【完結】妖の國の迷い子~唯一の人間である僕と、幼馴染のあやかし騒乱記~

猫石

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序章 全ての始まり

じょのいち・新月の夜

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 一度は愛した男の子供    産みたい
 私を裏切った憎い男  産みたくない
 産みたくない   魔人を生んだら死んでしまう
 産みたい  腹に宿るこの子を抱きたい

……

 全てには始まりが、ある。
 それがどこから、と定かではないにしろ、始まりはあるのだ。
 そしてこの話は、ここが始まりであったと、記憶をしておかなければならない。

    ++++++
 
 それは、ひどく喉の乾く夜。
 血に濡れた毛並みは、走り回ったせいで泥や草花、落ち葉、苔がこびり付いて生臭い。
 血に濡れて、なお、獣道を這いずり回った後の姿だ。
 死を目前に、わずかな希望で生にしがみつく、罪深い獣は森の中をもう長い間彷徨っていた。
 あの夜。
 その体を、魂を血に汚した夜から幾つの朝晩を見送って来たのだろう。人から逃げ、お天道様から逃げ、日に日に細くなる月の下、濃くなる闇に燃え上がる篝火に怯えながら、ただひたすに、遠くへ遠くへと、引きずるように足を動かし前に進んだ。
 飢えと渇きはそんな中でも容赦なく襲いくる。
 時折その辺りに溜まった泥水や木々の朝露を飲み、小さな動物や這う虫を食べ、木の虚や岩の影で時折睡眠をとる以外はただあてもなく、よろよろとどこか、自分がいても良い何処かへ向かって足を動かした。
 どこへかは、わからない。
 ただ帰るあてはなし。
 もともと追われる身、満月の夜からは重ねて追われる身となった。行くあてがなくともただ逃げるため、足を進めるしか何もなかった。
 そうして、出会った。
 十分な睡眠も、食事も水も取れず、己が罪にそろそろ正気を失いそうなただひたすらに闇ばかりの新月の夜。
 あたりは虫と、星と、獣の瞳の光しかない闇の中、そこだけが、ただただ神々しく美しかった。
 そしてそこだけが、なぜか怖かった。
「声は、おまぃか」
 美しい、は、声を発した。
 波のない海へ石を放り波紋を広げるかのように、体の奥から震わせる声が森全体に響いた。
「おまぃは……」
 わずかに見えたその『美しい』は、昔みてからずっと憧れていた、五節の舞姫の首飾りのように澄んだ翡翠のような一対の瞳だとわかった。
「そうか、伏見のはぐれ狐か。血塗れだ、酷く臭ぅ」
「あ……た……は……?」
 その綺麗が、本当に綺麗なのか、なぜかちゃんと見たくなった。するとしゅるり、意識ぜずに己の姿が闇に蕩けた。
 とろけて揺れて、満月の日以来なる事のなかった、血と泥まみれた人型の姿に戻る。
「綺麗……」
「綺麗?」ふん、鼻で笑うように空気が揺れた。「それよりおまぃ、気づいているのか?」
 くつくつと、綺麗が空気を震わせて笑っている。
「おまぃの腹にはややこがおる」
 全身の毛が粟立つように逆立った。
 そんな様子を見据えるように、両の瞳をしっかり見据えた二つの翡翠は近づいてくる。
「そぃは人の子だな……おまぃ、知ってはおらぬのか? あやかしものと人の子は必ず魔人となる事を。おまぃはじきに、身に宿したややこの毒で死ぬか、そのややこに殺される」
 わなわなと、寒さや飢えだけではない、現実を突きつけられた恐怖で体が震える。
「あぁ、その顔だと全部知っていてのことか、これは酔狂な狐だぃな」
 にぃっと、わずかな星の明かりでも、口である場所が弧を描いたのがわかる。
 あぁ、怖い。
 この綺麗は怖い。
 声をかけたのは失敗であった、出会ったのは失敗であった。しかしもう逃げられない、怖い、怖い。
 震える身、離せぬ瞳の光が一瞬、細くなった。
「助けてやろうか?」まん丸になった瞳がぎらり、光を増した。「子を捨て、おまぃの命を望むか? それともややこを産んで死んで果てるか、どちらを望む?」
「わた…」錆び付いた血がこびり付いた唇が、かくかくと動く「わた…しは…」
 乾ききった体の奥底で、水が湧き出る音が、聞こえた気がした。
 こぽり、こぽりと。
 恐ろしいはずの翡翠に、希望を得た身が震え、欲が湧き出た。
 土気色をしていた瞳に水が、光が宿り、金色に色を取り戻し、身体中の欲を、憎しみを、水分を吐き出すように潤みだす。
「怖い……」
「怖い?」
  ぱらり、地泥の鱗が、感情を押し殺していた壁を壊すように頬から落ちた。
「怖いのです、私は、この子を生んでしまえば死んでしまう! この子は憎い男の子供! 私を裏切った、私を殺そうとした、薄汚く欲にまみれた人間の男の子供!」
 頬に、髪に張り付いていた赤黒い血と泥でできた塊が、涙と共に、悲鳴とともに、ぼろぼろと地面に落ちていく。
 あぁ、憎い、憎い。憎いのに憎いのに。
「それでも‼︎」
 土を、握りしめた。
「愛していたのです、愛していたのです。あの方を心から私の全てを捨ててもいいほど愛していたのです! だからこそ!」
 わすれない。
 あの日、腹にほんのり宿った柔らかな漣の温かさ。
「この子を抱きたい! この子を産みたいのです! でもそうしたら私は死んでしまう! この子は魔人となり、妖にも人間にもなれない! 生まれ落ちてすぐ、母に抱かれることも母に愛されることもなく、己の全ても知らぬまま、人を食い、妖を食い、世界を彷徨い血を貪る悪鬼となってしまう、可哀想なものになってしまう!」
 それでも、あぁ、そうだ、それでも!
「私は! 私はこの子を産み、抱きしめたいのです! 憎い男の子供! 愛しいあの人の…」
 まぶたの裏に浮かぶのは、欲に目がくらみ、醜く浅ましくこの首を狙い定める卑しい顔でない、一族の森で初めて見た、微笑みあった、生涯を誓い合った、美しく優しい笑顔。
 子ができた、と知った時、なんて優しく微笑み、私を抱きしめてくれたのか。
「愛しいあの人との子を産み、育てたいのです!」
 悲鳴のような、子を求める母狐の遠吠えのような。
 魂の奥底からの、哀願。
「覚悟があるのなら、手を貸してやろう」浮かび上がる、差し出された白い手。「おまぃが死なず、その ややこ を無事、腹が出す手助けをしてやろう」
「……そ……んな事、が……」
「ただし!」ぴしりっ!空気が固まるように言い切る。「その子を生むのであれば、ここは人の世、欲まみれの世界。この世界にとどまることは毒を濃くするために出来ぬため、お前が追われる妖の国へ帰ることになる。そぅしてその子を世に出すために、おまぃは自ら、おまいの欲のために命を差し出してくれる哀れな犠牲腹を探し出さねばならぬ。それでも良いか?」
「……それ、は……?」
「子が育たぬよう、玉の呪をかける。おまぃはその呪玉を腹に抱えたまま、あちらに帰り、その呪玉を腹に宿し育て、産んでくれる腹を探さねばならぬ」翡翠の眼をもった、陽炎のように揺らめく雛色の闇が笑いながら手を伸ばして近づいてくる。「ややこ は毒火の玉のようになる、故におまぃはその呪玉の重みと熱を、その ややこ を宿してくれる腹が見つかるまで耐えねばならぬ」
「…腹は」不思議に思う「犠牲腹は、どうなるのですか?」
「魔人を生んだ母に準ずる」言い切る。「おまぃの代わりに、ややこ の贄になる。それでも…」
 死ぬ運命を他者へ。
 己の欲のために、他社の命を捧げよと言うのだ。
 なんて罪深い、だか……
「それでも!」ぎらり、黄金に瞳が光った「既に人を殺し飲み込んだこの身!この子をこの手に抱けるのであれば!」
「いぅたな」
 白い手は地泥まみれの手を掴んだ。
「……それでは、戻るが良いょ」反対の白い手が闇夜に揺れると、地面がぽかり、大きく血色の口を開けた。「その汚れた修羅の身、あちらで隠し置く場も、おぃおぃ考えるとしようょ」
 なに、あてはある…と、光はため息交じりに言った。
「ありがとうぞんじあげます!」
「勘違いするなよ」
 冷たく冷えきった、翡翠の視線に息を飲む。
「おまぃの為ではない、おまぃのややこの鳴き声が聞こえたからだ」
 掴んだ腕と力任せに引きずると、ただ物を捨てるように大きな口の中に放りこんだ。
 そうして追うように、逃さぬように、雛の陽炎もそこに足を進める。
 翡翠の瞳は黒く淀んだ人の世に一瞥をくれて、先に落ちる狐の腹の奥を見た。

ーー助けて
 と。
 二度と縁をつなぐことのないと思った人の世へ、通じるわずかな隙間から、かすかに耳を掠めた小さな声。
 それはまるで、誰もいない夜明けの海の漣のような。


助けて
助けて
お母様を助けて
お母様を助けて
お母様を助けて、僕は、僕はどうなってもいいから
お母様を
僕のせいで苦しむ
かわいそうなお母様を助けて


 あぁ、この期に及んでおまぃは、なんて愛おしくてかあぃらしい。
 このまま母の腹の中、己が地に逆らえず泣いて暮らすおまぃが不憫でならない。
 そのまま育てば悪鬼となり
 母の気が変われば藻屑のように消し去られる
 私と同じ醜い  モノ  にする訳にはいかぬ


 翡翠の瞳はこれから行く先の世界のために闇を凝らせた。
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