小石の恋

キザキ ケイ

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本編

02.懐柔

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 理解できないものの、至先輩との距離は着実に近づいている。
 いや、もうほとんど距離がないと見るべきかもしれない。
 気がつくと先輩はぼくを触っている。
 髪の先を弄ぶように指先に絡めたり。意味もなく頬や額を撫でたり。手や指を握られたり。隣に座ると肩を抱かれる。ひどいときは腰だ。
 さりげなく手を叩き落としたり、距離を取ったり、頭を振ったりして抵抗するけど、至先輩がいつもよりちょっと低い声で「リツ」と言うだけでぼくは硬直して、猛獣に睨まれた小動物のように震えることしかできなくなる。
 その隙に猛獣は喉をぐるぐる鳴らしながら、怯えを味わうようにぼくを撫で尽くすのだ。

「なんであんな怖い人に好きこのんで近づくの」

 以前、至先輩の取り巻きの中でも比較的話しやすい同級生に聞いたことがある。
 彼は多弁なほうじゃないので、返答は期待してなかったけど、彼はゆっくりとぼくの問いを咀嚼してこう答えた。

「怖いからこそ目を離せない、のかも」

 つまり怖いもの見たさか。そんなの作り物だけでじゅうぶんなのに。
 ぼくの日常はリアルホラーに侵食されて毎日がパニック映画だ。じわじわ怖いタイプ。
 今のところ元凶に実害があまりないのが救いだけど、ホラー作品で最後まで元凶が無害なことはない。
 しかもぼくの場合、相手は獣だ。
 行動原理も思考も嗜好も違ういきものだってことを忘れかけていたんだ。
 それを見たのは、先輩に占有されてない貴重なぼくの安息日だった。

「……きれーなひと……」

 買い物に出かけた街で、ぼくの目は引っ張られたみたいにそちらへ向けられた。
 今思えば本当に不思議だった。いつもはどこか恥ずかしくて、ぶっきらぼうに目を逸らす場所、いわゆる色街、ラブホ街……その方向に自分から視線を向けることなんてなかったから。
 とにかくめずらしくそちらを見て、よく見知った先輩が、背が高くてきれいな女の人と歩いているのを目撃したのだった。
 今までなんとなく、至先輩のそういう側面に意識を向けないようにしていた。
 でも考えるまでもなく、あの人はモテるはずだ。
 どこかアンバランスで危険な香り。露悪的なまなざし。誰のものにもなりそうにない悠々とした切迫感。
 そしてあの人が、寄ってくる美しい蝶を手折らないわけがない。

「先輩って、年上が好きなんだな」

 取り巻き衆、といっても近頃はふつうにいっしょにいる、至先輩を盲信していること以外はこれといって欠落のない同級生に尋ねると、彼は啜っていた紙パック野菜ジュースを吹き出した。

「きたなっ」
「っ、げふ、ぅぐ……急になんてこと言うんだよ律紀」
「そんな変なこと言ってないよ」
「だって先輩が年上好きだとかなんとか……」

 それしか言ってない。
 ぼくは付加情報として、ラブホ街で見かけた先輩のお相手の特徴を思い浮かべた。
 今の先輩が青っぽい灰色の髪をしているのに対し、女性はつやつやした黒髪ストレートだった。背がすらりと高くて姿勢が良かったから、モデルさんとかかもしれない。足も細くて、高いヒールを履いてた。なにより先輩と寄り添って歩く姿がとても堂に入っていた。

「あ~……そういや先輩、ときどき高そーな香水のにおいさせてることあるよな」
「ふぅん」
「いやでも本気じゃないと思うぞ。今はほら、さ。先輩くらいになると女が勝手に寄ってきちゃうんだろ」
「なるほど」

 でも、きれいなひとだった。先輩と釣り合っていた。
 この学校にいる誰よりも。

「ああいうひとが、先輩といるべきなんだなぁ」
「ちょ、律紀? それどういう意味?」
「意味とかないけど。先輩に似合うのはモデル体型の年上美女だなぁって」
「だなあって、じゃないぞ律紀。あーこれどうすんだ先輩……」

 取り巻きの彼はなぜか頭を抱えていた。野菜ジュースが耳にでも入ったのだろうか。
 すると、昼食の場にもうひとり増えた。先輩のことが怖いのに見てしまうタイプの取り巻き衆だ。

「なにしてんの」
「野菜ジュースが耳に入ったみたい」
「入ってねーわ!」

 さっき野菜ジュースが噴き出されてから耳に入るまでのことを話すと、寡黙な彼はじっと聞いて、それからゆっくり食パンをかじった。

「天道先輩の伝説、知らないんだ?」
「伝説?」

 要は先輩は爆モテだったらしい。特にぼくらが入学する前年。
 高一の頃から片鱗はあったが、ピークは二年で、当時の先輩は女性をはべらすどころの話じゃなく、行列のように引き連れて移動するレベルだったらしい。
 我が校がバレンタインプレゼントの校内持ち込み禁止になってるのは、先輩のせいなんだとか。他にも先輩を取り合ってケンカとか。先輩が彼女を寝取ったと難癖をつけてリンチしようとして返り討ちにあい救急車が3台呼ばれたとか。先輩に振り向いてほしくて自殺未遂とか。

「だから今年からは、学内では一切相手しなくなったって言われてた」
「そんなことがあったらそうなるね」
「ん。良くも悪くも誤解されやすいひとだし」

 寡黙な彼は先輩のことをよく知ってるようだ。

「だから学外の美女と、ってことか」
「今の彼女見かけたの? たしかに先輩って、すらっとした美人が好みらしいけど」

 ぼくが週末に見たものをかんたんに説明すると、納得してもらえた。
 ぼくも彼のおかげで納得できた。
 やはり先輩の好みは年上のすらっとした美女。しかも、同じ学校の人とは付き合わない。
 肩の荷がおりたように清々しくなり、弁当の白飯を元気よくかきこむぼくの横で、野菜ジュースくんは微妙に納得してなさそう。

「律紀が見かけたの、ほんとに彼女なんかなぁ」

 しきりに首をひねる野菜ジュースくんに、寡黙くんが応じる。

「なんか気になるの?」
「いや、だってさぁ。今の先輩は……ほら、さぁ」
「あー」

 ずいぶんぼやけた物言いなのに、寡黙くんは理解できたらしい。

「遊び相手じゃない?」
「遊びかぁ。うーん」
「本命は鈍くて全然気づいてないし」

 どうやら寡黙くんも野菜ジュースくんも先輩の恋愛事情に詳しいようだ。
 ただ付き纏われているだけのぼくと違って、二人は先輩のことを慕っているわけだし、よく見ているということなのだろう。よく見ていれば学外の女性関係も把握できるのか。
 そういうことならぼくはきっと、至先輩のことを何も知らない。

 ぼくがのんびりと高校生を満喫した一年間は、先輩にとっては忙しい一年だったという。
 しょっちゅう下級生にちょっかい出しに来ていたわりに、先輩はきちんと勉強していたらしく、受験のことなど全然考えてないようなぼくでも知ってる有名な大学へ進学していった。
 いつ勉強していたんだろう。まったく気配がなかった。やはりぼくは至先輩のことを何も知らない。

 在校生は卒業式に出なくていいらしいので、ぼくは出なかった。
 そしたら先輩も出なかった。

「先輩、卒業式行かなくていいの」
「別に。今生の別れってわけでもねーし」

 卒業式に出ているはずの先輩からいつかのカフェに呼び出されて、全く脈絡なくパフェを奢られている現在。
 ぼくはいいけどね、期間限定の桜パフェ食べたかったし。
 先輩はもはや取りつくろうためのアイスすら頼まず、ぼくの横でコーヒーをすすっている。
 二人で来て四人席に案内されて、二人で片側に座るのってなんか変じゃないかな。

「先輩、ソファに座りたかった?」
「いや別に」

 席を譲ろうかと思ったのに、特にそういうわけでもないらしい。
 おとなしくパフェをつつく。
 食べすすめていると、真ん中あたりの層から抹茶のゼリーが発掘された。

「先輩、ここうまいよ」

 小さなパフェスプーンにゼリーをのせて差し出すと、横からぱくりと食べられる。
 あーんされる関係から、あーんしあう関係になだれ込むのにそう時間はかからなかった。
 ぼくは別に進んであーんしたいわけじゃないけど、先輩が食べたがるから分け与えているうちに、なんとなく日常になってしまった。
 先輩はもにもにとゼリーを咀嚼して微笑んだ。

「俺の好みがわかってきたな」
「だと思った。先輩、ちょと苦いのが好きだもんね」

 まだ若いのに、と付け加えようか迷って、言わなかったけれど、たぶんバレてる。
 ずいぶん機嫌が良さそうなので、仕方なくもう一度ゼリーをすくって差し出すと、予想に反して先輩はそれを食べなかった。

「最近は甘いのも嫌いじゃない」
「へ、そうなんだ。じゃあクリームのことも食べる?」
「いらねぇ」

 じゃあなんで甘いものも食べるとか言うんだよ。文脈がめちゃくちゃ。もう大学生になるのにこんなんで大丈夫なのかな。
 スプーンを引っ込めてパフェに向き直ると、先輩が髪をいじってきた。暇なのかな。
 指先が髪を撫で、つんと引いて、そのまま流れてぼくの頬に触れる。
 髪や肌に触れられるのも日常すぎてもう慣れた。
 だけど、あまりにも触られるから、ぼく自身気にしたことなんてなかったぼく自身の表皮のことが、急に気になるようになってしまった。

「先輩のせいでさぁ、ぼく最近、化粧水とかつけてるんだよ」

 母親のものを借りて、気が向いたらちょっと塗るだけだけど。
 頬骨のあたりにでこぼこしてたのが、少し平らかになった気はしている。
 ぼくがそう愚痴ると、先輩はまっすぐにぼくを見つめて、手のひらで味わうようにゆっくりとぼくの頬を包み込んだ。親指がそっと目元をなぞっていく。
 いや、化粧水塗り始めたからってそんなじっくり触られると、にきびを無理に潰してへこんだ跡とかまだ全然残ってて。
 内心慌てていたぼくは、至先輩の顔が妙に近くて、手じゃないところで触れられたことに数秒、反応できなかった。
 ちゅ。
 先輩から発生するにはずいぶんかわいい音がした。

「甘い」

 感想なのか文句なのかわからない口調でつぶやき、もう一度、ちゅが発生した。

「かわいいなぁ、リツは。かわいい」

 かわいいのは先輩がたてる音だけだ。ぼくも先輩もちっともかわいくない。
 でもぼくはろくに拒絶もせず、かわいい音が唇をついばんでいくのを無感動に観測した。
 それから先輩はぼくの頬を手放したので、パフェの残りを胃に流し込んで退店した。ぼく的には大忙しの速度だ。
 もうあのカフェ行けない。
 じわじわと後悔が押し寄せる。カフェでは不適切すぎるふるまいをする先輩を、もっと強く止めていたら、またあのカフェに行けたのに。
 あぁでも、先輩の奢りじゃなければここは高くて来られない。
 そう考えたらもうどうでもよくなって、ぼくはふつうに先輩と別れた。
 こんな具合に至先輩は卒業していった。
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