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第24話 こんにちは、リル
第24話・1 俺はお前を見失わない
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薄曇りの朝──。
龍調査機関内は普段と変わらぬ静けさに包まれていた。しかしその空気の裏には、誰もが感じ取れる緊張感が漂っている。
「……はあ……」
モニター室にてセセラは、缶コーヒーを片手に静かに映像を見つめていた。表情には、憂鬱な色。
画面には、昨日確認された擬似体の映像が流れている。
「……擬似レイラは間違いなく戦い方まで再現してる可能性が高い。感情の起伏すら似てるように見える」
「擬似リルも、だね」
と、呟くように言葉を重ねたのはシエリ。
その目に映る映像を、小さな所長も静かに見つめていた。
「なあ、先生。……Z.EUS……ジキルの組織ってことで間違いねえんだわ」
「だろうな。……あの男に、それだけの技術と知識があるという証左だね」
シエリの声は冷静だったが、内心の焦りは滲んでいる。
セセラはコーヒーをひとくち飲んでから、小さく呟いた。
「……リルもレイラも、今は戦える状態じゃねえ。どうするよ」
「答えは簡単。……戦わせない」
「つってもあいつらは、オリジナルに会いに来るつもりだぞ。否応なくな」
その言葉が落ちた直後──。
タッタッタ……と軽やかな足音が廊下に響いた。
モニター室の扉が軽いノックのあと開かれる。
「──おはようございます。西城アシュラ、です」
「……!」
セセラとシエリふたりが声の方へ振り向く。
白髪に整った装い、快活な眼差しを持つ青年──アシュラが立っていた。
「おはよう。よく来てくれたね」
「ようアシュラ、お前が自分から機関に出向いてくるなんて……雪でも降るか?」
「突然すみません……父上が戻ってきてる今、俺もじっとしていられなかったんです」
やれやれと肩をすくめるセセラ。
「……リルとレイラのことだろ」
「はい。……正直、心配で仕方がない。リルは帰ってこなかったし、話に聞いた擬似体が存在する以上、彼らは絶対に狙われる」
「…………」
「俺は……彼らの盾になる覚悟でここに来ました」
力のあるアシュラの言葉に、シエリはゆっくりと頷いた。
「キミのような戦力がいてくれるのは助かる。だが、ルールを破ってキミを出撃させることはできない。……それでも、傍にいるだけで心の支えになる人もいる」
「ならば、まずは彼らの傍にいさせてください。戦いではなく、仲間として」
静かに、しかし強い意志を持ったアシュラの声。シエリとセセラは一瞬だけ視線を交わす。
そして、セセラがコーヒーを掲げながら答えた。
「ま、そういうのは嫌いじゃねえ。……今日はあったかい飲み物くらいなら奢ってやるよ」
「ありがたいですが……結構です。代わりに、役に立てる仕事をいただければ」
「…………」
そのまっすぐな言葉に、セセラはふっと笑う。
「じゃあ……まずは、レイラのリハビリに付き添いな。腕の上がり具合見てやってくれ」
「……はい」
瞬間、アシュラの目が僅かに和らいだ。
扉が再び閉まる音が響くと、セセラは小さく息を吐く。
「さーて……心強い“兄貴分”が来てくれたことだし。あとは、肝心の“あのふたり”の心がどう動くか……だな」
映像モニターには、停止したままの擬似体の映像が映っていた──。
◇
窓から射し込む朝の光に照らされ、レイラはリハビリマットの上で静かに呼吸を整えていた。
右腕には簡易なサポーターが巻かれ、以前よりも可動域が増えているのが自分でもわかる。
「…………ふう……っ……」
(……まだ、ちょっと痛む。でも……動かせる)
その隣。
動きに目を光らせながら軽くタオルを持って待機していたのは、アシュラだった。
「角度、悪くない。反動つけてないのが偉いな。もう少し、可動域伸ばしていこう」
「……言い方が先生っぽいんだけど……」
レイラがぼやくと、アシュラは苦笑しながら少しだけタオルを肩にかけ直す。
「薊野さんに言われたんだ。見てやってくれって」
「うん……」
「……前、俺な、『真面目な顔して見舞いも行かねぇとこあるだろお前は』って言われたことあってさ。……家のことが忙しかったんだ、悪かったなぁ……」
「……ぷっ、薊野さん意地悪だから言いそう」
小さく吹き出すレイラに、アシュラも「だろ?」と笑う。
「……あ」
ふと、アシュラがやや顔を傾けた。
「そうだ……俺の父に会えたみたいだな」
「え? ……うん」
動きながら、レイラはほんの少しだけ頬を赤らめる。
「どうだった? でっかいからビックリしただろ」
「うん……大きかった……、ていうか、全部が大きかった。声も言動も……背中も」
「ふふふっ……! だろうなあ。俺でも見上げるくらいだからな。昔から、あの人が現れるだけで周囲の空気変わったよ。一見ちょっと怖いと思う」
冗談めかして笑うアシュラの横で、レイラはしみじみと呟いた。
「でも、優しい人だった。……強くて、優しいって、すごいと思う」
「…………」
その言葉に、アシュラの笑みが柔らかくなる。
「ありがとう。きっと父上も喜ぶよ。……お前みたいな子にそう言ってもらえたらな」
そのまま静かに肩を並べ、しばしレイラのリハビリを見守るアシュラ。
その視線は、どこか兄のような、あるいは戦友のような温かさに満ちていた。
◇
リハビリルームを出たふたりは、しばらく並んで廊下を歩いていた。
照明の落ち着いた光に包まれ、談話室の方からは職員たちの談笑がほんのり聞こえてくる。
だがレイラの口元は、どこか迷っているように閉じたままだった。
そんなレイラの様子に気づいたアシュラが、横目でちらりと覗き込む。
「……ん? どうかした?」
レイラは少し肩をすくめ、歩きながらぽつりと口を開いた。
「……あの日のこと……ずっと、お礼を言わなきゃって思ってたんだけど……言えてなかったなって」
「…………!」
アシュラの足が僅かに止まる。レイラもそれに気づいて立ち止まり、アシュラの方をまっすぐ見上げた。
「……助けてくれて、ありがとう。あの時……本当に怖くて、痛くて、何もできなかった。アシュが来てくれなかったら……って、今でも思う」
レイラの言葉には、感謝と、ほんの少しの悔しさが滲んでいる。
「…………」
アシュラは一瞬、何か言葉を探すように視線を泳がせたあと──ふっと微笑んだ。
「……生きてたから、いいんだ。それだけだよ」
「でも……」
「いいよ。それ以上は、言わないで」
優しいアシュラの声。
それでいて、まっすぐで──。
「お前がまたこうして歩いてて、リハビリしてて、俺に礼を言ってる。それで十分だよ」
「…………」
レイラは目を伏せ、そしてまた顔を上げる。
「……うん」
アシュラは軽くレイラの頭に手を伸ばすような仕草をしたが、触れることはせず、そのまま手を引っ込めた。
「さて……薊野さんにちゃんと付き添ってきたぞって報告しないとな。下手したらまた何か言われる」
「……ふふっ。確かに」
ふたりはまた歩き出す。
穏やかな沈黙と、互いを思いやる空気が、背中を押していた。
◇
レイラとアシュラが廊下を歩きながら談笑していると、角を曲がった先──ソファに深く腰を沈めている男の姿が見えた。
それは白衣の裾を膝にかけて脚を投げ出し、タブレット端末を片手に仏頂面をしているセセラ。
「……あ」
レイラが声を漏らすと、気がついたセセラも視線を上げ、ふたりを見つける。
「あー、ちょうどよかった。リハビリ、ちゃんと終えたか?」
「うん。……だいぶ痛みも慣れてきたよ」
レイラが答えると、セセラはわざとらしく目を細めた。
「……ほ~~ん? アシュラが付き添ったからって、張り切りすぎて無茶してねえだろうな」
「薊野さんこそ。こんなとこでお仕事? ……サボってるんじゃないの?」
少し睨むように返すレイラ。セセラは「はいはい」と手をひらひらさせて誤魔化す。
「で、アシュラ、どうだった? リハビリ付き添い」
「悪くなかったです。……レイラの方がよっぽどしっかりしてます。俺の方が気を使われてる気がしたくらいです」
「お前、それ言ったら付き添いの立場ねえじゃねえかよ!」
セセラはケラケラ笑いながらタブレットを閉じて立ち上がった。
「ま、レイラが元気そうでなにより。……調子良さそうでも、勝手に抜け出して遠出とかすんなよ?」
「しないよ……」
レイラはむくれたようにそっぽを向く。
アシュラはその様子を見て笑いながら、「……このやり取り、妙に落ち着くな」と呟いた。
「…………」
そしてセセラは最後にひとつ、僅かに真剣な目つきでレイラを見る。
「……焦んなくていいからな。お前はよくやってる」
「……!」
その言葉に、レイラはほんの少し驚いたように目を見開いたあと──小さく、でも確かに頷いた。
レイラとの軽口も一段落し、ふとアシュラが静かに口を開く。
「……薊野さん、リルに会わせてもらうことはできますか?」
唐突に振られたその問いに、セセラの表情がほんの少しだけ固くなった。
「……リルに?」
「はい。ここ最近……少し様子が違っているのはわかっています。無理は承知の上ですが、直接話してみたい」
セセラはしばらく無言でアシュラを見つめる。
「…………」
だがやがて、ふっと目を細め白衣の裾を軽く直すと小さく息をついた。
「……ま、正直あいつの今の状態だと、無闇に人を近づけたくねえってのはあるけどよ。……でも、お前なら大丈夫かもしれねえな」
「ありがとうございます」
「ちょうど今、ひとりで資料部屋の隅にいるはずだ。……長居はすんなよ。無理そうだったら引け」
「……はい」
アシュラは深く頭を下げ、その場を離れた。
◇
資料閲覧室。
機関の奥まった部屋。薄明るい照明のもと、資料棚の隅の椅子にリルはじっと腰を下ろしていた。
肘を膝に乗せ、組んだ指の間から床を見下ろすような姿勢。
「…………」
気配を察したのか、リルは扉の方に目を向ける。
「……アシュラ」
「よお」
アシュラは軽く手を挙げて近づいてくる。だが、リルはそのまま視線を逸らした。
「……機関の許可か?」
「ああ。薊野さんが出してくれた。リルに話がしたいって言ったら、『ちょっとだけ』ってな」
「…………」
リルは答えずに、しばらく沈黙する。
その空白に耐えるように、アシュラは静かに椅子を引いてリルの隣に腰を下ろした。
「……お前がひとりになりたいのはわかってる。でも、俺はお前が何も言わないまま壊れてくのは見たくないんだよ」
「……ッ……」
ようやくアシュラの方に顔を向けるリル。
「……オレ、そんなヤバそうに見えんの?」
「見えるよ」
アシュラのその一言は、冗談ではなかった。
だが、どこか優しくて、リルの心に僅かに届くものがあった。
「……だよな」
リルは乾いた笑いをひとつだけ零し、そしてまた前を向く。
「お前に、何ができるわけでもねえってのは、わかってる……」
「…………」
「……でも、今だけはこうしててくれよ」
「……!」
アシュラは言葉を返さず、ただ隣に座ったまま。その言葉を静かに受け止めていた。
静かに揺れる照明。
リルの俯いた顔に、蛍光灯の鈍い光が落ちる。
アシュラはその横顔を、まるで壊れものでも見るかのように、じっと静かに見ていた。
「……なあ」
そこでリルが、ぽそっと口を開く。
「オレってさ……人間のつもりでいたけど、違ったみたいだ」
「……それ、レイラにも言ったのか?」
「…………」
リルは答えなかった。だがその沈黙が、何よりの肯定。
アシュラは少しだけ口を歪める。
「お前は昔からさ……黙って全部、自分ひとりで処理しようとする」
図星を突かれたように、肩を小さく震わせたリル。
「……だって、誰かに見せたって、何かが変わるわけじゃねえだろ。つれえもんは、つれえまんまだし、オレの中身が人間じゃないのも、変わんねえ」
「……変わらないかもしれない。だけどな」
言葉を切らずに続ける。
「お前が何者でも、俺にとっては……あの家で一緒に飯食って、くだらないことで張り合って、雨の日にびしょ濡れで帰ってきた、お前は……お前だよ」
「……っ……」
「リル。お前の中の何かが人間じゃなくなっても、お前という存在を人間扱いするかどうかは……周囲じゃなくて、自分が決めるもんだろ」
その言葉に、リルは喉の奥を小さく鳴らした。
「……オレは……自分を……気持ち悪いって、思ってる。……怖いし……わかんなくなる。ときどき、自分の声が他人の声に聞こえるくらい……わかんなくなるんだよ」
「わからなくなってもいい。そういう時は、俺に聞け」
「…………」
アシュラの声は、決して強くない。
だが、何よりも重かった。
「お前が“お前じゃない”って思ったときも……俺は、ちゃんとお前を見てるから」
「…………ん……」
暗かったリルの瞳に、ようやく小さな光が戻っていた。
言葉にはならない何かが、喉元までせり上がる。けれど、それはまだ涙にはならなかった。
「……なあ……アシュラ。……もしも、オレが……本当に、完全に人間じゃなくなったらさ……」
「それでも、俺は“お前”を知ってる。変わらない」
「……っ」
リルの唇が僅かに震える。
「……お前って、ほんと、変わんねぇよな……」
「当たり前だ。俺はずっと西城アシュラだからな」
ほんの僅か。ほんの僅かに、リルの表情が緩んだ。
それが、どれほど長い時間ぶりだったかは誰も知らない。
「……かっけえ、マジで」
「ふふ、どんどん言ってくれ」
そして、その隣に寄り添う親友は、今日も変わらずまっすぐだった。
龍調査機関内は普段と変わらぬ静けさに包まれていた。しかしその空気の裏には、誰もが感じ取れる緊張感が漂っている。
「……はあ……」
モニター室にてセセラは、缶コーヒーを片手に静かに映像を見つめていた。表情には、憂鬱な色。
画面には、昨日確認された擬似体の映像が流れている。
「……擬似レイラは間違いなく戦い方まで再現してる可能性が高い。感情の起伏すら似てるように見える」
「擬似リルも、だね」
と、呟くように言葉を重ねたのはシエリ。
その目に映る映像を、小さな所長も静かに見つめていた。
「なあ、先生。……Z.EUS……ジキルの組織ってことで間違いねえんだわ」
「だろうな。……あの男に、それだけの技術と知識があるという証左だね」
シエリの声は冷静だったが、内心の焦りは滲んでいる。
セセラはコーヒーをひとくち飲んでから、小さく呟いた。
「……リルもレイラも、今は戦える状態じゃねえ。どうするよ」
「答えは簡単。……戦わせない」
「つってもあいつらは、オリジナルに会いに来るつもりだぞ。否応なくな」
その言葉が落ちた直後──。
タッタッタ……と軽やかな足音が廊下に響いた。
モニター室の扉が軽いノックのあと開かれる。
「──おはようございます。西城アシュラ、です」
「……!」
セセラとシエリふたりが声の方へ振り向く。
白髪に整った装い、快活な眼差しを持つ青年──アシュラが立っていた。
「おはよう。よく来てくれたね」
「ようアシュラ、お前が自分から機関に出向いてくるなんて……雪でも降るか?」
「突然すみません……父上が戻ってきてる今、俺もじっとしていられなかったんです」
やれやれと肩をすくめるセセラ。
「……リルとレイラのことだろ」
「はい。……正直、心配で仕方がない。リルは帰ってこなかったし、話に聞いた擬似体が存在する以上、彼らは絶対に狙われる」
「…………」
「俺は……彼らの盾になる覚悟でここに来ました」
力のあるアシュラの言葉に、シエリはゆっくりと頷いた。
「キミのような戦力がいてくれるのは助かる。だが、ルールを破ってキミを出撃させることはできない。……それでも、傍にいるだけで心の支えになる人もいる」
「ならば、まずは彼らの傍にいさせてください。戦いではなく、仲間として」
静かに、しかし強い意志を持ったアシュラの声。シエリとセセラは一瞬だけ視線を交わす。
そして、セセラがコーヒーを掲げながら答えた。
「ま、そういうのは嫌いじゃねえ。……今日はあったかい飲み物くらいなら奢ってやるよ」
「ありがたいですが……結構です。代わりに、役に立てる仕事をいただければ」
「…………」
そのまっすぐな言葉に、セセラはふっと笑う。
「じゃあ……まずは、レイラのリハビリに付き添いな。腕の上がり具合見てやってくれ」
「……はい」
瞬間、アシュラの目が僅かに和らいだ。
扉が再び閉まる音が響くと、セセラは小さく息を吐く。
「さーて……心強い“兄貴分”が来てくれたことだし。あとは、肝心の“あのふたり”の心がどう動くか……だな」
映像モニターには、停止したままの擬似体の映像が映っていた──。
◇
窓から射し込む朝の光に照らされ、レイラはリハビリマットの上で静かに呼吸を整えていた。
右腕には簡易なサポーターが巻かれ、以前よりも可動域が増えているのが自分でもわかる。
「…………ふう……っ……」
(……まだ、ちょっと痛む。でも……動かせる)
その隣。
動きに目を光らせながら軽くタオルを持って待機していたのは、アシュラだった。
「角度、悪くない。反動つけてないのが偉いな。もう少し、可動域伸ばしていこう」
「……言い方が先生っぽいんだけど……」
レイラがぼやくと、アシュラは苦笑しながら少しだけタオルを肩にかけ直す。
「薊野さんに言われたんだ。見てやってくれって」
「うん……」
「……前、俺な、『真面目な顔して見舞いも行かねぇとこあるだろお前は』って言われたことあってさ。……家のことが忙しかったんだ、悪かったなぁ……」
「……ぷっ、薊野さん意地悪だから言いそう」
小さく吹き出すレイラに、アシュラも「だろ?」と笑う。
「……あ」
ふと、アシュラがやや顔を傾けた。
「そうだ……俺の父に会えたみたいだな」
「え? ……うん」
動きながら、レイラはほんの少しだけ頬を赤らめる。
「どうだった? でっかいからビックリしただろ」
「うん……大きかった……、ていうか、全部が大きかった。声も言動も……背中も」
「ふふふっ……! だろうなあ。俺でも見上げるくらいだからな。昔から、あの人が現れるだけで周囲の空気変わったよ。一見ちょっと怖いと思う」
冗談めかして笑うアシュラの横で、レイラはしみじみと呟いた。
「でも、優しい人だった。……強くて、優しいって、すごいと思う」
「…………」
その言葉に、アシュラの笑みが柔らかくなる。
「ありがとう。きっと父上も喜ぶよ。……お前みたいな子にそう言ってもらえたらな」
そのまま静かに肩を並べ、しばしレイラのリハビリを見守るアシュラ。
その視線は、どこか兄のような、あるいは戦友のような温かさに満ちていた。
◇
リハビリルームを出たふたりは、しばらく並んで廊下を歩いていた。
照明の落ち着いた光に包まれ、談話室の方からは職員たちの談笑がほんのり聞こえてくる。
だがレイラの口元は、どこか迷っているように閉じたままだった。
そんなレイラの様子に気づいたアシュラが、横目でちらりと覗き込む。
「……ん? どうかした?」
レイラは少し肩をすくめ、歩きながらぽつりと口を開いた。
「……あの日のこと……ずっと、お礼を言わなきゃって思ってたんだけど……言えてなかったなって」
「…………!」
アシュラの足が僅かに止まる。レイラもそれに気づいて立ち止まり、アシュラの方をまっすぐ見上げた。
「……助けてくれて、ありがとう。あの時……本当に怖くて、痛くて、何もできなかった。アシュが来てくれなかったら……って、今でも思う」
レイラの言葉には、感謝と、ほんの少しの悔しさが滲んでいる。
「…………」
アシュラは一瞬、何か言葉を探すように視線を泳がせたあと──ふっと微笑んだ。
「……生きてたから、いいんだ。それだけだよ」
「でも……」
「いいよ。それ以上は、言わないで」
優しいアシュラの声。
それでいて、まっすぐで──。
「お前がまたこうして歩いてて、リハビリしてて、俺に礼を言ってる。それで十分だよ」
「…………」
レイラは目を伏せ、そしてまた顔を上げる。
「……うん」
アシュラは軽くレイラの頭に手を伸ばすような仕草をしたが、触れることはせず、そのまま手を引っ込めた。
「さて……薊野さんにちゃんと付き添ってきたぞって報告しないとな。下手したらまた何か言われる」
「……ふふっ。確かに」
ふたりはまた歩き出す。
穏やかな沈黙と、互いを思いやる空気が、背中を押していた。
◇
レイラとアシュラが廊下を歩きながら談笑していると、角を曲がった先──ソファに深く腰を沈めている男の姿が見えた。
それは白衣の裾を膝にかけて脚を投げ出し、タブレット端末を片手に仏頂面をしているセセラ。
「……あ」
レイラが声を漏らすと、気がついたセセラも視線を上げ、ふたりを見つける。
「あー、ちょうどよかった。リハビリ、ちゃんと終えたか?」
「うん。……だいぶ痛みも慣れてきたよ」
レイラが答えると、セセラはわざとらしく目を細めた。
「……ほ~~ん? アシュラが付き添ったからって、張り切りすぎて無茶してねえだろうな」
「薊野さんこそ。こんなとこでお仕事? ……サボってるんじゃないの?」
少し睨むように返すレイラ。セセラは「はいはい」と手をひらひらさせて誤魔化す。
「で、アシュラ、どうだった? リハビリ付き添い」
「悪くなかったです。……レイラの方がよっぽどしっかりしてます。俺の方が気を使われてる気がしたくらいです」
「お前、それ言ったら付き添いの立場ねえじゃねえかよ!」
セセラはケラケラ笑いながらタブレットを閉じて立ち上がった。
「ま、レイラが元気そうでなにより。……調子良さそうでも、勝手に抜け出して遠出とかすんなよ?」
「しないよ……」
レイラはむくれたようにそっぽを向く。
アシュラはその様子を見て笑いながら、「……このやり取り、妙に落ち着くな」と呟いた。
「…………」
そしてセセラは最後にひとつ、僅かに真剣な目つきでレイラを見る。
「……焦んなくていいからな。お前はよくやってる」
「……!」
その言葉に、レイラはほんの少し驚いたように目を見開いたあと──小さく、でも確かに頷いた。
レイラとの軽口も一段落し、ふとアシュラが静かに口を開く。
「……薊野さん、リルに会わせてもらうことはできますか?」
唐突に振られたその問いに、セセラの表情がほんの少しだけ固くなった。
「……リルに?」
「はい。ここ最近……少し様子が違っているのはわかっています。無理は承知の上ですが、直接話してみたい」
セセラはしばらく無言でアシュラを見つめる。
「…………」
だがやがて、ふっと目を細め白衣の裾を軽く直すと小さく息をついた。
「……ま、正直あいつの今の状態だと、無闇に人を近づけたくねえってのはあるけどよ。……でも、お前なら大丈夫かもしれねえな」
「ありがとうございます」
「ちょうど今、ひとりで資料部屋の隅にいるはずだ。……長居はすんなよ。無理そうだったら引け」
「……はい」
アシュラは深く頭を下げ、その場を離れた。
◇
資料閲覧室。
機関の奥まった部屋。薄明るい照明のもと、資料棚の隅の椅子にリルはじっと腰を下ろしていた。
肘を膝に乗せ、組んだ指の間から床を見下ろすような姿勢。
「…………」
気配を察したのか、リルは扉の方に目を向ける。
「……アシュラ」
「よお」
アシュラは軽く手を挙げて近づいてくる。だが、リルはそのまま視線を逸らした。
「……機関の許可か?」
「ああ。薊野さんが出してくれた。リルに話がしたいって言ったら、『ちょっとだけ』ってな」
「…………」
リルは答えずに、しばらく沈黙する。
その空白に耐えるように、アシュラは静かに椅子を引いてリルの隣に腰を下ろした。
「……お前がひとりになりたいのはわかってる。でも、俺はお前が何も言わないまま壊れてくのは見たくないんだよ」
「……ッ……」
ようやくアシュラの方に顔を向けるリル。
「……オレ、そんなヤバそうに見えんの?」
「見えるよ」
アシュラのその一言は、冗談ではなかった。
だが、どこか優しくて、リルの心に僅かに届くものがあった。
「……だよな」
リルは乾いた笑いをひとつだけ零し、そしてまた前を向く。
「お前に、何ができるわけでもねえってのは、わかってる……」
「…………」
「……でも、今だけはこうしててくれよ」
「……!」
アシュラは言葉を返さず、ただ隣に座ったまま。その言葉を静かに受け止めていた。
静かに揺れる照明。
リルの俯いた顔に、蛍光灯の鈍い光が落ちる。
アシュラはその横顔を、まるで壊れものでも見るかのように、じっと静かに見ていた。
「……なあ」
そこでリルが、ぽそっと口を開く。
「オレってさ……人間のつもりでいたけど、違ったみたいだ」
「……それ、レイラにも言ったのか?」
「…………」
リルは答えなかった。だがその沈黙が、何よりの肯定。
アシュラは少しだけ口を歪める。
「お前は昔からさ……黙って全部、自分ひとりで処理しようとする」
図星を突かれたように、肩を小さく震わせたリル。
「……だって、誰かに見せたって、何かが変わるわけじゃねえだろ。つれえもんは、つれえまんまだし、オレの中身が人間じゃないのも、変わんねえ」
「……変わらないかもしれない。だけどな」
言葉を切らずに続ける。
「お前が何者でも、俺にとっては……あの家で一緒に飯食って、くだらないことで張り合って、雨の日にびしょ濡れで帰ってきた、お前は……お前だよ」
「……っ……」
「リル。お前の中の何かが人間じゃなくなっても、お前という存在を人間扱いするかどうかは……周囲じゃなくて、自分が決めるもんだろ」
その言葉に、リルは喉の奥を小さく鳴らした。
「……オレは……自分を……気持ち悪いって、思ってる。……怖いし……わかんなくなる。ときどき、自分の声が他人の声に聞こえるくらい……わかんなくなるんだよ」
「わからなくなってもいい。そういう時は、俺に聞け」
「…………」
アシュラの声は、決して強くない。
だが、何よりも重かった。
「お前が“お前じゃない”って思ったときも……俺は、ちゃんとお前を見てるから」
「…………ん……」
暗かったリルの瞳に、ようやく小さな光が戻っていた。
言葉にはならない何かが、喉元までせり上がる。けれど、それはまだ涙にはならなかった。
「……なあ……アシュラ。……もしも、オレが……本当に、完全に人間じゃなくなったらさ……」
「それでも、俺は“お前”を知ってる。変わらない」
「……っ」
リルの唇が僅かに震える。
「……お前って、ほんと、変わんねぇよな……」
「当たり前だ。俺はずっと西城アシュラだからな」
ほんの僅か。ほんの僅かに、リルの表情が緩んだ。
それが、どれほど長い時間ぶりだったかは誰も知らない。
「……かっけえ、マジで」
「ふふ、どんどん言ってくれ」
そして、その隣に寄り添う親友は、今日も変わらずまっすぐだった。
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木野もくば
ファンタジー
花の妖精のルイは、メジロのモクの背中に乗って旅をしています。ルイは記憶喪失でした。自分が花の妖精だったことしか思い出せません。失くした記憶を探すため、さまざまな世界を冒険します。
『イージス艦長、インパール最前線へ。――牟田口廉也に転生した俺は、地獄の餓死作戦を「鉄壁の兵站要塞」に変える』
月神世一
SF
【あらすじ】
「補給がなければ、戦場に立つ資格すらない」
坂上真一(さかがみ しんいち)、50歳。
かつてイージス艦長として鉄壁の防空網を指揮し、現在は海上自衛隊で次世代艦の兵站システムを設計する男。
背中には若き日の過ちである「仁王」の刺青を隠し持ち、北辰一刀流の達人でもある彼は、ある日、勤務中に仮眠をとる。
目が覚めると、そこは湿気と熱気に満ちた1944年のビルマだった。
鏡に映っていたのは、小太りで口髭の男――歴史の教科書で見た、あの「牟田口廉也」。
しかも時期は、日本陸軍史上最悪の汚点とされる「インパール作戦」決行の直前。
部下たちは「必勝の精神論」を叫び、無謀な突撃を今か今かと待っている。
(……ふざけるな。俺に、部下を餓死させろと言うのか?)
現代の知識と、冷徹な計算、そして海自仕込みのロジスティクス能力。
すべてを駆使して、坂上(中身)は歴史への介入を開始する。
精神論を振りかざすふりをして上層部を欺き、現地改修で兵器を強化し、密かに撤退路を整備する。
これは、「史上最も無能な指揮官」の皮を被った「現代の有能な指揮官」が、確定した敗北の運命をねじ伏せ、数万の命を救うために戦う、逆転の戦記ドラマ。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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