94 / 133
第21話 邂逅
第21話・2 偶然だね、レイラちゃん
しおりを挟む
「──ただいま」
レイラが医療棟の病室に顔を出すと、簡素なベッドの上で読書をしていたリルが顔を上げた。
まだ療養中とはいえ、顔色は随分良くなっている。
「ん。……おかえり」
その声はいつも通りだったが──。
「……おい」
リルの目が、ふと鋭く向けられた。
何気なく剣の柄に添えていたレイラの指先が、無意識にギュッと握られている。
「……どうした。顔、強張ってんぞ」
「──っ」
一瞬、レイラの肩がピクリと跳ねた。
「え、……あ、ううん……。その……調査中に、ちょっと怖い男の人に絡まれちゃって……」
「…………」
レイラは目を逸らしながら、ぎこちなく笑ってみせる。
「誰もいないとこだったから、余計ビックリして。まだちょっと、心臓がドキドキしてるっていうか……」
いつもの冷静な語り口が、僅かに震えていた。
リルはじっとその様子を見つめていたが──。
「……何だそれ。お前、そんなか弱くねえだろ」
ボソッと呟くその声音は、茶化すようでいて優しさが滲んでいた。
「……っ、う、うるさいな……」
レイラは軽く眉をしかめて、そっぽを向く。
だが、どこか安心したように息を吐いたのがリルにはわかった。
「……まあ、無事ならいいけどよ」
リルはベッドの端に体を預けながら、少しだけ目を細める。
「なんか……最近お前、危なっかしい時あるから。戦い慣れてきた分、油断とかしてんじゃねーの」
「してない。……つもり」
苦笑混じりに答えるレイラ。
先程まで握っていた剣の柄から、ようやく手を離していたことに自分でも気がつく。
「…………」
リルがいる。
そのことが、いつもより少し、心強かった。
「……ふぅ……」
伸びをして、ベッドの背に腕を預けるリル。
「怖かったんなら、今夜はちゃんと寝ろよ。横で寝ててやるから」
「っえ、……は? 勝手に人のベッドに入ろうとしないで」
「フッ……そんだけ元気なら大丈夫だな」
「ぐぬ……」
レイラは睨んでみせたが、リルのくすっと笑った顔を見て思わず口元が綻ぶ。
他愛ないやり取り。
しかしその裏で、レイラの胸には今も『ジキル』という名の影が根を張り始めていた。
あの男の顔が、言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。
「……っ」
(──あんな人から、リルの名前が出てほしくなかった)
心の奥底で、何かが静かに蠢き始めていた。
それでも、今は──この時間を守りたかった。
「……ね、ぇ……リル」
「なに」
「……もう少しだけ、ここにいてもいい……?」
「…………」
レイラが小さく呟くと、リルは瞬きをひとつして──無言で手のひらをぽんぽんと隣に叩く。
言葉じゃない。
でもその動作の意味は全部わかる。
レイラは黙って、隣に腰を下ろした。
肩が、リルの腕に僅かに触れる。
それだけで、張り詰めていた神経が解けていくのがわかった。
「……ありがと」
小さく、だけど確かに呟く声。
リルは何も返さなかったが、そのまま横目でレイラを見て、フッと口角を上げた。
しばし、ふたりの間には言葉のない沈黙が流れる。
だがその静けさは、どこか心地よいものだった。
◇
やがて時間が経ち、医療棟を後にしたレイラは自室へと戻る。
部屋に明かりを灯すと、白を基調にしたシンプルな室内が静かに迎えてくれた。
誰もいない。
だが、今はその“誰もいない”が、なぜか少しだけ……怖かった。
「……はぁ……」
剣を棚に置き、寝巻きに着替え、ベッドに座り込む。
そのままレイラは両膝を抱えて小さく蹲った。
(……あの人は……何者なんだろ)
あの赤い瞳。笑顔。声。言葉のひとつひとつ。
頭では“知らない相手”と割り切っているのに、心はそう言ってくれなかった。
──だって、あの人は言った。
『あの子は……オレの宝物だったんだ』
その言葉の裏に何があるのか。
レイラには知る由もなかった。
でも──あんな言い方、他人ができるものじゃない。
(あの目……普通じゃない。あれは……)
「……っ」
言いかけた思考を、ぶんぶんと頭を振って追い払う。
怖がっているわけじゃない。
──けれど、どこかで確信している。
(……あの人は、私とリルの何かを壊す)
その感覚が、ずっと胸の底で警鐘を鳴らしていた。
レイラは肩を抱きしめたまま、しばらく動けなかった。
その左目だけが、ふと、じわりと疼いた気がして。
──まるで、自分の中の何かを、見られているような。
(やめてよ……)
そう心の中で呟いた声は、誰にも届かない。
◇
──どこかの、静かな部屋。
白い壁に囲まれた、清潔で整然とした空間。
棚には並べられた専門書や古びた資料の束。テーブルの上には、冷めかけたコーヒーが1杯。
その部屋の中央、革張りのソファに深く腰掛けていたのは、あの赤髪の男──ジキルだった。
「……ふぅ」
小さくため息をつくと、カップを持ち上げ、音も無くひとくち啜る。
鼻腔をくすぐるのは、深煎りの苦味。
しかし、今日のそれは少しばかり舌に重たかった。
「……初めてあの子とお話しすることができたなぁ」
誰に聞かせるでもなく小さく呟く。
切れ長の瞳が、どこか遠くを見つめるように細められていた。
(でも、うーん……ちょっと、オレ……怪しすぎたかな……)
そう思いながら、ジキルはソファに体を預け、くたりと伸びをする。
しなやかで長い手足がだらんと広がり、脱力した猫のように背を反らせた。
(いやでも、だってオレ、嬉しかったんだもん。ずっと遠くから見てただけの子と、ちゃんと目を見て話せるなんて)
(なのにさー、なんでああいう登場しちゃうかなぁ……。ああいうの、怖がられるってわかってたはずなのに)
(まったくもう……オレってば……)
脳内に浮かぶ言葉の端々に滲むのは、愉快さとほんの少しの自己嫌悪。
指先で軽くカップの縁をなぞりながら、ジキルは笑った。
(次は……もう少し穏やかに、がいいな。ね? あの子、強いけど……でも……ちゃんと女の子なんだしさ)
声に出したわけでもないその言葉に、ふと、室内の空気がひやりとする。
ジキルは微かに目を細めた。
(……にしても、やっぱり似てるんだよな)
頭の中で呟くその声は、先程までの柔らかさとは違うものを孕んでいた。
何かに対する懐かしさ。哀しさ。
あるいは、執着。
カップを置き、ジキルはそのままソファの上で膝を立て、顎を乗せるように蹲った。
普段の軽薄な姿とは違う、どこか少年のような無防備な仕草。
(リルにも、あの子にも……また会えるよね。うん、会うよ)
(ちゃんと、……ちゃんとね……次がある。だってこれは、始まりなんだから)
「…………」
そのまま瞼を閉じると、ジキルはひとつあくびを噛み殺す。
(……眠い。研究室より、自分の部屋の方が落ち着くってのも……皮肉なもんだ)
そう考えながら、体を丸めた。
深煎りのコーヒーの香りだけが、ゆっくりと漂う。
そしてその香りの中でジキルはひとり、静かに微笑んだ。
それはまるで──“再会の未来”を、確信しているかのように。
◇
それから2日後。
快晴の街並み、休日の午後。
軽やかな風に揺れる白シャツの裾を押さえながら、レイラは紙袋を抱えて歩いていた。
(……人混み、あんまり得意じゃないけど。たまにはこういう日も悪くないかも)
薄手のシャツとデニム、肩掛けの小さなバッグ。
一応、護身用の小さなナイフはポケットに忍ばせてあるが、剣は持ってきていない。
今日は完全なプライベートだ。
──そんなときだった。
「──あれ? レイラちゃん!? わあ~偶然だなあ~!」
どこか明るく、しかし思い出したくもない声が、背後から響いた。
「っ……!」
反射的に振り返ったレイラの目に飛び込んできたのは、ひときわ目を引く赤。
赤い長髪を項の位置で一束にまとめ、黒いキャスケットを目深に被った男。
サングラスをかけたその顔がレイラに気づいた瞬間、ゆっくりとサングラスを外してみせる。
あまりにも、綺麗すぎる顔立ち。
「……ジキル……!」
「うんうん、大正解」
ジキルはサングラスをかけ直して笑った。グレーのロングTシャツに、細身の黒いズボン。
片手には買い物袋。中にはパンや果物が覗いている。
ただの街中の買い物帰り──のはず、なのに。
「な、なんで……ここに……」
レイラは反射的に一歩、後ずさる。
「ん~? 散歩だよ、散歩。こういう天気の日は歩くに限るってね。普段引き篭ってるオレが外に出るの、激レアなんだよ~」
人懐っこい笑み、軽やかな口調。
あのとき公園跡地で感じた底知れぬ狂気は、今は全く感じられない。
「……あなた、まさか私をつけてたんじゃないよね?」
「えぇ!? まさかぁ~、偶然偶然!」
ジキルはおどけたように両手を上げ、買い物袋を掲げて見せる。
本当に、買い物帰りにしか見えなかった。
「レイラちゃんも、お買い物?」
「……え、……う、ん。まぁ、少しだけ……」
若干戸惑いながらも、レイラは紙袋を抱え直した。
「へぇ~、なに買ったの? あ、言いたくなかったらいいけど。スイーツとか?」
「……べ、別に……お菓子とかだけじゃないし」
「ウフフ、図星かな?」
ジキルはわざとらしく口に手を当てて笑う。
ただの他愛ない会話。それだけなのに、レイラの警戒心は完全には消えなかった。
「……ほんとに、偶然?」
「うん。ほんとに。偶然って、時々すごく都合よく起きるから怖いよね」
まるでそれが運命であるかのように、ジキルはサラッと答える。
「……まあ、今日は穏やかでよかった。レイラちゃん、前に会ったとき……すごく怖がってたし、怒ってたからさ。オレ、ちょっと反省したの」
「……あなたに『反省』って言葉があるとは思わなかった」
「あるよ~! オレ、意外と繊細なのよ?」
くすっと笑って、ジキルは帽子のつばを軽く指でなぞった。
「さてと。オレはもうちょっと歩くけど……またどこかで会ったら、よろしくね」
それだけ言うと、ジキルは軽く手を振りながら、人混みの中へ歩き出す。
その後ろ姿は、ただの買い物帰りの青年にしか見えないのに──レイラはしばらく、その背中を見送っていた。
「……わけがわからない」
護身用ナイフに触れることも、走って逃げることもなかった。
それでも、心の中に居座る“得体の知れなさ”は、どこにも行ってはいない。
赤い髪が、次の角を曲がって消えていく。
その残像だけが、ずっとレイラの視界に焼きついていた。
◇
「……はあ…………」
任務でもなく、検査でもなく、ただの買い物帰り。
なのに、レイラの足取りはどこか重たかった。
(……ほんとに偶然だったんだと思う。でも……)
“ジキル”という存在を再び目の前にしてしまった動揺は、どうにも拭えない。
機関に戻り、ロビーを歩いていたその時。
ふと目をやった休憩ラウンジの中に、見慣れた姿があった。
(……あれ、薊野さん)
白衣を掛け布団代わりにしてソファに寝転がる男。
眼鏡をかけたまま、目は閉じている。
寝ているのか起きているのかは、判断がつかない。
ただ、この様子だと今日の業務は終えているのだろう。
最近は龍の発生もすっかり落ち着き、機関全体が久しぶりに静けさに包まれていた。
リルも無事に快復し、今は西城家でのんびりしているらしい。
「…………」
紙袋を持ったまま、レイラは立ち止まり──。
(薊野さんには……さっきのこと伝えておこうかな……)
と、ほんの少し迷った末にラウンジの扉を開けた。
「……薊野さん、起きてる?」
問いかけると、間髪入れずに返ってきたのは。
「寝てる」
「……起きてるじゃん」
レイラは小声でツッコミながら、そっとソファに近づく。
すると、セセラはだるそうに白衣の端をかぶり直しながらぼやいた。
「なんだよ……男前が無防備に横になってんだ。黙ってありがたく眺めとけよ」
「何それ……」
肩を落としながら、レイラは言葉を選ぶように息を吸い込んだ。
「……あの、薊野さん」
「……寝てるっつってんだろ」
「さっき、また会った。……ジキル……に」
ぱちり。
瞬時に目を見開いたセセラが白衣を跳ねのけて、爆発的な勢いで飛び起きる。
「またぁ!? また会ったぁ!?!?!?」
ソファを蹴飛ばしそうな勢いで立ち上がり、次の瞬間にはレイラの肩をガシッと掴んでいた。
「おいなんも変なことされてねえよな!? 今から緊急で頭から爪先まで検診したっていいんだぞ!? マジで!!」
ガクガクと揺さぶられ目が回るレイラ。
「さっ、されてないよ何にも! 変な言い方しないで! ほ、本当に偶然って感じでっ」
レイラを勢いのままに揺さぶっていた手が、ピタリと止まる。
「……偶然、ねぇ……」
少し落ち着いた声音になり、セセラはレイラから手を離した。
ソファに座り直して、脚を組むと少し遠い目──。
「まあ、よく出歩いてるらしいからな。あの人」
「そうなの? 『オレが外に出るのは激レア』って……そんなこと言ってた」
レイラがそう返すと、セセラは鼻で笑った。
「嘘だな。あの人、散歩ばっかしてる。実際、変なところでよく目撃されてんだよ、昔から」
「……嘘つきなの?」
「うん。わりと平気で嘘つくタイプ」
レイラは無意識に指先で紙袋の持ち手を弄びながら、ぽそぽそと呟く。
「……でも、前に会ったときみたいな怖さは全然無かった。柔らかくて、何か……変な言い方だけど無邪気で、可愛いっていうか……」
その言葉を聞いた瞬間。
「あ゙? 『可愛い』??」
セセラの目がぐいと怪訝そうに細まる。
「っ……」
思わず赤く染まるレイラの頬。
「ち、違う……! 変な意味じゃなくて……あの、なんていうか、子どもっぽいっていうか……」
「……まあ、見た目だけは可愛いかもな。見た目だけは」
そう呟くと、セセラは煙草を口に咥えた。
ぱち、とライターの火が煙草に灯り、小さな炎が白い煙へと変わる。
「……それで、他に何か言われた? 次もあるとか、また会おうとか……」
その問いに、レイラはゆっくりと首を横に振った。
「ううん。ただ、『またどこかで会ったらよろしく』って……それだけ」
「…………」
セセラは「ふぅ……」と長く煙を吐く。
その煙はラウンジの明かりの中、ゆらゆらと天井へ溶けていった。
「……気ぃ抜くなよ、レイラ。あいつは飴みてぇに甘い顔してても──中身はナイフだ」
「……うん」
少し、レイラの顔が引き締まった。
だが心のどこかでは、さっきの笑顔を思い出してしまう。
(ほんとに……ただの偶然だったのかな)
ラウンジにはしばらく、煙草の香りと、ふたりの沈黙だけが漂っていた。
レイラが医療棟の病室に顔を出すと、簡素なベッドの上で読書をしていたリルが顔を上げた。
まだ療養中とはいえ、顔色は随分良くなっている。
「ん。……おかえり」
その声はいつも通りだったが──。
「……おい」
リルの目が、ふと鋭く向けられた。
何気なく剣の柄に添えていたレイラの指先が、無意識にギュッと握られている。
「……どうした。顔、強張ってんぞ」
「──っ」
一瞬、レイラの肩がピクリと跳ねた。
「え、……あ、ううん……。その……調査中に、ちょっと怖い男の人に絡まれちゃって……」
「…………」
レイラは目を逸らしながら、ぎこちなく笑ってみせる。
「誰もいないとこだったから、余計ビックリして。まだちょっと、心臓がドキドキしてるっていうか……」
いつもの冷静な語り口が、僅かに震えていた。
リルはじっとその様子を見つめていたが──。
「……何だそれ。お前、そんなか弱くねえだろ」
ボソッと呟くその声音は、茶化すようでいて優しさが滲んでいた。
「……っ、う、うるさいな……」
レイラは軽く眉をしかめて、そっぽを向く。
だが、どこか安心したように息を吐いたのがリルにはわかった。
「……まあ、無事ならいいけどよ」
リルはベッドの端に体を預けながら、少しだけ目を細める。
「なんか……最近お前、危なっかしい時あるから。戦い慣れてきた分、油断とかしてんじゃねーの」
「してない。……つもり」
苦笑混じりに答えるレイラ。
先程まで握っていた剣の柄から、ようやく手を離していたことに自分でも気がつく。
「…………」
リルがいる。
そのことが、いつもより少し、心強かった。
「……ふぅ……」
伸びをして、ベッドの背に腕を預けるリル。
「怖かったんなら、今夜はちゃんと寝ろよ。横で寝ててやるから」
「っえ、……は? 勝手に人のベッドに入ろうとしないで」
「フッ……そんだけ元気なら大丈夫だな」
「ぐぬ……」
レイラは睨んでみせたが、リルのくすっと笑った顔を見て思わず口元が綻ぶ。
他愛ないやり取り。
しかしその裏で、レイラの胸には今も『ジキル』という名の影が根を張り始めていた。
あの男の顔が、言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。
「……っ」
(──あんな人から、リルの名前が出てほしくなかった)
心の奥底で、何かが静かに蠢き始めていた。
それでも、今は──この時間を守りたかった。
「……ね、ぇ……リル」
「なに」
「……もう少しだけ、ここにいてもいい……?」
「…………」
レイラが小さく呟くと、リルは瞬きをひとつして──無言で手のひらをぽんぽんと隣に叩く。
言葉じゃない。
でもその動作の意味は全部わかる。
レイラは黙って、隣に腰を下ろした。
肩が、リルの腕に僅かに触れる。
それだけで、張り詰めていた神経が解けていくのがわかった。
「……ありがと」
小さく、だけど確かに呟く声。
リルは何も返さなかったが、そのまま横目でレイラを見て、フッと口角を上げた。
しばし、ふたりの間には言葉のない沈黙が流れる。
だがその静けさは、どこか心地よいものだった。
◇
やがて時間が経ち、医療棟を後にしたレイラは自室へと戻る。
部屋に明かりを灯すと、白を基調にしたシンプルな室内が静かに迎えてくれた。
誰もいない。
だが、今はその“誰もいない”が、なぜか少しだけ……怖かった。
「……はぁ……」
剣を棚に置き、寝巻きに着替え、ベッドに座り込む。
そのままレイラは両膝を抱えて小さく蹲った。
(……あの人は……何者なんだろ)
あの赤い瞳。笑顔。声。言葉のひとつひとつ。
頭では“知らない相手”と割り切っているのに、心はそう言ってくれなかった。
──だって、あの人は言った。
『あの子は……オレの宝物だったんだ』
その言葉の裏に何があるのか。
レイラには知る由もなかった。
でも──あんな言い方、他人ができるものじゃない。
(あの目……普通じゃない。あれは……)
「……っ」
言いかけた思考を、ぶんぶんと頭を振って追い払う。
怖がっているわけじゃない。
──けれど、どこかで確信している。
(……あの人は、私とリルの何かを壊す)
その感覚が、ずっと胸の底で警鐘を鳴らしていた。
レイラは肩を抱きしめたまま、しばらく動けなかった。
その左目だけが、ふと、じわりと疼いた気がして。
──まるで、自分の中の何かを、見られているような。
(やめてよ……)
そう心の中で呟いた声は、誰にも届かない。
◇
──どこかの、静かな部屋。
白い壁に囲まれた、清潔で整然とした空間。
棚には並べられた専門書や古びた資料の束。テーブルの上には、冷めかけたコーヒーが1杯。
その部屋の中央、革張りのソファに深く腰掛けていたのは、あの赤髪の男──ジキルだった。
「……ふぅ」
小さくため息をつくと、カップを持ち上げ、音も無くひとくち啜る。
鼻腔をくすぐるのは、深煎りの苦味。
しかし、今日のそれは少しばかり舌に重たかった。
「……初めてあの子とお話しすることができたなぁ」
誰に聞かせるでもなく小さく呟く。
切れ長の瞳が、どこか遠くを見つめるように細められていた。
(でも、うーん……ちょっと、オレ……怪しすぎたかな……)
そう思いながら、ジキルはソファに体を預け、くたりと伸びをする。
しなやかで長い手足がだらんと広がり、脱力した猫のように背を反らせた。
(いやでも、だってオレ、嬉しかったんだもん。ずっと遠くから見てただけの子と、ちゃんと目を見て話せるなんて)
(なのにさー、なんでああいう登場しちゃうかなぁ……。ああいうの、怖がられるってわかってたはずなのに)
(まったくもう……オレってば……)
脳内に浮かぶ言葉の端々に滲むのは、愉快さとほんの少しの自己嫌悪。
指先で軽くカップの縁をなぞりながら、ジキルは笑った。
(次は……もう少し穏やかに、がいいな。ね? あの子、強いけど……でも……ちゃんと女の子なんだしさ)
声に出したわけでもないその言葉に、ふと、室内の空気がひやりとする。
ジキルは微かに目を細めた。
(……にしても、やっぱり似てるんだよな)
頭の中で呟くその声は、先程までの柔らかさとは違うものを孕んでいた。
何かに対する懐かしさ。哀しさ。
あるいは、執着。
カップを置き、ジキルはそのままソファの上で膝を立て、顎を乗せるように蹲った。
普段の軽薄な姿とは違う、どこか少年のような無防備な仕草。
(リルにも、あの子にも……また会えるよね。うん、会うよ)
(ちゃんと、……ちゃんとね……次がある。だってこれは、始まりなんだから)
「…………」
そのまま瞼を閉じると、ジキルはひとつあくびを噛み殺す。
(……眠い。研究室より、自分の部屋の方が落ち着くってのも……皮肉なもんだ)
そう考えながら、体を丸めた。
深煎りのコーヒーの香りだけが、ゆっくりと漂う。
そしてその香りの中でジキルはひとり、静かに微笑んだ。
それはまるで──“再会の未来”を、確信しているかのように。
◇
それから2日後。
快晴の街並み、休日の午後。
軽やかな風に揺れる白シャツの裾を押さえながら、レイラは紙袋を抱えて歩いていた。
(……人混み、あんまり得意じゃないけど。たまにはこういう日も悪くないかも)
薄手のシャツとデニム、肩掛けの小さなバッグ。
一応、護身用の小さなナイフはポケットに忍ばせてあるが、剣は持ってきていない。
今日は完全なプライベートだ。
──そんなときだった。
「──あれ? レイラちゃん!? わあ~偶然だなあ~!」
どこか明るく、しかし思い出したくもない声が、背後から響いた。
「っ……!」
反射的に振り返ったレイラの目に飛び込んできたのは、ひときわ目を引く赤。
赤い長髪を項の位置で一束にまとめ、黒いキャスケットを目深に被った男。
サングラスをかけたその顔がレイラに気づいた瞬間、ゆっくりとサングラスを外してみせる。
あまりにも、綺麗すぎる顔立ち。
「……ジキル……!」
「うんうん、大正解」
ジキルはサングラスをかけ直して笑った。グレーのロングTシャツに、細身の黒いズボン。
片手には買い物袋。中にはパンや果物が覗いている。
ただの街中の買い物帰り──のはず、なのに。
「な、なんで……ここに……」
レイラは反射的に一歩、後ずさる。
「ん~? 散歩だよ、散歩。こういう天気の日は歩くに限るってね。普段引き篭ってるオレが外に出るの、激レアなんだよ~」
人懐っこい笑み、軽やかな口調。
あのとき公園跡地で感じた底知れぬ狂気は、今は全く感じられない。
「……あなた、まさか私をつけてたんじゃないよね?」
「えぇ!? まさかぁ~、偶然偶然!」
ジキルはおどけたように両手を上げ、買い物袋を掲げて見せる。
本当に、買い物帰りにしか見えなかった。
「レイラちゃんも、お買い物?」
「……え、……う、ん。まぁ、少しだけ……」
若干戸惑いながらも、レイラは紙袋を抱え直した。
「へぇ~、なに買ったの? あ、言いたくなかったらいいけど。スイーツとか?」
「……べ、別に……お菓子とかだけじゃないし」
「ウフフ、図星かな?」
ジキルはわざとらしく口に手を当てて笑う。
ただの他愛ない会話。それだけなのに、レイラの警戒心は完全には消えなかった。
「……ほんとに、偶然?」
「うん。ほんとに。偶然って、時々すごく都合よく起きるから怖いよね」
まるでそれが運命であるかのように、ジキルはサラッと答える。
「……まあ、今日は穏やかでよかった。レイラちゃん、前に会ったとき……すごく怖がってたし、怒ってたからさ。オレ、ちょっと反省したの」
「……あなたに『反省』って言葉があるとは思わなかった」
「あるよ~! オレ、意外と繊細なのよ?」
くすっと笑って、ジキルは帽子のつばを軽く指でなぞった。
「さてと。オレはもうちょっと歩くけど……またどこかで会ったら、よろしくね」
それだけ言うと、ジキルは軽く手を振りながら、人混みの中へ歩き出す。
その後ろ姿は、ただの買い物帰りの青年にしか見えないのに──レイラはしばらく、その背中を見送っていた。
「……わけがわからない」
護身用ナイフに触れることも、走って逃げることもなかった。
それでも、心の中に居座る“得体の知れなさ”は、どこにも行ってはいない。
赤い髪が、次の角を曲がって消えていく。
その残像だけが、ずっとレイラの視界に焼きついていた。
◇
「……はあ…………」
任務でもなく、検査でもなく、ただの買い物帰り。
なのに、レイラの足取りはどこか重たかった。
(……ほんとに偶然だったんだと思う。でも……)
“ジキル”という存在を再び目の前にしてしまった動揺は、どうにも拭えない。
機関に戻り、ロビーを歩いていたその時。
ふと目をやった休憩ラウンジの中に、見慣れた姿があった。
(……あれ、薊野さん)
白衣を掛け布団代わりにしてソファに寝転がる男。
眼鏡をかけたまま、目は閉じている。
寝ているのか起きているのかは、判断がつかない。
ただ、この様子だと今日の業務は終えているのだろう。
最近は龍の発生もすっかり落ち着き、機関全体が久しぶりに静けさに包まれていた。
リルも無事に快復し、今は西城家でのんびりしているらしい。
「…………」
紙袋を持ったまま、レイラは立ち止まり──。
(薊野さんには……さっきのこと伝えておこうかな……)
と、ほんの少し迷った末にラウンジの扉を開けた。
「……薊野さん、起きてる?」
問いかけると、間髪入れずに返ってきたのは。
「寝てる」
「……起きてるじゃん」
レイラは小声でツッコミながら、そっとソファに近づく。
すると、セセラはだるそうに白衣の端をかぶり直しながらぼやいた。
「なんだよ……男前が無防備に横になってんだ。黙ってありがたく眺めとけよ」
「何それ……」
肩を落としながら、レイラは言葉を選ぶように息を吸い込んだ。
「……あの、薊野さん」
「……寝てるっつってんだろ」
「さっき、また会った。……ジキル……に」
ぱちり。
瞬時に目を見開いたセセラが白衣を跳ねのけて、爆発的な勢いで飛び起きる。
「またぁ!? また会ったぁ!?!?!?」
ソファを蹴飛ばしそうな勢いで立ち上がり、次の瞬間にはレイラの肩をガシッと掴んでいた。
「おいなんも変なことされてねえよな!? 今から緊急で頭から爪先まで検診したっていいんだぞ!? マジで!!」
ガクガクと揺さぶられ目が回るレイラ。
「さっ、されてないよ何にも! 変な言い方しないで! ほ、本当に偶然って感じでっ」
レイラを勢いのままに揺さぶっていた手が、ピタリと止まる。
「……偶然、ねぇ……」
少し落ち着いた声音になり、セセラはレイラから手を離した。
ソファに座り直して、脚を組むと少し遠い目──。
「まあ、よく出歩いてるらしいからな。あの人」
「そうなの? 『オレが外に出るのは激レア』って……そんなこと言ってた」
レイラがそう返すと、セセラは鼻で笑った。
「嘘だな。あの人、散歩ばっかしてる。実際、変なところでよく目撃されてんだよ、昔から」
「……嘘つきなの?」
「うん。わりと平気で嘘つくタイプ」
レイラは無意識に指先で紙袋の持ち手を弄びながら、ぽそぽそと呟く。
「……でも、前に会ったときみたいな怖さは全然無かった。柔らかくて、何か……変な言い方だけど無邪気で、可愛いっていうか……」
その言葉を聞いた瞬間。
「あ゙? 『可愛い』??」
セセラの目がぐいと怪訝そうに細まる。
「っ……」
思わず赤く染まるレイラの頬。
「ち、違う……! 変な意味じゃなくて……あの、なんていうか、子どもっぽいっていうか……」
「……まあ、見た目だけは可愛いかもな。見た目だけは」
そう呟くと、セセラは煙草を口に咥えた。
ぱち、とライターの火が煙草に灯り、小さな炎が白い煙へと変わる。
「……それで、他に何か言われた? 次もあるとか、また会おうとか……」
その問いに、レイラはゆっくりと首を横に振った。
「ううん。ただ、『またどこかで会ったらよろしく』って……それだけ」
「…………」
セセラは「ふぅ……」と長く煙を吐く。
その煙はラウンジの明かりの中、ゆらゆらと天井へ溶けていった。
「……気ぃ抜くなよ、レイラ。あいつは飴みてぇに甘い顔してても──中身はナイフだ」
「……うん」
少し、レイラの顔が引き締まった。
だが心のどこかでは、さっきの笑顔を思い出してしまう。
(ほんとに……ただの偶然だったのかな)
ラウンジにはしばらく、煙草の香りと、ふたりの沈黙だけが漂っていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
花鳥見聞録
木野もくば
ファンタジー
花の妖精のルイは、メジロのモクの背中に乗って旅をしています。ルイは記憶喪失でした。自分が花の妖精だったことしか思い出せません。失くした記憶を探すため、さまざまな世界を冒険します。
『イージス艦長、インパール最前線へ。――牟田口廉也に転生した俺は、地獄の餓死作戦を「鉄壁の兵站要塞」に変える』
月神世一
SF
【あらすじ】
「補給がなければ、戦場に立つ資格すらない」
坂上真一(さかがみ しんいち)、50歳。
かつてイージス艦長として鉄壁の防空網を指揮し、現在は海上自衛隊で次世代艦の兵站システムを設計する男。
背中には若き日の過ちである「仁王」の刺青を隠し持ち、北辰一刀流の達人でもある彼は、ある日、勤務中に仮眠をとる。
目が覚めると、そこは湿気と熱気に満ちた1944年のビルマだった。
鏡に映っていたのは、小太りで口髭の男――歴史の教科書で見た、あの「牟田口廉也」。
しかも時期は、日本陸軍史上最悪の汚点とされる「インパール作戦」決行の直前。
部下たちは「必勝の精神論」を叫び、無謀な突撃を今か今かと待っている。
(……ふざけるな。俺に、部下を餓死させろと言うのか?)
現代の知識と、冷徹な計算、そして海自仕込みのロジスティクス能力。
すべてを駆使して、坂上(中身)は歴史への介入を開始する。
精神論を振りかざすふりをして上層部を欺き、現地改修で兵器を強化し、密かに撤退路を整備する。
これは、「史上最も無能な指揮官」の皮を被った「現代の有能な指揮官」が、確定した敗北の運命をねじ伏せ、数万の命を救うために戦う、逆転の戦記ドラマ。
空色のサイエンスウィッチ
コーヒー微糖派
SF
『科学の魔女は、空色の髪をなびかせて宙を舞う』
高校を卒業後、亡くなった両親の後を継いで工場長となったニ十歳の女性――空鳥 隼《そらとり じゅん》
彼女は両親との思い出が詰まった工場を守るため、単身で経営を続けてはいたものの、その運営状況は火の車。残された借金さえも返せない。
それでも持ち前の知識で独自の商品開発を進め、なんとかこの状況からの脱出を図っていた。
そんなある日、隼は自身の開発物の影響で、スーパーパワーに目覚めてしまう。
その力は、隼にさらなる可能性を見出させ、その運命さえも大きく変えていく。
持ち前の科学知識を応用することで、世に魔法を再現することをも可能とした力。
その力をもってして、隼は日々空を駆け巡り、世のため人のためのヒーロー活動を始めることにした。
そしていつしか、彼女はこう呼ばれるようになる。
魔法の杖に腰かけて、大空を鳥のように舞う【空色の魔女】と。
※この作品の科学知識云々はフィクションです。参考にしないでください。
※ノベルアッププラス様での連載分を後追いで公開いたします。
※2022/10/25 完結まで投稿しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる