39 / 94
39. 家出
しおりを挟む
「ここって、あなたの家じゃないの」
アンジェリカの目の前には、彼女の家ほどではないが、かなり立派な邸宅が広がっていた。レオナルドの家である。拍子抜けしたような、あきれたような顔で彼を見上げた。
「他にあてはない」
「なるほどね」
アンジェリカはため息まじりに言った。レオナルドはムッとして彼女を見下ろした。
「嫌なら帰るんだな」
「この際、仕方ないわね」
アンジェリカは腕を組みながら再びため息をついた。お願いする立場であるはずの彼女が、なぜか偉そうな態度をとっていた。ケンカを売っているも同然な物言い。レオナルドにとっては面白いはずがない。
「本当に可愛げのないやつだな」
顔をしかめて彼女をひと睨みすると、玄関へと歩き始めた。
アンジェリカは玄関先で足を止めた。少し怯えたような表情で中を見渡す。彼女がここに入るのは初めてだった。自分のことを疎ましく思う人たちの家。いわば敵の本拠地である。彼女が躊躇するのも無理はない。
「どうした。入らないのか?」
「入るわよ」
レオナルドに弱味を見せるわけにはいかない。アンジェリカは精一杯、突っ張った。不安な気持ちを押し隠し、前方を睨みつけながら、堂々と見えるよう大きな足どりで歩いていった。
「二階だ」
ふたりが階段をのぼっていると、下でガチャンと大きな音がした。驚いて振り向くと、下で女の人が青い顔でこちらを見上げていた。レオナルドの母親だった。彼女の足元には壊れたティーポットやカップが散らばっていた。
「どうして、その子……」
彼女は震える声でつぶやいた。アンジェリカの顔が曇った。
「何をしに来たの! うちまで呪われるわ、出ていってちょうだい! レオナルドあなた何を考えているの?!」
金切り声でまくしたてる。レオナルドは母親に冷たい視線を送ると、無視して階段を上がろうとした。しかし、アンジェリカが呆然と立ちつくしていることに気がつき、彼女の手を引き、声を掛けた。
「行くぞ」
「でも……」
アンジェリカは横目で階下を見下ろしながら口ごもった。
「気にするな」
レオナルドは吐き捨てるようにそういうと、アンジェリカの手を強く引いて二階へと駆け上がっていった。
「レオナルド!」
ヒステリックな声が背中に突き刺さったが、ふたりはもう振り返らなかった。
レオナルドに促されて、アンジェリカは二階の奥の部屋へ入った。彼女の部屋には及ばないが、それでもかなり広めの部屋。全体に白が基調となっている。本棚に机、ベッド、ソファなどがゆとりをもって配置され、すっきりと清潔感にあふれていた。これがレオナルドの部屋であるとは、アンジェリカには意外に思えた。
「座れよ」
レオナルドはベッドに腰を下ろしながら、アンジェリカにソファを勧めた。
「勘違いするなよ、さっきのこと。おまえを庇ったわけじゃない」
「反抗期ってわけ?」
アンジェリカはソファの背もたれに体重を預けた。レオナルドは疲れたように息をつき、顔をしかめながら頭をかいた。
「反抗期は向こうの方だ。アカデミーに入ったのが気に入らないらしくてな。ますますヒステリックになってきている」
アンジェリカはあの金切り声を思い出し、少しレオナルドに同情した。同時に、ふと疑問がよぎった。
「そもそもどうしてアカデミーに行こうなんて思ったわけ? 前に訊いたときははぐらかされたけど」
「はぐらかしてなんかいないさ」
レオナルドはベッドに手をつき、胸をそらして上を仰いだ。
「あのとき言ったとおりだ。子供じみた強がりはやめにして、事実を受け入れることにしたのさ。から威張りしている自分が情けなく思えたんだな」
そこでいったん言葉を切り、軽く一息ついた。そして、アンジェリカに視線を流し、さらに話を続けた。
「正直、今はおまえにはかなわないだろう。だが、いつか正々堂々とおまえを負かしてやろうと思ってな。そのために同じ舞台を選んだのさ」
「はぁ……」
アンジェリカは気の抜けた相槌を打った。あまりに意外で呆然とした。彼が語ったことは、彼女にとって想像もしないことだった。
しかし、どこかで聞き覚えのある話だと思った。彼女は瞬きをしながら考えを巡らせた。ふとジークの顔が、声が、頭をかすめた。
アンジェリカはそれを打ち消すように、激しく頭を横に振った。
「何をやっているんだ」
「……別に」
不思議そうに尋ねるレオナルドから目をそらし、軽く口をとがらせた。
「思えばおまえとまともに会話をしたことなんてなかったな」
レオナルドはニッと笑った。アンジェリカは無表情で、彼にちらりと目を向けた。
「そうね、妙な感じだわ。……そうだわ」
急に何かを思いついたようにレオナルドに振り向いた。
「一度あなたに訊いてみたかったんだけど」
「何でしょうか、お嬢さま」
レオナルドはこの状況を楽しむようにニヤリとし、からかうような口調で言った。
しかし、アンジェリカは真剣な表情で彼を見据えていた。
「私のどこが嫌い?」
「は?」
今度はレオナルドが驚き、素頓狂な声をあげた。
「嫌いなんでしょう? 私のこと」
さも当然のように、冷静にくり返す。レオナルドは答えに窮し、渋い顔をして首を傾げた。
「嫌いというか……話していると頭にくるのは事実だが……」
「はっきりしないわね」
アンジェリカは冷ややかな視線を向けた。レオナルドは焦りから頬を紅潮させ、彼女を睨み返した。
「自分はどうなんだ」
「私はあなたのことが嫌いよ」
アンジェリカは事もなげに、さらりと言った。
「……ずいぶんはっきり言うな」
レオナルドは言葉を失い、とっさに返事ができなかった。好かれていると思っていたわけではないが、面と向かって言われるとさすがに動揺してしまう。
「当然よ。あれだけ嫌なことを言われ、嫌なことをされれば、誰だって嫌いになるわ。肩のやけどだって痛かったんだから」
眉間にしわを寄せ、口をとがらせながらそう言うと、レオナルドに焼かれた肩を手で押さえて見せた。
「あー、悪かったと言っただろう」
思いきり顔をしかめ頭をかくと、面倒くさそうに言った。
「でも……」
憂いを含んだアンジェリカの声に反応して、レオナルドは手を止めた。
「今は嫌いなあなたと一緒にいる方が気が楽だわ」
誰に向けるともなく、寂しげな儚い笑顔を浮かべる。
「これ以上、裏切られなくてすむもの」
レオナルドは複雑な面持ちで、彼女の横顔を見つめた。
夜も遅くなり、ふたりは部屋を暗くして寝ていた。レオナルドは自分のベッドで、アンジェリカはソファで、それぞれ静かに寝息を立てている。
「レオナルド! レオナルド!!」
部屋の外から金切り声が響き、扉が勢いよく開けられた。廊下から明かりが広がり、部屋を薄く照らす。
「……んだよ」
レオナルドは半分寝ぼけて、目をほとんど閉じたまま上体を起こした。白いシルクのパジャマが薄明かりに反射した。
「お嬢さまのお迎えが……」
レオナルドの母親が震える声で言いかけた。と同時に、後ろから怖い顔をした男性が姿を現した。サイファだった。彼は無遠慮に部屋に踏み入り、ぐるりとあたりを見まわした。そして、奥のソファにアンジェリカを見つけると、早足で歩み寄った。静かに膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。その寝顔を目にすると、表情を和らげ、小さく安堵の息をもらした。
「帰るよ、アンジェリカ」
サイファは彼女の耳もとで優しくささやいた。アンジェリカはようやく目を覚ました。
「……どうして……ここは、どこ……?」
ぼんやりした頭でサイファの顔を確認する。そして、ゆっくりとあたりを見まわした。見慣れない天井、見慣れない部屋。ようやく思い出してきた。ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか――。
「わたし、家出したのよ。だから帰らない……帰りたくないの]
横になったまま体を丸め、サイファから視線をそらせた。
「言いたいことがあるのなら聞くよ」
優しい声、穏やかな表情。だが、その中にどことなくつらそうなものを感じて、アンジェリカの胸に痛みが走った。しかし、彼女にも意地があった。素直に帰るわけにはいかない。目をきつく閉じ、首を横に振った。
「とりあえず帰ろう」
サイファはにっこりと笑いかけ、アンジェリカへと手を伸ばした。だが、彼女はその手をピシャリと払いのけた。
「帰らない」
震える声で思いつめたように言うと、毛布を頭からかぶり背中を向けた。
「本人が帰らないと言っているだろう」
今まで黙って見ていたレオナルドが、ベッドの上から口をはさんだ。サイファは勢いよく振り返ると、激しく彼を睨みつけた。
「おまえは黙っていろ」
ぞっとするほど冷たい瞳、冷たい声。レオナルドはすくみ上がり、言葉をなくした。
サイファは再びアンジェリカに向き直った。毛布ごしの背中にそっと手を置き、顔を近づけ哀願した。
「お願いだ、一緒に帰ってくれ」
アンジェリカは毛布の奥で首を横に振った。
「お願い、しばらくそっとしておいて」
感情のないその声に、サイファは拒絶を感じた。今は何を言っても無駄かもしれない。引き裂かれるような胸の痛みをこらえながら、彼女の背中からそっと手を引いた。
「……わかった。あしたは帰っておいで。待っているから」
サイファは無理に笑顔を作り、穏やかに言った。そのあと、真剣な表情になると、まっすぐ彼女の後ろ姿に目をやった。
「これだけは信じてほしい。私たちは誰よりもアンジェリカのことを大切に思っている」
そう言うと、もういちど彼女の背中に手を置いた。そして、静かに立ち上がり、その場をあとにした。
アンジェリカは遠ざかる足音を耳にして、急に不安に襲われた。だが、振り返ることはしなかった。
サイファは部屋を出る間際、目とあごでレオナルドを呼びつけた。彼は一瞬、躊躇したが、素直に従った。音を立てないようベッドを降り、サイファに続いて部屋を出ていった。
サイファ、レオナルド、彼の母親の三人は、階段を降りたところで足を止めた。
「理解ある父親を演じるのは大変ですね」
レオナルドは鼻先で笑いながら言った。
「何を企んでいる」
サイファはレオナルドに振り向くと、低くうなるような声で詰め寄った。
レオナルドは背筋に寒気を感じ、ごくりと息をのんだ。宴の日のことが彼の脳裏によみがえった。額に汗がにじむ。それでも不敵ににやりと笑って見せた。
「行くあてもなく困っていたお嬢さまをお助けしただけですよ」
サイファはレオナルドの胸ぐらに掴みかかりたい衝動に駆られた。だが、理性でそれを堪えた。手のひらに爪が食い込むほど、強くこぶしを握りしめた。
「わかっているだろうな。娘に何かしてみろ。ただではおかない」
こみ上げてくるものを抑えながらそう言うと、冷たく切りつけるような視線でレオナルドを睨みつけた。レオナルドの心臓はぎゅっと縮みあがった。体全体に寒気と痺れが走り、額からは冷や汗が吹き出した。それでも彼はサイファに挑むことをやめなかった。
「何もするつもりはありませんよ。あなたとは違いますから」
「な……に?」
「レオナルド!! いいかげんにしなさい!!」
金切り声がふたりの会話を遮った。
「サイファさんも、今日のところはお引き取り願います。お嬢さまは丁重にお預かりしておきますから」
彼女は疲れた顔で、突き放すように言った。サイファはその言葉を耳にして、ようやくいつもの冷静さを取り戻した。そして、彼女に深々と頭を下げた。
「夜分にお騒がせして申しわけありませんでした。アンジェリカのこと、よろしくお願いいたします」
丁寧にそう言うと、扉を開け外へと出ていった。
レオナルドが部屋に戻ると、アンジェリカは両膝を抱え、毛布にくるまり、ちょこんとソファに座っていた。不安そうな表情で、おずおずと尋ねかける。
「お父さんは?」
「帰った」
「そう……」
安堵と落胆の入り混じった息をつき、目を伏せた。そして、曇った顔を膝の上にのせると、小さくひとりごとをつぶやいた。
「やっぱり帰ればよかったかしら」
レオナルドは扉を閉めた。部屋はたちまち真っ暗になった。カーテンの隙間からのぼんやりしたわずかな光で、なんとかお互いの姿を確認することだけはできる。
「そんなことでは、なめられるぞ。一日くらいまともに家出をしてみろ」
レオナルドはそう言いながらベッドに入った。
「そうね」
アンジェリカは寂しげに目を細めた。
「おやすみなさい」
彼女は深めに布団をかぶっているレオナルドに声を掛けた。だが、彼からの返事はなかった。
アンジェリカの目の前には、彼女の家ほどではないが、かなり立派な邸宅が広がっていた。レオナルドの家である。拍子抜けしたような、あきれたような顔で彼を見上げた。
「他にあてはない」
「なるほどね」
アンジェリカはため息まじりに言った。レオナルドはムッとして彼女を見下ろした。
「嫌なら帰るんだな」
「この際、仕方ないわね」
アンジェリカは腕を組みながら再びため息をついた。お願いする立場であるはずの彼女が、なぜか偉そうな態度をとっていた。ケンカを売っているも同然な物言い。レオナルドにとっては面白いはずがない。
「本当に可愛げのないやつだな」
顔をしかめて彼女をひと睨みすると、玄関へと歩き始めた。
アンジェリカは玄関先で足を止めた。少し怯えたような表情で中を見渡す。彼女がここに入るのは初めてだった。自分のことを疎ましく思う人たちの家。いわば敵の本拠地である。彼女が躊躇するのも無理はない。
「どうした。入らないのか?」
「入るわよ」
レオナルドに弱味を見せるわけにはいかない。アンジェリカは精一杯、突っ張った。不安な気持ちを押し隠し、前方を睨みつけながら、堂々と見えるよう大きな足どりで歩いていった。
「二階だ」
ふたりが階段をのぼっていると、下でガチャンと大きな音がした。驚いて振り向くと、下で女の人が青い顔でこちらを見上げていた。レオナルドの母親だった。彼女の足元には壊れたティーポットやカップが散らばっていた。
「どうして、その子……」
彼女は震える声でつぶやいた。アンジェリカの顔が曇った。
「何をしに来たの! うちまで呪われるわ、出ていってちょうだい! レオナルドあなた何を考えているの?!」
金切り声でまくしたてる。レオナルドは母親に冷たい視線を送ると、無視して階段を上がろうとした。しかし、アンジェリカが呆然と立ちつくしていることに気がつき、彼女の手を引き、声を掛けた。
「行くぞ」
「でも……」
アンジェリカは横目で階下を見下ろしながら口ごもった。
「気にするな」
レオナルドは吐き捨てるようにそういうと、アンジェリカの手を強く引いて二階へと駆け上がっていった。
「レオナルド!」
ヒステリックな声が背中に突き刺さったが、ふたりはもう振り返らなかった。
レオナルドに促されて、アンジェリカは二階の奥の部屋へ入った。彼女の部屋には及ばないが、それでもかなり広めの部屋。全体に白が基調となっている。本棚に机、ベッド、ソファなどがゆとりをもって配置され、すっきりと清潔感にあふれていた。これがレオナルドの部屋であるとは、アンジェリカには意外に思えた。
「座れよ」
レオナルドはベッドに腰を下ろしながら、アンジェリカにソファを勧めた。
「勘違いするなよ、さっきのこと。おまえを庇ったわけじゃない」
「反抗期ってわけ?」
アンジェリカはソファの背もたれに体重を預けた。レオナルドは疲れたように息をつき、顔をしかめながら頭をかいた。
「反抗期は向こうの方だ。アカデミーに入ったのが気に入らないらしくてな。ますますヒステリックになってきている」
アンジェリカはあの金切り声を思い出し、少しレオナルドに同情した。同時に、ふと疑問がよぎった。
「そもそもどうしてアカデミーに行こうなんて思ったわけ? 前に訊いたときははぐらかされたけど」
「はぐらかしてなんかいないさ」
レオナルドはベッドに手をつき、胸をそらして上を仰いだ。
「あのとき言ったとおりだ。子供じみた強がりはやめにして、事実を受け入れることにしたのさ。から威張りしている自分が情けなく思えたんだな」
そこでいったん言葉を切り、軽く一息ついた。そして、アンジェリカに視線を流し、さらに話を続けた。
「正直、今はおまえにはかなわないだろう。だが、いつか正々堂々とおまえを負かしてやろうと思ってな。そのために同じ舞台を選んだのさ」
「はぁ……」
アンジェリカは気の抜けた相槌を打った。あまりに意外で呆然とした。彼が語ったことは、彼女にとって想像もしないことだった。
しかし、どこかで聞き覚えのある話だと思った。彼女は瞬きをしながら考えを巡らせた。ふとジークの顔が、声が、頭をかすめた。
アンジェリカはそれを打ち消すように、激しく頭を横に振った。
「何をやっているんだ」
「……別に」
不思議そうに尋ねるレオナルドから目をそらし、軽く口をとがらせた。
「思えばおまえとまともに会話をしたことなんてなかったな」
レオナルドはニッと笑った。アンジェリカは無表情で、彼にちらりと目を向けた。
「そうね、妙な感じだわ。……そうだわ」
急に何かを思いついたようにレオナルドに振り向いた。
「一度あなたに訊いてみたかったんだけど」
「何でしょうか、お嬢さま」
レオナルドはこの状況を楽しむようにニヤリとし、からかうような口調で言った。
しかし、アンジェリカは真剣な表情で彼を見据えていた。
「私のどこが嫌い?」
「は?」
今度はレオナルドが驚き、素頓狂な声をあげた。
「嫌いなんでしょう? 私のこと」
さも当然のように、冷静にくり返す。レオナルドは答えに窮し、渋い顔をして首を傾げた。
「嫌いというか……話していると頭にくるのは事実だが……」
「はっきりしないわね」
アンジェリカは冷ややかな視線を向けた。レオナルドは焦りから頬を紅潮させ、彼女を睨み返した。
「自分はどうなんだ」
「私はあなたのことが嫌いよ」
アンジェリカは事もなげに、さらりと言った。
「……ずいぶんはっきり言うな」
レオナルドは言葉を失い、とっさに返事ができなかった。好かれていると思っていたわけではないが、面と向かって言われるとさすがに動揺してしまう。
「当然よ。あれだけ嫌なことを言われ、嫌なことをされれば、誰だって嫌いになるわ。肩のやけどだって痛かったんだから」
眉間にしわを寄せ、口をとがらせながらそう言うと、レオナルドに焼かれた肩を手で押さえて見せた。
「あー、悪かったと言っただろう」
思いきり顔をしかめ頭をかくと、面倒くさそうに言った。
「でも……」
憂いを含んだアンジェリカの声に反応して、レオナルドは手を止めた。
「今は嫌いなあなたと一緒にいる方が気が楽だわ」
誰に向けるともなく、寂しげな儚い笑顔を浮かべる。
「これ以上、裏切られなくてすむもの」
レオナルドは複雑な面持ちで、彼女の横顔を見つめた。
夜も遅くなり、ふたりは部屋を暗くして寝ていた。レオナルドは自分のベッドで、アンジェリカはソファで、それぞれ静かに寝息を立てている。
「レオナルド! レオナルド!!」
部屋の外から金切り声が響き、扉が勢いよく開けられた。廊下から明かりが広がり、部屋を薄く照らす。
「……んだよ」
レオナルドは半分寝ぼけて、目をほとんど閉じたまま上体を起こした。白いシルクのパジャマが薄明かりに反射した。
「お嬢さまのお迎えが……」
レオナルドの母親が震える声で言いかけた。と同時に、後ろから怖い顔をした男性が姿を現した。サイファだった。彼は無遠慮に部屋に踏み入り、ぐるりとあたりを見まわした。そして、奥のソファにアンジェリカを見つけると、早足で歩み寄った。静かに膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。その寝顔を目にすると、表情を和らげ、小さく安堵の息をもらした。
「帰るよ、アンジェリカ」
サイファは彼女の耳もとで優しくささやいた。アンジェリカはようやく目を覚ました。
「……どうして……ここは、どこ……?」
ぼんやりした頭でサイファの顔を確認する。そして、ゆっくりとあたりを見まわした。見慣れない天井、見慣れない部屋。ようやく思い出してきた。ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか――。
「わたし、家出したのよ。だから帰らない……帰りたくないの]
横になったまま体を丸め、サイファから視線をそらせた。
「言いたいことがあるのなら聞くよ」
優しい声、穏やかな表情。だが、その中にどことなくつらそうなものを感じて、アンジェリカの胸に痛みが走った。しかし、彼女にも意地があった。素直に帰るわけにはいかない。目をきつく閉じ、首を横に振った。
「とりあえず帰ろう」
サイファはにっこりと笑いかけ、アンジェリカへと手を伸ばした。だが、彼女はその手をピシャリと払いのけた。
「帰らない」
震える声で思いつめたように言うと、毛布を頭からかぶり背中を向けた。
「本人が帰らないと言っているだろう」
今まで黙って見ていたレオナルドが、ベッドの上から口をはさんだ。サイファは勢いよく振り返ると、激しく彼を睨みつけた。
「おまえは黙っていろ」
ぞっとするほど冷たい瞳、冷たい声。レオナルドはすくみ上がり、言葉をなくした。
サイファは再びアンジェリカに向き直った。毛布ごしの背中にそっと手を置き、顔を近づけ哀願した。
「お願いだ、一緒に帰ってくれ」
アンジェリカは毛布の奥で首を横に振った。
「お願い、しばらくそっとしておいて」
感情のないその声に、サイファは拒絶を感じた。今は何を言っても無駄かもしれない。引き裂かれるような胸の痛みをこらえながら、彼女の背中からそっと手を引いた。
「……わかった。あしたは帰っておいで。待っているから」
サイファは無理に笑顔を作り、穏やかに言った。そのあと、真剣な表情になると、まっすぐ彼女の後ろ姿に目をやった。
「これだけは信じてほしい。私たちは誰よりもアンジェリカのことを大切に思っている」
そう言うと、もういちど彼女の背中に手を置いた。そして、静かに立ち上がり、その場をあとにした。
アンジェリカは遠ざかる足音を耳にして、急に不安に襲われた。だが、振り返ることはしなかった。
サイファは部屋を出る間際、目とあごでレオナルドを呼びつけた。彼は一瞬、躊躇したが、素直に従った。音を立てないようベッドを降り、サイファに続いて部屋を出ていった。
サイファ、レオナルド、彼の母親の三人は、階段を降りたところで足を止めた。
「理解ある父親を演じるのは大変ですね」
レオナルドは鼻先で笑いながら言った。
「何を企んでいる」
サイファはレオナルドに振り向くと、低くうなるような声で詰め寄った。
レオナルドは背筋に寒気を感じ、ごくりと息をのんだ。宴の日のことが彼の脳裏によみがえった。額に汗がにじむ。それでも不敵ににやりと笑って見せた。
「行くあてもなく困っていたお嬢さまをお助けしただけですよ」
サイファはレオナルドの胸ぐらに掴みかかりたい衝動に駆られた。だが、理性でそれを堪えた。手のひらに爪が食い込むほど、強くこぶしを握りしめた。
「わかっているだろうな。娘に何かしてみろ。ただではおかない」
こみ上げてくるものを抑えながらそう言うと、冷たく切りつけるような視線でレオナルドを睨みつけた。レオナルドの心臓はぎゅっと縮みあがった。体全体に寒気と痺れが走り、額からは冷や汗が吹き出した。それでも彼はサイファに挑むことをやめなかった。
「何もするつもりはありませんよ。あなたとは違いますから」
「な……に?」
「レオナルド!! いいかげんにしなさい!!」
金切り声がふたりの会話を遮った。
「サイファさんも、今日のところはお引き取り願います。お嬢さまは丁重にお預かりしておきますから」
彼女は疲れた顔で、突き放すように言った。サイファはその言葉を耳にして、ようやくいつもの冷静さを取り戻した。そして、彼女に深々と頭を下げた。
「夜分にお騒がせして申しわけありませんでした。アンジェリカのこと、よろしくお願いいたします」
丁寧にそう言うと、扉を開け外へと出ていった。
レオナルドが部屋に戻ると、アンジェリカは両膝を抱え、毛布にくるまり、ちょこんとソファに座っていた。不安そうな表情で、おずおずと尋ねかける。
「お父さんは?」
「帰った」
「そう……」
安堵と落胆の入り混じった息をつき、目を伏せた。そして、曇った顔を膝の上にのせると、小さくひとりごとをつぶやいた。
「やっぱり帰ればよかったかしら」
レオナルドは扉を閉めた。部屋はたちまち真っ暗になった。カーテンの隙間からのぼんやりしたわずかな光で、なんとかお互いの姿を確認することだけはできる。
「そんなことでは、なめられるぞ。一日くらいまともに家出をしてみろ」
レオナルドはそう言いながらベッドに入った。
「そうね」
アンジェリカは寂しげに目を細めた。
「おやすみなさい」
彼女は深めに布団をかぶっているレオナルドに声を掛けた。だが、彼からの返事はなかった。
0
あなたにおすすめの小説
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
わたくしがお父様に疎まれている?いいえ、目に入れても痛くない程溺愛されております。
織り子
ファンタジー
王国貴族院の卒業記念パーティーの場で、大公家の令嬢ルクレツィア・アーヴェントは王太子エドワードから突然の婚約破棄を告げられる。
父であるアーヴェント大公に疎まれている――
噂を知った王太子は、彼女を公衆の面前で侮辱する。
公爵家の秘密の愛娘
ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝🌹グラント公爵家は王家に仕える名門の家柄。
過去の事情により、今だに独身の当主ダリウス。国王から懇願され、ようやく伯爵未亡人との婚姻を決める。
そんな時、グラント公爵ダリウスの元へと現れたのは1人の少女アンジェラ。
「パパ……私はあなたの娘です」
そう名乗り出るアンジェラ。
◇
アンジェラが現れたことにより、グラント公爵家は一変。伯爵未亡人との再婚もあやふや。しかも、アンジェラが道中に出逢った人物はまさかの王族。
この時からアンジェラの世界も一変。華やかに色付き出す。
初めはよそよそしいグラント公爵ダリウス(パパ)だが、次第に娘アンジェラを気に掛けるように……。
母娘2代のハッピーライフ&淑女達と貴公子達の恋模様💞
✴️設定などは独自の世界観でご都合主義となります。ハピエン💞
✴️稚拙ながらもHOTランキング(最高20位)に入れて頂き(2025.5.9)、ありがとうございます🙇♀️
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる