
顔をしかめてそう言うジークを、リックは冷ややかに見つめた。
「バカはどっちだよ。さっき来てたのってユールベルなんでしょ」
彼にしてはめずらしく辛辣な言葉。ジークは図星をつかれた恥ずかしさと、いいわけをしたい焦りとで、顔を真っ赤に上気させた。
「勝手に来たんだよ! ほっとくわけにもいかねぇだろ! アンジェリカにはあとでちゃんと話すつもりだったんだよ。この前のこともな」
この前のことというのは、ハンカチを返すためにユールベルに会いに行ったことである。リックには事後ではあったが話をしてあった。もちろん、こと細かにすべてを伝えたわけではない。それは誰にも言っていないし、言うつもりもなかった。知っているのは覗いていたレオナルドだけ……。
「どうしたの?」
思いきり眉をひそめたジークに、リックはいぶかしげな視線を送った。
「いや。一応、教室の方を見に行ってみようぜ」
ジークは鞄をつかんで早足で図書室を出ていった。
アンジェリカは帰る気になれず、ふらふらと当てもなくアカデミー内をさまよっていた。そして気がつくと、アカデミーの隅にある小さな礼拝堂の前へと来ていた。
顔を上げ、全体を見渡す。木々に囲まれ、こじんまりとした三角屋根の建物。もともと古びてはいたが、気のせいかよりいっそう寂れたように感じられた。以前はよくここへ祈りに来ていたが、最近は足を運ぶこともめっきり少なくなっていた。
――こんなときだけ頼ろうなんて、虫が良すぎるかしら。
ほんの少し罪悪感を感じながら、木製の重い扉をゆっくり押し開けた。ひんやりとした空気に、礼拝堂独特の静けさ。彼女はそれが好きだった。
カツーン、カツーン。靴音を響かせ、中に足を踏み入れた。
「え……?」
彼女はあるものを目にし、小さく驚きの声を上げた。そして、即座に体を引いて身構えた。
最後列の長椅子。そこに少女が横たわって眠っていた。白いワンピース、長く緩やかなウェーブを描いた金の髪、頭に巻きつけられた白い包帯。間違いなくユールベルだ。白地のワンピースの上には、ステンドグラスの色とりどりの光が落ち、幻想的な模様を映し出していた。
アンジェリカは息が止まりそうだった。しかし、彼女にはどうしても確かめたいことがあった。おそるおそる、そっと近づく。
ドッ、ドッ、ドッ……。
体中が脈打つのを感じながら、それでも近づくのをやめない。
ドッ、ドッ、ドッ……。
ユールベルの上で身をかがめ、彼女の首筋に顔を近づける。
ドクン!!
心臓が飛び出しそうなほど強く打った。顔をこわばらせて、後ずさりをする。
――やっぱり、あの匂い、この人のだった……。
アンジェリカは呆然として立ち尽くした。
気配を感じたのか、ユールベルが目を覚ました。長椅子にうつぶせになったまま、目の前の少女の足元をじっと見つめた。徐々に顔を上げていく。そして、ふたりの視線がぶつかった。冷たい蒼い光。アンジェリカは凍りついたように動けなかった。
「アンジェリカ、どうしてここへ」
ユールベルは気だるくぼんやりと言った。アンジェリカは引きつったように息を吸った。
「あ……あなたこそ、どうしてこんなところで」
唇を震わせ、渇いたのどから擦れた声を絞り出した。
ユールベルはゆっくり身を起こした。
「なるべく家にいたくないから。あなたは?」
「……祈りに来ただけよ」
アンジェリカは次第に落ち着きを取り戻した。冷静になると、今度は不愉快な気持ちがこみ上げてきた。眉をひそめてユールベルを睨みつける。
しかし、ユールベルはまるで表情を変えなかった。
「あなたとふたりきりなんて、何年ぶりかしら」
楽しむような口調でそう言い、かすかに笑いかけた。アンジェリカはますます表情を硬くした。
「いったい何を企んでいるの? 私と仲良くしたいなんて嘘なんでしょう」
「どうしてそんなことを」
かすかな笑顔を保ったまま聞き返す。アンジェリカにはそれがかえって薄気味悪く思えた。
「ジークやお父さんやラウルに近づいている」
責めるようなきつい口調。それでもユールベルの顔色は変わらなかった。
「私が仲良くしてはいけないの? どうして? あなたのものってわけではないでしょう」
「私が言ってるのはそういうことじゃない!」
アンジェリカは一気に頭に血がのぼり、こぶしを握りしめて叫んだ。ユールベルは無表情で彼女を見上げた。
「欲張りなひと」
一瞬、その瞳に鋭い光が宿った。アンジェリカは斬りつけられたかのように身がすくんだ。額に薄く汗がにじんだ。
「……質問を、変えるわ」
アンジェリカは息を整え、気持ちを立て直すと、静かに言葉を続けた。
「私とあなたの間に何があったのか、教えて」
ユールベルを正面にとらえ、まっすぐ彼女の瞳を見つめる。額ににじんだ汗が頬を伝った。
ユールベルは不敵にうっすらと笑みを浮かべた。
「教えたいのはやまやまだけど、おじさまとの約束があるから」
「おじさま……お父さん?」
「そうよ」
ユールベルはさらに畳み掛ける。
「私たちふたりの秘密の約束」
アンジェリカの鼓動がドクンと強く打った。ユールベルは無表情のまま顔を上げ、どこか遠くを見つめた。
「おじさま、今度はいつ来てくださるのかしら。楽しみだわ。ピアノも聴かせてくださるって。でも、頻繁に会えないのが残念ね」
夢見ごこちにそう言ったあと、急に冷たい表情になりアンジェリカを見据えた。
「あなたのせいよ」
アンジェリカは彼女の迫力にたじろぎ、あとずさりをした。ユールベルはすぐに元の無表情に戻った。
「でもまあいいわ。ジークとは毎日でも会えるんだから」
アンジェリカは胸を押さえ、再びじりじりとあとずさった。半開きにした口をわずかに動かし何かを言おうとしているようだったが、声が出てこなかった。やがて踵を返しユールベルに背を向けると、その場から走り去っていった。
ユールベルは外に飛び出したアンジェリカの後ろ姿を、虚ろな目で見送った。
アンジェリカは走った。脇目も振らず走った。校庭を一直線に横切り、門から飛び出した。
「あっ……!」
彼女は門の外で立ち止まっていた男の背中にぶつかった。
「ごめんなさい」
慌てて謝り、顔を上げる。その瞬間、彼女ははっとして目を見開いた。
「レオナルド!」
アンジェリカがぶつかった男はレオナルドだった。彼の方も少し驚いていたようだった。
「ひとりとはめずらしいな」
「ちょうど良かった」
アンジェリカは深く息をして、呼吸を落ち着けた。
「私、家出したいんだけど、どこかいいところはない?」
「……は?」
レオナルドの声が素っ頓狂に裏返った。
ラウルは新しい包帯をユールベルに巻きつけながら、淡々と診察結果を述べた。
「そう」
彼女は無表情に返事をした。
ラウルは包帯を巻き終わると椅子に座り、正面から彼女と視線を合わせた。互いに無言で見つめ合い、目をそらそうとしない。沈黙が続く。
「……何か、言いたいことでもあるの?」
先に口を開いたのはユールベルだった。
「あなたのことは嫌いだわ。その目……。すべてを見透かされているみたい」
「見透かされて困ることでもあるのか」
ユールベルの表情がわずかに険しくなった。
「あなたにもあるんじゃないの? 秘密の多いひと……」
そう言いながらゆっくりと立ち上がり、横からラウルの膝の上へ腰を下ろした。彼の首に手をまわし、ぐいと顔を近づける。息の触れ合う距離で、ふたりは互いの瞳をまっすぐに見つめた。
ユールベルは腕に力を入れ、体を伸ばすと、ふいにラウルと軽く唇を触れ合わせた。
「私のことは嫌いではなかったのか」
ラウルに驚いた様子はなかった。声に少しの乱れもなかった。
「大嫌いよ」
ユールベルは手の甲で唇を拭いつつ、ラウルの膝から降りた。そして、少し走って足を止めると、包帯で隠れていない側から顔半分だけ振り返った。
「……あなたは?」
「さあな」
ラウルは彼女に背を向けたまま、感情なく言った。
ユールベルはしばらく彼の後ろ姿を見つめていた。しかし、それ以上なにも言わず、静かに部屋をあとにした。
昼休みの終わりを告げるベルが鳴った。
「あ、鳴っちゃったわ」
「おい、早くしろよ!」
ジークはもたつくリックを急かした。
「ごめん!」
リックはあたふたと準備をして立ち上がった。そして、三人そろって教室から廊下へバタバタと飛び出した。
「午後からは図書室だ。早く行け」
突如、背後から降りかかる低い声。ジークは顔をしかめた。その声を聞くだけで無条件に腹が立った。
「今から行こうとしてんだよ!」
反抗心をむき出しにして、わめきながら振り返った。だがその瞬間、ラウルは三人の間をすり抜け、颯爽と通り過ぎていった。
「くっそ、本当に頭にくるヤツだぜ」
ジークは苦々しげに顔をしかめた。
その横で、アンジェリカは呆然とラウルの後ろ姿を目で追っていた。息をすることも、瞬きをすることも忘れているかのようだった。
彼女のただならぬ様子に気がついたのはリックだった。
「アンジェリカ、どうしたの?」
なるべく刺激をしないよう優しく声を掛けた。
「え、あ……別にどうもしてないわ。急がなきゃ」
アンジェリカは我にかえると、小さな声でそう言った。そして、その場から逃げるように、慌てて早足で歩き始めた。
ジークとリックは目を見合わせ、怪訝に首を傾げた。
――また、あの匂い……どうして?
アンジェリカは息が詰まりそうだった。胸の鼓動が次第に早くなった。不安でたまらなかった。今の自分の表情をふたりに見せないよう早足で歩き続けた。
その後のアンジェリカは、ずっとうわの空だった。ラウルが何かを言っても、まるで耳に届いていない。本をパラパラめくっても、内容はまったく頭に入っていない。
「アンジェリカ、帰らないの?」
リックが覗き込んで声を掛けた。ジークはその横で腕を組んで立っていた。
アンジェリカははっとしてあたりを見た。気がつかないうちに授業時間が終わっていたようだった。まわりがざわついていることに、そのときようやく気がついた。
「あ……帰るわ」
そう言って立ち上がろうとしたアンジェリカの肩に、リックはそっと手をのせた。そして穏やかに微笑みかけた。
「いいよ、座ってて。本は僕が返してくるから」
「ごめんなさい。……ありがとう」
奥の本棚へ向かっていく背中に、アンジェリカはとまどいがちに感謝の言葉を送った。
残されたジークとアンジェリカの間には、どことなく気まずい空気が流れていた。ふたりとも無言のまま、リックが帰ってくるのを待った。
「一年のかわいい子、なんていったっけ。あの包帯の」
「ああ、確かユールベルとかいう名前だったな」
隣の机での会話が、聞くともなしに耳に入ってきた。話しているのはクラスメイトたちだった。授業が終わり、そのまま雑談に興じているようだった。
「出よう」
ジークは身をかがめ、アンジェリカに耳打ちした。しかし、アンジェリカはそれには反応を示さなかった。ユールベルのうわさ話から耳が離せなかったのだ。
「そうそう、その子と担任が昼休みに並んで歩いてるのを見たんだよ」
「担任って、ラウル?」
アンジェリカは立ち上がり、唐突にその会話に割って入った。
「おい!」
ジークは慌てて止めようとしたが、アンジェリカは無視して隣の机へと駆けていった。
会話をしていた三人は驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔になり、手招きをして彼女を迎え入れた。
「そうだよ。王宮の方に行ったから、ラウルの医務室に行ったんじゃないかな」
黒髪の少年が、アンジェリカに席を譲りながら答えた。その後ろから、茶髪の少年が身を乗り出してきた。
「そういえば君もアイツと親しいようだけど、ラグランジェ家ってみんなそうなのか?」
「……そんなことはない、けど」
アンジェリカは目を伏せ、言葉を濁した。
「な、ユールベルってどんな子なんだ?」
今度は反対側の少年が身を乗り出し、浮かれた声で尋ねた。
「俺も気になる、それ。すごい不思議な感じの子だよな」
「あの包帯も気にならないか?」
「おまえ包帯好きだよなぁ」
三人はアンジェリカをほったらかし、興奮ぎみにユールベルのことで盛り上がった。アンジェリカは逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、立ち上がるきっかけをつかめないでいた。
ふいに彼女の腕が、後ろから引っ張られた。
「帰るぞ」
ジークは低い声でぶっきらぼうに言った。
アンジェリカはそんな彼を見て、ほっとしたように表情を緩めた。彼女は腕を引かれるまま椅子を降りた。そのとき――。
「ジーク! 金髪の女の子が外で待ってるぜ!」
戸口からクラスメイトが大声でジークを呼んだ。図書室にいたほとんどが声の方に振り向いた。大声で呼んだ彼は、いたずらっぽく白い歯を見せて笑っている。ジークをからかうためにわざと大声で言ったのだろう。開かれた扉の向こうに、金髪と白いワンピースの後ろ姿がちらりとのぞいた。
「ジーク! 今のユールベルだろ?!」
「おまえら知り合いなのか?」
「紹介してくれよ、ていうか、もしかしておまえら……」
ジークはアンジェリカの腕をつかんだまま動きを止めていた。
――どうすればいいんだ。
野次馬連中はどうでもよかった。ただ、アンジェリカのことだけが心配だった。ここで誤解されるくらいなら、初めから本当のことを話しておけばよかった。そう強く後悔した。
アンジェリカは表情を隠すかのように、深くうつむいた。
「待ってろよ。すぐに戻ってくるから」
ジークはアンジェリカの腕を放した。
「いいな、待ってろよ」
彼女に言い聞かせるように念を押すと、ジークは走って出ていった。
だが、アンジェリカはジークの言葉に従わなかった。彼の姿が見えなくなると、乱暴に鞄をつかみ、反対側の扉から出ていった。長い廊下を駆け抜け、角を曲がったところで足を止めた。窓に手をつき、肩で大きく息をする。ガラス越しのずっと先に、ジークと彼に寄り添うユールベルの姿が小さく見えた。
――あの甘い匂い……。ユールベル、だったの?
アンジェリカの熱い吐息でガラスは白く曇った。そして、ふたりの姿はその霞に掻き消され見えなくなった。
ジークは野次馬に睨みをきかせながら、図書室に戻った。ユールベルの方は特に何もなかった。ただ会いたかったというだけだった。彼女が何を考えているのか、ジークにはさっぱりわからなかった。
ジークはアンジェリカがいたはずの場所に戻った。だが、そこに彼女の姿はなかった。代わりにリックが腕組みをして立っていた。
「……アンジェリカは?」
嫌な予感を胸いっぱいに膨らませながら、ジークはおそるおそる尋ねた。
「出ていったらしいよ」
リックはそっけなく答えた。
「あのバカ……待ってろって言ったのに」
顔をしかめてそう言うジークを、リックは冷ややかに見つめた。
「バカはどっちだよ。さっき来てたのってユールベルなんでしょ」
彼にしてはめずらしく辛辣な言葉。ジークは図星をつかれた恥ずかしさと、いいわけをしたい焦りとで、顔を真っ赤に上気させた。
「勝手に来たんだよ! ほっとくわけにもいかねぇだろ! アンジェリカにはあとでちゃんと話すつもりだったんだよ。この前のこともな」
この前のことというのは、ハンカチを返すためにユールベルに会いに行ったことである。リックには事後ではあったが話をしてあった。もちろん、こと細かにすべてを伝えたわけではない。それは誰にも言っていないし、言うつもりもなかった。知っているのは覗いていたレオナルドだけ……。
「どうしたの?」
思いきり眉をひそめたジークに、リックはいぶかしげな視線を送った。
「いや。一応、教室の方を見に行ってみようぜ」
ジークは鞄をつかんで早足で図書室を出ていった。
アンジェリカは帰る気になれず、ふらふらと当てもなくアカデミー内をさまよっていた。そして気がつくと、アカデミーの隅にある小さな礼拝堂の前へと来ていた。
顔を上げ、全体を見渡す。木々に囲まれ、こじんまりとした三角屋根の建物。もともと古びてはいたが、気のせいかよりいっそう寂れたように感じられた。以前はよくここへ祈りに来ていたが、最近は足を運ぶこともめっきり少なくなっていた。
――こんなときだけ頼ろうなんて、虫が良すぎるかしら。
ほんの少し罪悪感を感じながら、木製の重い扉をゆっくり押し開けた。ひんやりとした空気に、礼拝堂独特の静けさ。彼女はそれが好きだった。
カツーン、カツーン。靴音を響かせ、中に足を踏み入れた。
「え……?」
彼女はあるものを目にし、小さく驚きの声を上げた。そして、即座に体を引いて身構えた。
最後列の長椅子。そこに少女が横たわって眠っていた。白いワンピース、長く緩やかなウェーブを描いた金の髪、頭に巻きつけられた白い包帯。間違いなくユールベルだ。白地のワンピースの上には、ステンドグラスの色とりどりの光が落ち、幻想的な模様を映し出していた。
アンジェリカは息が止まりそうだった。しかし、彼女にはどうしても確かめたいことがあった。おそるおそる、そっと近づく。
ドッ、ドッ、ドッ……。
体中が脈打つのを感じながら、それでも近づくのをやめない。
ドッ、ドッ、ドッ……。
ユールベルの上で身をかがめ、彼女の首筋に顔を近づける。
ドクン!!
心臓が飛び出しそうなほど強く打った。顔をこわばらせて、後ずさりをする。
――やっぱり、あの匂い、この人のだった……。
アンジェリカは呆然として立ち尽くした。
気配を感じたのか、ユールベルが目を覚ました。長椅子にうつぶせになったまま、目の前の少女の足元をじっと見つめた。徐々に顔を上げていく。そして、ふたりの視線がぶつかった。冷たい蒼い光。アンジェリカは凍りついたように動けなかった。
「アンジェリカ、どうしてここへ」
ユールベルは気だるくぼんやりと言った。アンジェリカは引きつったように息を吸った。
「あ……あなたこそ、どうしてこんなところで」
唇を震わせ、渇いたのどから擦れた声を絞り出した。
ユールベルはゆっくり身を起こした。
「なるべく家にいたくないから。あなたは?」
「……祈りに来ただけよ」
アンジェリカは次第に落ち着きを取り戻した。冷静になると、今度は不愉快な気持ちがこみ上げてきた。眉をひそめてユールベルを睨みつける。
しかし、ユールベルはまるで表情を変えなかった。
「あなたとふたりきりなんて、何年ぶりかしら」
楽しむような口調でそう言い、かすかに笑いかけた。アンジェリカはますます表情を硬くした。
「いったい何を企んでいるの? 私と仲良くしたいなんて嘘なんでしょう」
「どうしてそんなことを」
かすかな笑顔を保ったまま聞き返す。アンジェリカにはそれがかえって薄気味悪く思えた。
「ジークやお父さんやラウルに近づいている」
責めるようなきつい口調。それでもユールベルの顔色は変わらなかった。
「私が仲良くしてはいけないの? どうして? あなたのものってわけではないでしょう」
「私が言ってるのはそういうことじゃない!」
アンジェリカは一気に頭に血がのぼり、こぶしを握りしめて叫んだ。ユールベルは無表情で彼女を見上げた。
「欲張りなひと」
一瞬、その瞳に鋭い光が宿った。アンジェリカは斬りつけられたかのように身がすくんだ。額に薄く汗がにじんだ。
「……質問を、変えるわ」
アンジェリカは息を整え、気持ちを立て直すと、静かに言葉を続けた。
「私とあなたの間に何があったのか、教えて」
ユールベルを正面にとらえ、まっすぐ彼女の瞳を見つめる。額ににじんだ汗が頬を伝った。
ユールベルは不敵にうっすらと笑みを浮かべた。
「教えたいのはやまやまだけど、おじさまとの約束があるから」
「おじさま……お父さん?」
「そうよ」
ユールベルはさらに畳み掛ける。
「私たちふたりの秘密の約束」
アンジェリカの鼓動がドクンと強く打った。ユールベルは無表情のまま顔を上げ、どこか遠くを見つめた。
「おじさま、今度はいつ来てくださるのかしら。楽しみだわ。ピアノも聴かせてくださるって。でも、頻繁に会えないのが残念ね」
夢見ごこちにそう言ったあと、急に冷たい表情になりアンジェリカを見据えた。
「あなたのせいよ」
アンジェリカは彼女の迫力にたじろぎ、あとずさりをした。ユールベルはすぐに元の無表情に戻った。
「でもまあいいわ。ジークとは毎日でも会えるんだから」
アンジェリカは胸を押さえ、再びじりじりとあとずさった。半開きにした口をわずかに動かし何かを言おうとしているようだったが、声が出てこなかった。やがて踵を返しユールベルに背を向けると、その場から走り去っていった。
ユールベルは外に飛び出したアンジェリカの後ろ姿を、虚ろな目で見送った。
アンジェリカは走った。脇目も振らず走った。校庭を一直線に横切り、門から飛び出した。
「あっ……!」
彼女は門の外で立ち止まっていた男の背中にぶつかった。
「ごめんなさい」
慌てて謝り、顔を上げる。その瞬間、彼女ははっとして目を見開いた。
「レオナルド!」
アンジェリカがぶつかった男はレオナルドだった。彼の方も少し驚いていたようだった。
「ひとりとはめずらしいな」
「ちょうど良かった」
アンジェリカは深く息をして、呼吸を落ち着けた。
「私、家出したいんだけど、どこかいいところはない?」
「……は?」
レオナルドの声が素っ頓狂に裏返った。
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