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序章 全ての始まり
じょのに・土となる身
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今宵も、葦原遊郭は、女の涙で赤く染まっていた。
外の雪洞に灯りが入れば、中の行灯の火は欲の息に拭き消される。
灯りのはいった仲ノ町。
呼び出された花魁が、すまし顔で道中を始め、道中を許されない下級の遊女は、格子の中で爪弾く清掻と猫撫で声で男を誘う。
それに混じる、引き込み に声をかけられた男やお目当の女郎の名を呼ぶ旦那の声がさらに艶っぽく聴こえる格子前。
そんな色めく喧騒の中、潜めく声が聞こえたのは、遊女が閉じ込められる行灯部屋でも、遣り手の目の逃れて間夫と密かに口吸いを交わす物置や蔵場所でもない。
葦原随一と言われる妓楼・美兎羅屋の二階の奥、三番目に豪奢に設えられた座敷の御簾の奥。
「おまぃは、ほんに、ほんにそれでいぃんかい?」
嬉しい申し出のはずなのに、出るのはため息混じりの問いかけ。
「それについては、何度もお話し合ってきめたことじゃありんせんか」夜店も始まったというのに紅一つさしていない素の顔で、うすら笑う「花魁」
「しかし、わっちは何度も話したが…」
花魁、と、年若い美しい女は笑った。
「それはわっちも同じ事。 何度もお話しした通り、わっちにはこれしか道がないすよ」
にこやかに笑う女は、そっと、己の胸に手をやった。
「間夫に、肺の病をもらってしまいんした。つい先ほど、その間夫も同じ病で死んだと文が……。狭い葦原の中のこと、じきにうちの忘八にもこのことは人づてにしれてしまうでしょう。そうしたらわっちは行灯部屋に死ぬまで閉じ込められて、投げ込み寺に放られてしまいんす。……わっちの心の臓は元からのぽんこつ。そのせいで家を継ぐこともできず、葦原に売られてきた身。好いた男にも居なくなられ、ここでの行く末も絶たれた今、これ以上の身の振り方はありんせん」
ですから、と、晴れやかに微笑む。
「どちらにせよ、わっちは年末まで生きることはできんせん…それならば、この身がお役に立つんであれば、貴方様への恩返しってもんですよ」
姉女郎の秘密を知ったのはいつだっただろう…長い間、腹のなかに火の玉を抱き、必死に隠していたなんて。
「太夫には、ほんによぅして頂きんした。遠く四国の山奥からここに売られ、ただただ右も左も分からない、質も良くなく泣いてばかり、叱られてばかりのわっちを禿にしてくださり、美味しいご飯や菓子を下さり、以下なものよと笑われないように作法も教えてくださった。あん時、あまりの空腹に盗み食いをしてしまい遣り手に折檻を受けていたわっちを太夫に助けていただけなかったら……禿にしていただかなければ、わっちは早々に店に出され、使い捨ての端女郎になっていたでしょう。……太夫に芸事、教養を仕込んでいただいたお陰で、ちゃんと良い旦那様に水揚げしていただき、座敷持ちになって、好いた相手もできた。この苦界で、見せかけだけでも、本に幸せと、胸に抱くことができました…」
きっぱり、言い切った。
「ここで腹を切り裂かれても、悔いが残ることはありんせん」
「…おたえ…」
「遊女の名でなく、幼い頃から慣れ親しんだ、親のつけてくれた名で呼んでくださる貴方がいらっしゃる…それで、それだけで、わっちは十分幸せでありんしたよ、花魁」
にこり、彼女は笑うと、それでは、約束通りに、と、ひとつ頭を下げて部屋を出て行った。
「今までありがとうござんした。おひまをいただきます」
女を籠が、ゆっくり裏門を出たのはその3日後。
座敷持ちとは言え、ただの女郎が、年期明けでもなければ身受けでもなく、綺麗な籠で葦原を出て行く。
それ自体は特に珍しいことではなかったが、病を理由に、外にある屋敷への養生、という名目は金を持つお大尽を相手にする太夫以外には大変に珍しく、どれだけのコネが、後ろの力がと噂は葦原をかけた。
なんでも、姉女郎がその金を出してやったらしい。
危篤なもんだ、自分の借金を増やし、年季を伸ばすだけではないか。
皆、面白おかしく話しをしていたが、その金の出所を聴くと皆一斉に黙った。
それは、めったやたらに口を出してはいけないお大尽の影を匂わせていたからだ。
籠に乗り葦原を出た彼女が身を寄せた外屋敷は、江戸は小鉱石川(こいしかわ)、猫又の老医師が営む治療院の横にある小さな小さな庵だった。
肺の病と知れていたため、周囲の人は避けて通っていたものの、猫又の医者と小間使いや手伝いの猫又達、そして何故か狐の女がちょくちょく顔を見に行っては、掃除をし、薬や食事を置いて行く…女郎としては、とても恵まれた養生環境ではあった。
しかし、牡丹が咲く頃に葦原を出た彼女は、年を越すどころかその年の初雪すら、見ることはなかった。
彼女の最後は、その平穏な晩年には想像もできない凄惨なもので合った。
強盗が入ったのか、どこかで恨みを買ったのか……屋敷の中は、床壁襖、天井に至るまで血肉が飛び散る酷い有様で合ったと噂が立つほどであった。
流石にこのままでは金輪際誰も住めないと、すぐに術師と祓師が呼び込まれ地鎮祭を行なったのち、庵は何事もなかったかのように取り潰された。
そうして、その跡地が猫又治療院の離れ庵と薬草園になったのは、そんな話がわずかにも残っていない頃であった。
外の雪洞に灯りが入れば、中の行灯の火は欲の息に拭き消される。
灯りのはいった仲ノ町。
呼び出された花魁が、すまし顔で道中を始め、道中を許されない下級の遊女は、格子の中で爪弾く清掻と猫撫で声で男を誘う。
それに混じる、引き込み に声をかけられた男やお目当の女郎の名を呼ぶ旦那の声がさらに艶っぽく聴こえる格子前。
そんな色めく喧騒の中、潜めく声が聞こえたのは、遊女が閉じ込められる行灯部屋でも、遣り手の目の逃れて間夫と密かに口吸いを交わす物置や蔵場所でもない。
葦原随一と言われる妓楼・美兎羅屋の二階の奥、三番目に豪奢に設えられた座敷の御簾の奥。
「おまぃは、ほんに、ほんにそれでいぃんかい?」
嬉しい申し出のはずなのに、出るのはため息混じりの問いかけ。
「それについては、何度もお話し合ってきめたことじゃありんせんか」夜店も始まったというのに紅一つさしていない素の顔で、うすら笑う「花魁」
「しかし、わっちは何度も話したが…」
花魁、と、年若い美しい女は笑った。
「それはわっちも同じ事。 何度もお話しした通り、わっちにはこれしか道がないすよ」
にこやかに笑う女は、そっと、己の胸に手をやった。
「間夫に、肺の病をもらってしまいんした。つい先ほど、その間夫も同じ病で死んだと文が……。狭い葦原の中のこと、じきにうちの忘八にもこのことは人づてにしれてしまうでしょう。そうしたらわっちは行灯部屋に死ぬまで閉じ込められて、投げ込み寺に放られてしまいんす。……わっちの心の臓は元からのぽんこつ。そのせいで家を継ぐこともできず、葦原に売られてきた身。好いた男にも居なくなられ、ここでの行く末も絶たれた今、これ以上の身の振り方はありんせん」
ですから、と、晴れやかに微笑む。
「どちらにせよ、わっちは年末まで生きることはできんせん…それならば、この身がお役に立つんであれば、貴方様への恩返しってもんですよ」
姉女郎の秘密を知ったのはいつだっただろう…長い間、腹のなかに火の玉を抱き、必死に隠していたなんて。
「太夫には、ほんによぅして頂きんした。遠く四国の山奥からここに売られ、ただただ右も左も分からない、質も良くなく泣いてばかり、叱られてばかりのわっちを禿にしてくださり、美味しいご飯や菓子を下さり、以下なものよと笑われないように作法も教えてくださった。あん時、あまりの空腹に盗み食いをしてしまい遣り手に折檻を受けていたわっちを太夫に助けていただけなかったら……禿にしていただかなければ、わっちは早々に店に出され、使い捨ての端女郎になっていたでしょう。……太夫に芸事、教養を仕込んでいただいたお陰で、ちゃんと良い旦那様に水揚げしていただき、座敷持ちになって、好いた相手もできた。この苦界で、見せかけだけでも、本に幸せと、胸に抱くことができました…」
きっぱり、言い切った。
「ここで腹を切り裂かれても、悔いが残ることはありんせん」
「…おたえ…」
「遊女の名でなく、幼い頃から慣れ親しんだ、親のつけてくれた名で呼んでくださる貴方がいらっしゃる…それで、それだけで、わっちは十分幸せでありんしたよ、花魁」
にこり、彼女は笑うと、それでは、約束通りに、と、ひとつ頭を下げて部屋を出て行った。
「今までありがとうござんした。おひまをいただきます」
女を籠が、ゆっくり裏門を出たのはその3日後。
座敷持ちとは言え、ただの女郎が、年期明けでもなければ身受けでもなく、綺麗な籠で葦原を出て行く。
それ自体は特に珍しいことではなかったが、病を理由に、外にある屋敷への養生、という名目は金を持つお大尽を相手にする太夫以外には大変に珍しく、どれだけのコネが、後ろの力がと噂は葦原をかけた。
なんでも、姉女郎がその金を出してやったらしい。
危篤なもんだ、自分の借金を増やし、年季を伸ばすだけではないか。
皆、面白おかしく話しをしていたが、その金の出所を聴くと皆一斉に黙った。
それは、めったやたらに口を出してはいけないお大尽の影を匂わせていたからだ。
籠に乗り葦原を出た彼女が身を寄せた外屋敷は、江戸は小鉱石川(こいしかわ)、猫又の老医師が営む治療院の横にある小さな小さな庵だった。
肺の病と知れていたため、周囲の人は避けて通っていたものの、猫又の医者と小間使いや手伝いの猫又達、そして何故か狐の女がちょくちょく顔を見に行っては、掃除をし、薬や食事を置いて行く…女郎としては、とても恵まれた養生環境ではあった。
しかし、牡丹が咲く頃に葦原を出た彼女は、年を越すどころかその年の初雪すら、見ることはなかった。
彼女の最後は、その平穏な晩年には想像もできない凄惨なもので合った。
強盗が入ったのか、どこかで恨みを買ったのか……屋敷の中は、床壁襖、天井に至るまで血肉が飛び散る酷い有様で合ったと噂が立つほどであった。
流石にこのままでは金輪際誰も住めないと、すぐに術師と祓師が呼び込まれ地鎮祭を行なったのち、庵は何事もなかったかのように取り潰された。
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