婚約破棄された堅物令嬢ですが、鬼の騎士団長の娘として宮廷の陰謀を暴くのに忙しいので、美貌のカストラート(実は王子)に溺愛される暇はありません

綾森れん

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02、秘密の手記

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 シャンデリアの明かりを跳ね返す鋭い刀身を目にしても、歌手アルカンジェロが顔色を変えることは無かった。

「リラお嬢様はお体の具合が悪いようです。どうかお通し願えませんか」

 彼は私を抱いたまま、礼儀正しくこうべを垂れた。

 英雄叙事詩に出てくるうるわしの騎士のような姿に、また女性たちから感嘆のため息が漏れた。頬にかかる一房の巻き毛は少年らしさの残る彼の美貌を引き立て、黒いリボンで一つにまとめた豊かな髪は漆黒の絹糸のようだ。

 女性たちの注目を浴びる若い歌手に、心のせまいグイードは激怒した。

「お前は、わがブライデン家お抱え歌手という自分の立場が分かっているのか? 去勢歌手カストラート風情ふぜいが偉そうに!」

 グイードのあからさまな物言いに、女声たちは「まあ!」と頬を染めたり眉をひそめたりと忙しい。

 グイードは剣を振り回して見せるも、如何いかんせんアルカンジェロのほうが背が高い。必然と見上げる姿勢になり、まるで格好がつかない。

「お嬢様に刃先が触れてしまいます」

 アルカンジェロは私を抱いたまま、ひらりと身をひるがえした。

 避けられると思っていなかったのか、それとも磨き上げられた大理石の床に足をすべらせたのか――

 ずべしっ。

 この上なく格好悪い音を立てて、グイードは鼻から床に激突した。

「グイード様!」

 大広間の扉脇に控えていたブライデン公爵家の使用人が慌てて駆け寄る。

「医務室へお運びいたします!」

 数人の男性使用人が群がり、あっという間にグイードを連れ去った。

 息をつめて見守っていた人々からクスクスと笑い声が漏れる。

「失礼いたします」

 アルカンジェロは私をしっかりと抱いたまま誰に言うでもなく宣言し、堂々たる足取りで廊下へ出た。



 こぢんまりとした部屋は、静かに燃える暖炉の火にあたためられていた。壁際の燭台は灯されておらず、窓の外を流れる運河に映った月が、ガラスの向こうでぼんやりとゆらめいている。

 アルカンジェロは私を慎重にカウチへ寝かせると、燭台のロウソクに暖炉の火を移した。

 黄色い灯りが染み渡り、落ち着いた調度品を照らし出す。

「ご気分はいかがですか」

 アルカンジェロはカウチの前に片膝をつき、優しいまなざしで私を見上げた。

「だいぶ良くなってまいりましたわ」

 もとより仮病だから体調に問題はない。

 気まずい大広間から連れ出してくれたこの歌手には感謝しているが、公爵邸に長居する理由はない。私は控え室で待つ侍女を伴って、公爵邸前に止めてある馬車に戻るつもりでいた。

 だが、アルカンジェロの意外な言葉が私を引き止めた。

「聡明で美しいリラお嬢様には、あのように不躾ぶしつけな男は不釣り合いですよ」

 公爵家に雇われている歌手の立場で、その家の息子を不躾呼ばわりするなんて、なかなか面白いじゃないの。

「リラお嬢様はあの男を愛していらっしゃったのですか?」

 今度は「あの男」呼ばわりときた。興味を引かれた私は彼の心を探ろうと、その表情を見つめた。

 薄暗い部屋の中、黒曜石のように神秘的な色合いを見せる彼の瞳によぎるのは――嫉妬? そんなはずはない。私と彼は身分も違うし、全くの他人なのだから。

 だが、グイードを愛していたなどと誤解されるのは心外なので、答えておかなければならない。

「家のための婚約ですわ。私の心に、愛だの恋だの甘ったるいものが入り込む余地はありません」

 だがアルカンジェロは苦しげに答えた。

「家のための婚姻でリラお嬢様が幸せになれるならよいのですが」

「幸せですって?」

 結婚で幸せになろうなんて考えていない。私は、ある目的のために、この婚姻を利用するつもりだったのだから。

 アルカンジェロは理知的な瞳を悲しみの色に染めている。

「リラお嬢様にはご自身の幸せを最優先にしてほしいのです」

 痛みをこらえるように濃いまつ毛を伏せる彼に、私はきっぱりと言い返した。

「言われなくてもそうするつもりよ。すでに私は幸せで、充分に満たされているんだから」

 婚約を破棄された直後にいつもの調子で気炎を吐いても、強がっているようにしか見えないだろう。居心地の悪さに席を立とうとしたとき、アルカンジェロはふと花弁がほどけるように笑った。

「その意気です。あなたは無邪気で天真爛漫で、恐れ知らずの少女だった」

 初対面にもかかわらず知ったような口を利く彼に、私は決然と言い返した。

「勝手なことを言わないでちょうだい」

 勢いよくカウチから立ち上がった瞬間、彼が私の肩にかけてくれたジュストコールがすべり落ちた。

「あら」

 大広間で彼が気遣ってくれた優しさを思い出して、少し良心がとがめる。彼の服を拾おうと再度カウチに腰を下ろしたとき、ジュストコールのポケットから飛び出した手帳が目に入った。開かれたページに流麗な筆跡で記されていたのは――

『・Bの手記:過去数年分 彼の書斎にあり。
  ※十年前の手記があるか要確認
 ・Bが書斎にいない時間帯:~~~
 ・Bが宮殿に出仕する曜日:~~~』

 私は息を呑んだ。何度も出てくる「B」が何を指すのか、私はすぐに察してしまった。グイードの父親であるブライデン公爵に違いない。

「あなたは自分の雇い主の動向を探っているの?」

 暖炉の薪がパチパチとはぜる音より小さな声で、私は尋ねた。
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