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番外四十二(抜け番外は非公開ですが読むのに問題なし)悪魔メイドダリオと赤い靴の少女焼殺事件
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結論としては、その後店主は個人情報を喋りまくった。
売り主は、サミーラ・ハーリド。
婚礼靴に刺繍されていた家門である。
『月のナディール家から、太陽のようなハーリド家に、詫びとしてこの花嫁を贈る』
後者のハーリド家だ。
ダリオは聞いてしまったものは仕方ないとしながら、とりあえず店主の暴走を宥めた。
テオドールの美貌の影響だ。
自分の周囲ではもう慣れてきていて忘れがちなのを反省する。そういえばこうだったよなぁ、とダリオは目が遠くなった。
店主は最後までテンションが上がりきっていた。
「婚礼靴の売り手に話を聞きたい? でしたら、私から連絡してみますよ。ははっ、お任せください!」
店主のおかげで、後日、女性から話を聞けることになりそうだ。
お礼を言っていったん店を後にした。
後日、婚礼靴の売り手の女性が会ってくれることになったと、店主から連絡が来た。
指定されたカフェでダリオが待っていると、入店のベルが鳴る。
五十歳前後だろうか、髪を覆う布をかぶり、長い巻きスカートを着た女性だ。
「失礼ですが、ハーリドさんでいらっしゃいますか」
席を立って尋ねると、大陸中央系の痩せて青白い顔をした女性は硬い顔で頷いた。
「サミーラと呼んでおくれ」
「わかりました。サミーラさん。初めまして。ダリオ・ロータスと申します。」
軽く会釈する。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
席に誘導して、名刺を渡すと、ハーリド――サミーラは、珍しいものを見るようにそれをテーブルに置いた。
メニューを示し、二人分のコーヒーを注文すると、ダリオが切り出す前にサミーラのほうから口を開いた。
「誰か、訪ねて来ると思ってたよ」
「と申しますと」
サミーラは疲れたように笑った。
「婚礼靴の件と聞いてるが」
「はい。事前にご連絡させていただいたとおり、購入者から来歴の調査を依頼されておりまして」
「嘘だね」
ダリオは黙った。
サミーラは一気に年をとったように背を丸め、口元を歪める。
「何かあったんだろう」
ダリオは少し考えて、これはこの人も、わかってるパターンだなぁ、と理解した。
「あーそうですね、実は――購入者の方が、悪夢を……」
「やっぱりね⋯⋯」
サミーラは目を細める。
「確信があったご様子ですね」
「その男が見ている夢だか白昼夢だかだけどね。女がよって集って男たちに焼き殺される光景を、私も一緒に見ているからね」
「失礼します、つまり――?」
「購入者の名前も知ってるよ。バーンズ。そいつが苦しめられてる悪夢の視点は、私なんだよ。私が子供の頃に見た光景を、私が悪夢を見るたびにそいつも見てるんだろうね」
なるほど、とダリオはわかったような相槌を打った。
どういうこと?
「つまり——サミーラさんの“見る”悪夢が、他人にも再生されてしまう……そういう感覚でよろしいですか」
「そうなるね」
「サミーラさんは、それを分かっていらっしゃると」
「子供の私の中に、別の人間がいるのを感じるし、そいつの恐怖も伝わってくるからね。おばさんのスピリチュアルな話だと思うかい」
「いえ、バーンズ氏から先に話を伺ってますので」
二人が、貧乏学生のダリオを共謀して騙している可能性もあるが、メリットがない。
「よろしければ、ご事情伺っても」
「そのつもりだよ。私はね、誰かに聞いて欲しくて、ここに来たんだよ」
サミーラの話はこうだった。
四十年近く前の話だ。
十三歳のサミーラには五歳上の姉がいた。
ラーレ・ナディール。
靴の刺繍にあった、月のナディール家だ。
彼女は踊りが上手く、いつも赤い靴をはいていた。
ハーリド家の次男から見初められ、君に似合う白い靴を用意した。これをはいて俺のために踊ってくれと求婚されたのだという。
しかし、ラーレはいつもの赤い靴をはいて舞台で踊り、求婚も拒絶した。
その後は悪夢のとおりだ。
次男の仲間たちとともに引きずり出され、灯油をかけられて焼殺されたのだ。
しかも、詫びたのは男の名誉を傷つけたラーレの家族の方で、代わりに妹のサミーラが次男に嫁がされることとなった。
「姉はね、ハーリドの次男⋯⋯私の夫からもらった靴を嫌がってたよ。こんなの履きたくないとね。それが男たちの逆鱗に触れたのさ」
「白い靴というのは」
「上物だったしね、仕立て直して私の婚礼靴にしたよ。ナディール家からハーリド家への謝罪も込めてね」
「そうでしたか⋯⋯」
可能な限り敬意を払って、ダリオは尋ねた。
「⋯⋯ということは、婚礼靴そのものは、ラーレさんのものではなく。サミーラさんご自身が、あえて――その象徴を手放された、と受け取ってよろしいですか」
「そうだよ。あれはもう私の婚礼靴だからね。お若い方、あんたは知らないだろうけど、私の故郷ではね。一応法律で殺人は禁止されてるけど、男の名誉を汚した女は殺されたって、誰も訴えられたりしないんだよ。ああ、今はわからないけどね。もしかしたら裁判くらいはしてくれるかもしれないね。時代も変わったから。でも最近も、また男の求婚を断った若い女が焼き殺されたらしくてね。ニュースを知らないかい⋯⋯いや、知らないよね。そのニュースを見た夫が言ってたんだよ」
『お前は男に色目を使って媚びを売らないし、贅沢も望まない。静かで、余計なことを言わず、俺に長いこと寄り添ってくれたな。他の女たちとお前は違う。俺はお前を嫁にもらえて本当によかった』
サミーラは突然、別人が乗り移ったかのように喋り、その後わなわなと次第に唇が震えた。
ダリオは失礼だとは思ったが、分かるような気がして黙る。
ニュースを見て、こんな女は燃やされて当然だと言われるより、なおその称賛は彼女をずたずたに切り裂き、今ここに足を運ばせることになったのだろう。
十三歳の少女が、男に恥をかかせたからと目の前で姉を焼き殺されて、その光景を見せしめのように見届けさせられた。
あまりにもむごいことだと、ダリオは心の中で眉を下げて、表情に出さないようにするのに苦心した。
まだ十代の若い女性が無数の男たちに押さえつけられ、それを目をそらさぬよう頭を固定されて見させられている妹。
周りにいた大人たちは――止めなかったのだ。
ダリオの胸の内を、少女とその姉に対する悲しみにも似た共感と、実行犯たちやそれを許した人々への時を超えた怒りが静かに広がっていった。
姉の焼殺を計画し、仲間とともに実行した人間に嫁がされて、まだ未成年だったサミーラに何ができただろう。
息を潜めて、殺されないように、相手のご機嫌を取り、従順に振る舞う以外に。
ダリオだってそうだ。
自分より圧倒的に強い存在たちに追いかけ回され、時に閉じ込められ、必死に存在を小さくしてどうにか命からがら逃げ出したことが何度もある。
テオドールが来るまで、怪異による突然の危機はいつも日常と隣り合わせだった。
圧倒的暴力の前に、無力で何もできないと突きつけられることが、いかに人間の尊厳を傷つけるか。
どれほど惨めか。
そんな生活を、加害者とともに何十年も。
その自分の尊厳を磨り潰すようにして生きてきた態度を、人生の収奪者から評価され、褒められる。
「もう、糸が切れてしまってね」
サミーラは笑った。
「靴を売りに行ったよ。こんなことになるとは思ってなくてね、バーンズさんとやらには謝っといておくれ。たぶん、もう悪夢は見ないと思うよ。長年の秘密を吐き出してしまったからね。念を入れて、悪いけど靴を燃やしてくれると助かるね」
「わかりました。責任を持ってお伝えしておきます」
「あぁ、そうしとくれ」
「サミーラさん」
「そんな顔しないで、お若い方。ロータスさん、別に死ぬ気はないよ。まあ殺されるかもしれないけれど、もうこの足で出て行くつもりさ。踏ん切りがついたよ。あとは一分一秒だって、あの殺人者の横にいるのが耐えられなくてね。気がついたらもう無理になってしまったよ」
「⋯⋯長い間、耐えてこられたんですね」
「そうだね⋯⋯心を殺さないとやってられなかったねぇ⋯⋯」
遠い目をするサミーラは、目の前の光景ではなく、ずっと別の場所を見ているようだった。
「差し支えなければ⋯⋯この後、行くあてはどうされるか決めていらっしゃるのですか」
「⋯⋯」
サミーラの瞳が色彩を薄くして沈黙した。
ダリオはその変化を察し、急かさぬように静かに待った。
「もし、今後⋯⋯行くあても、まだ決めていらっしゃらないようでしたら──これは、正式な紹介というわけではありませんが、信頼できる避難所をひとつ存じています」
ダリオは、カバンから書類入れを出す。施設に入っていた関係で知っている信頼度の高いシェルターの案内があったはずだ。
「多国籍対応のシェルターです。僕の名前を出して、紹介されたと問い合わせていただいて構いません。女性と子どもの避難支援をしているところです。行けば、保護してくれます」
サミーラは驚いたように顔を上げ、
「シェルター⋯⋯そうか⋯⋯そういう場所があるんだね⋯⋯」と小さく呟く。知ってはいたけれど、自分も行っていいとは思ってなかったという顔だ。
ダリオはできるだけ穏やかに頷くよう心がけた。
「ええ。どなたにも言わなくてかまいません。ただ、“行っていい場所がある”とだけ覚えていていただけたら。ここに限らず。」
サミーラの目がわずかに潤んだ。
「⋯⋯ありがとう」
「あなたが、ご自身で決められたことを、そのまま歩いていかれるように願っています」
ふとサミーラは外を見て、目を細めた。
「姉は、赤い靴を最後、脱がされてしまってね。もうどこにも行けない、罪人は裸足で地面を踏めないって意味なんだけどね。⋯⋯きっと、今なら、どこにでも行けただろうにねぇ」
皺のある目尻に、雫が盛り上がり、光に滲むのをダリオは何も言わずに見守った。
バーンズに報告を入れて後日、事務所の方に解決したようだとの連絡を受けた。
その時、ひとつ黙っていたことがあると言われた。
「言いづらくてね。その、私も女性の顔に硫酸をかけるアシッドアタックに居合わせたことがある。情けないが傍観してしまってね⋯⋯悪夢を見たのは、そのせいかもしれないと思っていた」
初めから言ってくれとも思うが、まあ言えなかったのも、傍観してしまったのもわかるし、同時にわからなかった。
電話を切って、ダリオはドサリとソファに腰を下ろすと、天井を見上げ、手の甲を自分の目に当てた。
被害者に強く共感して参っているわけでも、傍観したバーンズやかつての大人たちに激しく怒っているわけでもなかった。
そして、人間に深く絶望しているわけでも。
いや、怒り自体は静かにあったと思う。ただ思考を巡らせる時間が必要だった。
考えていた。
あの後ダリオは調べたが、サミーラの住んでいた国では、度重なる名誉殺人を受けて、名誉を口実にした犯罪を対象とする法律が成立し、家族による許し(被害者遺族の“赦し”)によって殺人が実質上不起訴・軽罰になるループホールを撤廃した。
ただし、法律が改正されたにもかかわらず、免責の実態、また被害者遺族や地域社会の圧力・報復の恐れ等が改善されていないという批判もあるようだ。
行きつ戻りつしながら、時に押し戻されつつも、前に進んでいく。進みたいと動かそうとする人々がいるということだろう。
でも、変わらない人間もいる。
そのこと自体に悲観的になっているわけでもない。
ただ、ダリオは。
嫌だと。
拒絶したら、その拒絶を許さない気持ちがわからなかった。
愛している人間に、拒絶されて、それを許せないから、傷つけようとする気持ちがまったくわからなかった。
愛する人が嫌だと、怖いと言っているのに、どうしてその気持ちを許せないことがあるだろう。そんなに怖がっているなら、どうかそうでなくなってほしいと思う。
「ダリオさん」
目元に手の甲を当てたままのダリオの上に、顔を寄せる気配があった。
「大丈夫ですか」
「あー⋯⋯ちょっと、横に肩貸してくれると助かるかも」
「もちろんです」
隣に腰を下ろしたテオドールに、少し頭を預けてみる。
「テオって、俺に最初『NO』された時に、ちょっとしつこかったけど、その後はなんか距離感急にレベルアップしたよな」
テオドールは小さく首をかしげた。
「ダリオさんが嫌がってらっしゃったので。考えました」
ダリオは、うまく返せず、呼吸が浅くなった。
俺が嫌がったから、テオドールは理由も聞かずに、そのとおりにしてくれた。どうしたらいいか考えてくれた。
なんだって好きにできるのに、当たり前みたいにそうしたんだ。
テオドールはふと思い当たったのか、もう少し思案したらしい。
「最初に、怖がらせるようなことをして申し訳ありませんでした⋯⋯」
確かに、不法侵入された一発目は、ダリオも本当に恐ろしかった。
「⋯⋯そこはまあ、人外ボーナスだ。人間初心者マークだったから、後からゆるしたよ」
「ダリオさんは、僕というよりは、怪異全般に甘いですね」
「あんまり線引きすると、しんどいから麻痺させてるところはあったな」
「ダリオさん、また怖くて嫌なことがあったら教えてください」
「うん⋯⋯」
俺も、と言いたいのに、なんだか目の奥と喉が痛くなってきて、ありがとうとしか言えなかった。
売り主は、サミーラ・ハーリド。
婚礼靴に刺繍されていた家門である。
『月のナディール家から、太陽のようなハーリド家に、詫びとしてこの花嫁を贈る』
後者のハーリド家だ。
ダリオは聞いてしまったものは仕方ないとしながら、とりあえず店主の暴走を宥めた。
テオドールの美貌の影響だ。
自分の周囲ではもう慣れてきていて忘れがちなのを反省する。そういえばこうだったよなぁ、とダリオは目が遠くなった。
店主は最後までテンションが上がりきっていた。
「婚礼靴の売り手に話を聞きたい? でしたら、私から連絡してみますよ。ははっ、お任せください!」
店主のおかげで、後日、女性から話を聞けることになりそうだ。
お礼を言っていったん店を後にした。
後日、婚礼靴の売り手の女性が会ってくれることになったと、店主から連絡が来た。
指定されたカフェでダリオが待っていると、入店のベルが鳴る。
五十歳前後だろうか、髪を覆う布をかぶり、長い巻きスカートを着た女性だ。
「失礼ですが、ハーリドさんでいらっしゃいますか」
席を立って尋ねると、大陸中央系の痩せて青白い顔をした女性は硬い顔で頷いた。
「サミーラと呼んでおくれ」
「わかりました。サミーラさん。初めまして。ダリオ・ロータスと申します。」
軽く会釈する。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
席に誘導して、名刺を渡すと、ハーリド――サミーラは、珍しいものを見るようにそれをテーブルに置いた。
メニューを示し、二人分のコーヒーを注文すると、ダリオが切り出す前にサミーラのほうから口を開いた。
「誰か、訪ねて来ると思ってたよ」
「と申しますと」
サミーラは疲れたように笑った。
「婚礼靴の件と聞いてるが」
「はい。事前にご連絡させていただいたとおり、購入者から来歴の調査を依頼されておりまして」
「嘘だね」
ダリオは黙った。
サミーラは一気に年をとったように背を丸め、口元を歪める。
「何かあったんだろう」
ダリオは少し考えて、これはこの人も、わかってるパターンだなぁ、と理解した。
「あーそうですね、実は――購入者の方が、悪夢を……」
「やっぱりね⋯⋯」
サミーラは目を細める。
「確信があったご様子ですね」
「その男が見ている夢だか白昼夢だかだけどね。女がよって集って男たちに焼き殺される光景を、私も一緒に見ているからね」
「失礼します、つまり――?」
「購入者の名前も知ってるよ。バーンズ。そいつが苦しめられてる悪夢の視点は、私なんだよ。私が子供の頃に見た光景を、私が悪夢を見るたびにそいつも見てるんだろうね」
なるほど、とダリオはわかったような相槌を打った。
どういうこと?
「つまり——サミーラさんの“見る”悪夢が、他人にも再生されてしまう……そういう感覚でよろしいですか」
「そうなるね」
「サミーラさんは、それを分かっていらっしゃると」
「子供の私の中に、別の人間がいるのを感じるし、そいつの恐怖も伝わってくるからね。おばさんのスピリチュアルな話だと思うかい」
「いえ、バーンズ氏から先に話を伺ってますので」
二人が、貧乏学生のダリオを共謀して騙している可能性もあるが、メリットがない。
「よろしければ、ご事情伺っても」
「そのつもりだよ。私はね、誰かに聞いて欲しくて、ここに来たんだよ」
サミーラの話はこうだった。
四十年近く前の話だ。
十三歳のサミーラには五歳上の姉がいた。
ラーレ・ナディール。
靴の刺繍にあった、月のナディール家だ。
彼女は踊りが上手く、いつも赤い靴をはいていた。
ハーリド家の次男から見初められ、君に似合う白い靴を用意した。これをはいて俺のために踊ってくれと求婚されたのだという。
しかし、ラーレはいつもの赤い靴をはいて舞台で踊り、求婚も拒絶した。
その後は悪夢のとおりだ。
次男の仲間たちとともに引きずり出され、灯油をかけられて焼殺されたのだ。
しかも、詫びたのは男の名誉を傷つけたラーレの家族の方で、代わりに妹のサミーラが次男に嫁がされることとなった。
「姉はね、ハーリドの次男⋯⋯私の夫からもらった靴を嫌がってたよ。こんなの履きたくないとね。それが男たちの逆鱗に触れたのさ」
「白い靴というのは」
「上物だったしね、仕立て直して私の婚礼靴にしたよ。ナディール家からハーリド家への謝罪も込めてね」
「そうでしたか⋯⋯」
可能な限り敬意を払って、ダリオは尋ねた。
「⋯⋯ということは、婚礼靴そのものは、ラーレさんのものではなく。サミーラさんご自身が、あえて――その象徴を手放された、と受け取ってよろしいですか」
「そうだよ。あれはもう私の婚礼靴だからね。お若い方、あんたは知らないだろうけど、私の故郷ではね。一応法律で殺人は禁止されてるけど、男の名誉を汚した女は殺されたって、誰も訴えられたりしないんだよ。ああ、今はわからないけどね。もしかしたら裁判くらいはしてくれるかもしれないね。時代も変わったから。でも最近も、また男の求婚を断った若い女が焼き殺されたらしくてね。ニュースを知らないかい⋯⋯いや、知らないよね。そのニュースを見た夫が言ってたんだよ」
『お前は男に色目を使って媚びを売らないし、贅沢も望まない。静かで、余計なことを言わず、俺に長いこと寄り添ってくれたな。他の女たちとお前は違う。俺はお前を嫁にもらえて本当によかった』
サミーラは突然、別人が乗り移ったかのように喋り、その後わなわなと次第に唇が震えた。
ダリオは失礼だとは思ったが、分かるような気がして黙る。
ニュースを見て、こんな女は燃やされて当然だと言われるより、なおその称賛は彼女をずたずたに切り裂き、今ここに足を運ばせることになったのだろう。
十三歳の少女が、男に恥をかかせたからと目の前で姉を焼き殺されて、その光景を見せしめのように見届けさせられた。
あまりにもむごいことだと、ダリオは心の中で眉を下げて、表情に出さないようにするのに苦心した。
まだ十代の若い女性が無数の男たちに押さえつけられ、それを目をそらさぬよう頭を固定されて見させられている妹。
周りにいた大人たちは――止めなかったのだ。
ダリオの胸の内を、少女とその姉に対する悲しみにも似た共感と、実行犯たちやそれを許した人々への時を超えた怒りが静かに広がっていった。
姉の焼殺を計画し、仲間とともに実行した人間に嫁がされて、まだ未成年だったサミーラに何ができただろう。
息を潜めて、殺されないように、相手のご機嫌を取り、従順に振る舞う以外に。
ダリオだってそうだ。
自分より圧倒的に強い存在たちに追いかけ回され、時に閉じ込められ、必死に存在を小さくしてどうにか命からがら逃げ出したことが何度もある。
テオドールが来るまで、怪異による突然の危機はいつも日常と隣り合わせだった。
圧倒的暴力の前に、無力で何もできないと突きつけられることが、いかに人間の尊厳を傷つけるか。
どれほど惨めか。
そんな生活を、加害者とともに何十年も。
その自分の尊厳を磨り潰すようにして生きてきた態度を、人生の収奪者から評価され、褒められる。
「もう、糸が切れてしまってね」
サミーラは笑った。
「靴を売りに行ったよ。こんなことになるとは思ってなくてね、バーンズさんとやらには謝っといておくれ。たぶん、もう悪夢は見ないと思うよ。長年の秘密を吐き出してしまったからね。念を入れて、悪いけど靴を燃やしてくれると助かるね」
「わかりました。責任を持ってお伝えしておきます」
「あぁ、そうしとくれ」
「サミーラさん」
「そんな顔しないで、お若い方。ロータスさん、別に死ぬ気はないよ。まあ殺されるかもしれないけれど、もうこの足で出て行くつもりさ。踏ん切りがついたよ。あとは一分一秒だって、あの殺人者の横にいるのが耐えられなくてね。気がついたらもう無理になってしまったよ」
「⋯⋯長い間、耐えてこられたんですね」
「そうだね⋯⋯心を殺さないとやってられなかったねぇ⋯⋯」
遠い目をするサミーラは、目の前の光景ではなく、ずっと別の場所を見ているようだった。
「差し支えなければ⋯⋯この後、行くあてはどうされるか決めていらっしゃるのですか」
「⋯⋯」
サミーラの瞳が色彩を薄くして沈黙した。
ダリオはその変化を察し、急かさぬように静かに待った。
「もし、今後⋯⋯行くあても、まだ決めていらっしゃらないようでしたら──これは、正式な紹介というわけではありませんが、信頼できる避難所をひとつ存じています」
ダリオは、カバンから書類入れを出す。施設に入っていた関係で知っている信頼度の高いシェルターの案内があったはずだ。
「多国籍対応のシェルターです。僕の名前を出して、紹介されたと問い合わせていただいて構いません。女性と子どもの避難支援をしているところです。行けば、保護してくれます」
サミーラは驚いたように顔を上げ、
「シェルター⋯⋯そうか⋯⋯そういう場所があるんだね⋯⋯」と小さく呟く。知ってはいたけれど、自分も行っていいとは思ってなかったという顔だ。
ダリオはできるだけ穏やかに頷くよう心がけた。
「ええ。どなたにも言わなくてかまいません。ただ、“行っていい場所がある”とだけ覚えていていただけたら。ここに限らず。」
サミーラの目がわずかに潤んだ。
「⋯⋯ありがとう」
「あなたが、ご自身で決められたことを、そのまま歩いていかれるように願っています」
ふとサミーラは外を見て、目を細めた。
「姉は、赤い靴を最後、脱がされてしまってね。もうどこにも行けない、罪人は裸足で地面を踏めないって意味なんだけどね。⋯⋯きっと、今なら、どこにでも行けただろうにねぇ」
皺のある目尻に、雫が盛り上がり、光に滲むのをダリオは何も言わずに見守った。
バーンズに報告を入れて後日、事務所の方に解決したようだとの連絡を受けた。
その時、ひとつ黙っていたことがあると言われた。
「言いづらくてね。その、私も女性の顔に硫酸をかけるアシッドアタックに居合わせたことがある。情けないが傍観してしまってね⋯⋯悪夢を見たのは、そのせいかもしれないと思っていた」
初めから言ってくれとも思うが、まあ言えなかったのも、傍観してしまったのもわかるし、同時にわからなかった。
電話を切って、ダリオはドサリとソファに腰を下ろすと、天井を見上げ、手の甲を自分の目に当てた。
被害者に強く共感して参っているわけでも、傍観したバーンズやかつての大人たちに激しく怒っているわけでもなかった。
そして、人間に深く絶望しているわけでも。
いや、怒り自体は静かにあったと思う。ただ思考を巡らせる時間が必要だった。
考えていた。
あの後ダリオは調べたが、サミーラの住んでいた国では、度重なる名誉殺人を受けて、名誉を口実にした犯罪を対象とする法律が成立し、家族による許し(被害者遺族の“赦し”)によって殺人が実質上不起訴・軽罰になるループホールを撤廃した。
ただし、法律が改正されたにもかかわらず、免責の実態、また被害者遺族や地域社会の圧力・報復の恐れ等が改善されていないという批判もあるようだ。
行きつ戻りつしながら、時に押し戻されつつも、前に進んでいく。進みたいと動かそうとする人々がいるということだろう。
でも、変わらない人間もいる。
そのこと自体に悲観的になっているわけでもない。
ただ、ダリオは。
嫌だと。
拒絶したら、その拒絶を許さない気持ちがわからなかった。
愛している人間に、拒絶されて、それを許せないから、傷つけようとする気持ちがまったくわからなかった。
愛する人が嫌だと、怖いと言っているのに、どうしてその気持ちを許せないことがあるだろう。そんなに怖がっているなら、どうかそうでなくなってほしいと思う。
「ダリオさん」
目元に手の甲を当てたままのダリオの上に、顔を寄せる気配があった。
「大丈夫ですか」
「あー⋯⋯ちょっと、横に肩貸してくれると助かるかも」
「もちろんです」
隣に腰を下ろしたテオドールに、少し頭を預けてみる。
「テオって、俺に最初『NO』された時に、ちょっとしつこかったけど、その後はなんか距離感急にレベルアップしたよな」
テオドールは小さく首をかしげた。
「ダリオさんが嫌がってらっしゃったので。考えました」
ダリオは、うまく返せず、呼吸が浅くなった。
俺が嫌がったから、テオドールは理由も聞かずに、そのとおりにしてくれた。どうしたらいいか考えてくれた。
なんだって好きにできるのに、当たり前みたいにそうしたんだ。
テオドールはふと思い当たったのか、もう少し思案したらしい。
「最初に、怖がらせるようなことをして申し訳ありませんでした⋯⋯」
確かに、不法侵入された一発目は、ダリオも本当に恐ろしかった。
「⋯⋯そこはまあ、人外ボーナスだ。人間初心者マークだったから、後からゆるしたよ」
「ダリオさんは、僕というよりは、怪異全般に甘いですね」
「あんまり線引きすると、しんどいから麻痺させてるところはあったな」
「ダリオさん、また怖くて嫌なことがあったら教えてください」
「うん⋯⋯」
俺も、と言いたいのに、なんだか目の奥と喉が痛くなってきて、ありがとうとしか言えなかった。
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